ゴールデンウィーク直前の週末、金曜日。
六時間目と七時間目の間の、短い休憩時間のときだった。
「湖城。ちょっと職員室に来て」
フランクな口調とはいえ、古文担当の田中先生から突然、呼び出しを受ければ誰だって身構える。
あやめだってそうする。
何かやってしまっただろうかと、自分自身の行いを思い出す。
居眠りの常習犯として色んな教師に目をつけられている斜め前の席の女子とは違い、あやめはどんな授業であろうと居眠りをしたことはない。
睡魔にはシャーペンを手のひらに突き刺してでも抗った。
遅刻をしたことも、勿論授業をサボタージュしたこともない。
提出課題はきちんと期限を守ってきたし、授業態度も至って真面目。
となれば、田中先生がわざわざ自分を名指しした理由は何なのか。
まさか昨日、米を買った帰り道で偶然出会ったから、そのときの話題をネタに職員室で和やかに話そうというわけでもないだろう。
雑談なら教室か廊下ですればいい。
人より胆力はあるつもりだが、大勢の教師の好奇の目に晒されるのはやはり勘弁願いたい。
あやめは教師の間でも有名なのだ。
呼び出されるような用件といえば、思い当たるのは一つだけ。
田中先生は複数の女子にセクハラをし、懲戒免職処分を受けた教師の後任だ。
しかし、あやめが問題の教師に豪快な回し蹴りを見舞ったのは一年も前のことである。
いまさらその件を掘り返すのだろうか。
懲戒免職された元男性教師が何か言ってきたのだろうか?
(もしそうだとしても、被害に遭っていた女子からは大いに感謝されたし、当時の担任の小野寺先生だって『回し蹴りはやりすぎだな』なんて皆の前では苦笑しつつも、二人きりになったときはこっそり褒めてくれたではないか)
階段を下り、廊下を歩き、職員室の前で立ち止まる。
職員室の扉は閉まっていた。
中からは複数の教師の話し声が聞こえてくる。
短い休憩時間中に雑談に興じるのは、教師も生徒も一緒らしい。
(反射的に蹴ってしまったことは反省している。しかしそれについては既に謝罪を済ませた。よって、恥じることなど何一つない。いまさら何を言われようと、私は屈しない!)
決戦に挑む武士のような心境で、ぐっと奥歯を噛み締める。
「失礼します!」
あやめは一声かけて、扉を引き開けた。
蓋を開けてみればなんのことはなく、田中先生が頼んできたのはクラス全員分のノートの返却だった。
「……どうしてわざわざ私を名指ししたんですか?」
田中先生の机に積まれているノートの山を見て、あやめは聞いた。
一冊は軽いとはいえ、三十冊ともなればそれなりの重量になる。
普通、力仕事は男子に任せるのがセオリーではないだろうか。
すると、田中先生は女子人気の高い整った顔を歪めて悪戯っぽく笑った。
「いやあ、昨日の勇姿が忘れられなくてね。湖城ならこれくらい余裕だろう」
田中先生はぽんぽん、とノートの山を叩いた。
どうやら彼は三十キロの米を肩に担いで平然と歩く様を見て感銘を受け、あやめを抜擢することにしたらしい。
「そうですか……」
勢い込んできた分、激しい徒労感を覚えた。セクハラ教師のことは全く関係なかったようだ。
気を取り直して、顎を引く。
「わかりました。返却しておきます」
「おう。ありがとう。気をつけてな」
「はい」
両手でノートを抱えると、気を利かせた別の教師が扉の開閉を担当してくれた。
ありがとうございます、と感謝を述べつつ、職員室を後にする。
あやめのクラスは三階にある。
階段を上っていると、何やら上からけたたましい足音が聞こえた。
誰かが駆け下りてくる。
視線を上げて見れば、斜め上、踊り場より先に姿を現したのは小柄な――といっても、あやめに比べれば女子は皆小さい――少女だった。
ふわふわしたセミロングの髪、顎にはほくろ。
肩に下げた学校指定の鞄には二つのキーホルダーが揺れている。
ハートに花と、いかにも女子が好きそうなラインナップだ。
帰り支度を済ませていることからしても、一年女子だろう。
金曜日、一年は二年よりも授業数が一コマ少ないのだ。
誰かと待ち合わせでもあるのか、少女は切羽詰まったような顔をしていた。
踊り場では手すりを掴んで遠心力を打ち消し、あやめがいる地点まで転がるように降りて来て、
目の前でその足が滑った。
とっさにあやめは両手に持っていたノートを片手に持ち替え、右の手のひらだけで支えた。
空いた左手でがしっ――と、小脇に抱えるようにして、体勢を崩した少女の身体を抱きとめる。
抱きとめた衝撃でノートが落ちそうになり、あやめは揺れに合わせて右手を振ることでなんとか均衡を保った。素晴らしいバランス感覚である。
