「なんということだ……」
姫野家の居間であやめは両手にA4のコピー用紙を持ち、激しく震えていた。
食い入るように見つめる先には髪をポニーテイルにした女子高生が描かれている。
星詠うららの現在の連載作品のヒロインだ。
模写が上手というレベルではない。
紛れもなく星詠うらら本人のイラストだった。
「まさか姫野さんが星詠うららその人だったとは……!!」
このイラストは五分ほど前に美春が描いたもの。
彼女がその白い繊手に4Bの鉛筆を持ち、魔法のようにヒロインを描き出していく様を、あやめは息を呑んで見ていた。
「うん、実は。みんなには内緒にしてね」
テーブルの斜め向かいに座る美春は照れたように頬を掻いた。
軽く俯いた拍子に、緩く波打つ長い茶髪が一房、肩から流れ落ちる。
抜けるような白い肌に、ぱっちりとした大きな瞳。
美春は繊細なガラス細工で出来ているかのような美少女だった。
彼女の斜め後ろには立派なキャットタワーがある。
姫野家では『茶太郎』という五歳の茶トラ猫を飼っているらしい。
元は野良猫だった茶太郎は警戒心が強く、来客中は大抵別室に逃げてしまうそうだ。
あやめは猫好きなため、挨拶もできないのは残念だった。
「もちろんだとも! まさかこんな身近に憧れの漫画家がいるとは! 明日学校に色紙を持っていくからサインをもらえないだろうか!? できればイラストも描いてほしい!」
「いいよ。誰がいい?」
「では『ときめきリミットデイズ』のミカでお願いしたい!」
「え、デビュー作まで読んでくれたんだ?」
美春は目を見張り、両手で桃色の唇を押さえた。
彼女は仕草のひとつひとつが可愛らしい。
大げさな仕草をすると鼻につきそうなものだが、彼女の仕草には全く嫌味がなく、ごく自然で、見ていてつい微笑みを誘われる。さすが尚の姉だけある。
「星詠先生の漫画は全作チェックしているぞ。夏の増刊号に載った読み切りもな」
出された炭酸ぶどうジュースを一口飲んでから、あやめは得意げに胸を張った。
「しかしそうか、これで姫野さんが授業中に居眠りする理由がわかったぞ。やはり学生の身で漫画を描くのは大変なのだろうな。商業作家として日々締め切りに追われているのだろうし――」
「……はる姉、授業中に寝てるの?」
(あ、しまった)
ジト目になった尚を見て迂闊な発言を後悔したが、もう遅い。
「大丈夫! 最近はちゃんと担当さんとも相談してスケジュールを調整してるから! 寝てないよ!!」
美春は両手と首を振ったが、尚の目つきは鋭いままだ。
「お母さんたちとも約束したよね? 漫画を描くのは認めるけど、学生のうちは学業優先だって」
「う……でも、商業作家のはしくれとして、クオリティを下げて読者さんの期待を裏切るわけには……はい。もう寝たりしません。以後気を付けますので、どうかお母さんたちには言わないでください」
縮こまる美春を見て、尚が嘆息する。
「言わないけどさ。やっぱりアシスタントさんを雇ったほうがいいんじゃない? ぼくが手伝ってるとはいえ、一人じゃ大変でしょう? 余裕を作って、勉学に励むべきだよ。この前の数学の小テストだって散々な――」
「わああああ! ストップ! もう! 尚くんは黙ってて!」
さすがにクラスメイトの前で己の成績を暴露されるのは嫌らしく、美春は大声で尚の台詞を打ち消した。
「……ぼくが勉強を見てあげてるのに」
尚が不満げに呟くのを、あやめは聞き逃さなかった。
「どういうことだ? 姫野くんが姫野さんの……ちょっとややこしいな……」
「尚でいいですよ」
「そうか? それでは姫野さんが一緒にいるときは遠慮なく尚くんと呼ばせていただこう」
年の近い異性の名前を呼ぶのは気恥ずかしさを伴ったが、あやめはその照れを表には出さずに尋ねた。
「尚くんが姫野さんの勉強を見てあげているのか? まだ習ってもいないのに?」
「はい。ぼく、勉強は好きなんですよ。特に理数系が得意なんですが、姉は数学が最も苦手な科目なので、試験前には姉の試験範囲を勉強して、教えてあげてるんです」
「……ちなみに、いつからだ?」
「一年くらい前からですね。高校に入って数学がますます難しくなったと姉が嘆くので、独学で学ぶようになりました」
美春が高校一年のとき、尚は中学三年生、受験生である。
(受験勉強の片手間に高校の数学を独学で学び、教える立場になるとは……!)
「……素晴らしい姉弟愛だ。尚くんは凄いんだな」
あやめはすっかり感心した。
「そんなことないですよ。教科書を読めば誰でもできることです」
『いや、できないと思う』
あやめと美春のツッコミは見事に重なった。
姫野家の居間であやめは両手にA4のコピー用紙を持ち、激しく震えていた。
食い入るように見つめる先には髪をポニーテイルにした女子高生が描かれている。
星詠うららの現在の連載作品のヒロインだ。
模写が上手というレベルではない。
紛れもなく星詠うらら本人のイラストだった。
「まさか姫野さんが星詠うららその人だったとは……!!」
このイラストは五分ほど前に美春が描いたもの。
彼女がその白い繊手に4Bの鉛筆を持ち、魔法のようにヒロインを描き出していく様を、あやめは息を呑んで見ていた。
「うん、実は。みんなには内緒にしてね」
テーブルの斜め向かいに座る美春は照れたように頬を掻いた。
軽く俯いた拍子に、緩く波打つ長い茶髪が一房、肩から流れ落ちる。
抜けるような白い肌に、ぱっちりとした大きな瞳。
美春は繊細なガラス細工で出来ているかのような美少女だった。
彼女の斜め後ろには立派なキャットタワーがある。
姫野家では『茶太郎』という五歳の茶トラ猫を飼っているらしい。
元は野良猫だった茶太郎は警戒心が強く、来客中は大抵別室に逃げてしまうそうだ。
あやめは猫好きなため、挨拶もできないのは残念だった。
「もちろんだとも! まさかこんな身近に憧れの漫画家がいるとは! 明日学校に色紙を持っていくからサインをもらえないだろうか!? できればイラストも描いてほしい!」
「いいよ。誰がいい?」
「では『ときめきリミットデイズ』のミカでお願いしたい!」
「え、デビュー作まで読んでくれたんだ?」
美春は目を見張り、両手で桃色の唇を押さえた。
彼女は仕草のひとつひとつが可愛らしい。
大げさな仕草をすると鼻につきそうなものだが、彼女の仕草には全く嫌味がなく、ごく自然で、見ていてつい微笑みを誘われる。さすが尚の姉だけある。
「星詠先生の漫画は全作チェックしているぞ。夏の増刊号に載った読み切りもな」
出された炭酸ぶどうジュースを一口飲んでから、あやめは得意げに胸を張った。
「しかしそうか、これで姫野さんが授業中に居眠りする理由がわかったぞ。やはり学生の身で漫画を描くのは大変なのだろうな。商業作家として日々締め切りに追われているのだろうし――」
「……はる姉、授業中に寝てるの?」
(あ、しまった)