六時間目と七時間目の間の、短い休憩時間のときだった。
「湖城。ちょっと職員室に来て」
フランクな口調とはいえ、古文担当の田中先生から突然、呼び出しを受ければ誰だって身構える。
あやめだってそうする。
何かやってしまっただろうかと、自分自身の行いを思い出す。
居眠りの常習犯として色んな教師に目をつけられている斜め前の席の女子とは違い、あやめはどんな授業であろうと居眠りをしたことはない。
睡魔にはシャーペンを手のひらに突き刺してでも抗った。
遅刻をしたことも、勿論授業をサボタージュしたこともない。
提出課題はきちんと期限を守ってきたし、授業態度も至って真面目。
となれば、田中先生がわざわざ自分を名指しした理由は何なのか。
まさか昨日、米を買った帰り道で偶然出会ったから、そのときの話題をネタに職員室で和やかに話そうというわけでもないだろう。
雑談なら教室か廊下ですればいい。
人より胆力はあるつもりだが、大勢の教師の好奇の目に晒されるのはやはり勘弁願いたい。
あやめは教師の間でも有名なのだ。
呼び出されるような用件といえば、思い当たるのは一つだけ。
田中先生は複数の女子にセクハラをし、懲戒免職処分を受けた教師の後任だ。
しかし、あやめが問題の教師に豪快な回し蹴りを見舞ったのは一年も前のことである。
いまさらその件を掘り返すのだろうか。
懲戒免職された元男性教師が何か言ってきたのだろうか?
(もしそうだとしても、被害に遭っていた女子からは大いに感謝されたし、当時の担任の小野寺先生だって『回し蹴りはやりすぎだな』なんて皆の前では苦笑しつつも、二人きりになったときはこっそり褒めてくれたではないか)
階段を下り、廊下を歩き、職員室の前で立ち止まる。
職員室の扉は閉まっていた。
中からは複数の教師の話し声が聞こえてくる。
短い休憩時間中に雑談に興じるのは、教師も生徒も一緒らしい。
(反射的に蹴ってしまったことは反省している。しかしそれについては既に謝罪を済ませた。よって、恥じることなど何一つない。いまさら何を言われようと、私は屈しない!)
決戦に挑む武士のような心境で、ぐっと奥歯を噛み締める。
「失礼します!」
あやめは一声かけて、扉を引き開けた。
蓋を開けてみればなんのことはなく、田中先生が頼んできたのはクラス全員分のノートの返却だった。
「……どうしてわざわざ私を名指ししたんですか?」
田中先生の机に積まれているノートの山を見て、あやめは聞いた。
一冊は軽いとはいえ、三十冊ともなればそれなりの重量になる。
普通、力仕事は男子に任せるのがセオリーではないだろうか。
すると、田中先生は女子人気の高い整った顔を歪めて悪戯っぽく笑った。
「いやあ、昨日の勇姿が忘れられなくてね。湖城ならこれくらい余裕だろう」
田中先生はぽんぽん、とノートの山を叩いた。
どうやら彼は三十キロの米を肩に担いで平然と歩く様を見て感銘を受け、あやめを抜擢することにしたらしい。
「そうですか……」
勢い込んできた分、激しい徒労感を覚えた。セクハラ教師のことは全く関係なかったようだ。
気を取り直して、顎を引く。
「わかりました。返却しておきます」
「おう。ありがとう。気をつけてな」
「はい」
両手でノートを抱えると、気を利かせた別の教師が扉の開閉を担当してくれた。
ありがとうございます、と感謝を述べつつ、職員室を後にする。
あやめのクラスは三階にある。
階段を上っていると、何やら上からけたたましい足音が聞こえた。
誰かが駆け下りてくる。
視線を上げて見れば、斜め上、踊り場より先に姿を現したのは小柄な――といっても、あやめに比べれば女子は皆小さい――少女だった。
ふわふわしたセミロングの髪、顎にはほくろ。
肩に下げた学校指定の鞄には二つのキーホルダーが揺れている。
ハートに花と、いかにも女子が好きそうなラインナップだ。
帰り支度を済ませていることからしても、一年女子だろう。
金曜日、一年は二年よりも授業数が一コマ少ないのだ。
誰かと待ち合わせでもあるのか、少女は切羽詰まったような顔をしていた。
踊り場では手すりを掴んで遠心力を打ち消し、あやめがいる地点まで転がるように降りて来て、
目の前でその足が滑った。
とっさにあやめは両手に持っていたノートを片手に持ち替え、右の手のひらだけで支えた。
空いた左手でがしっ――と、小脇に抱えるようにして、体勢を崩した少女の身体を抱きとめる。
抱きとめた衝撃でノートが落ちそうになり、あやめは揺れに合わせて右手を振ることでなんとか均衡を保った。素晴らしいバランス感覚である。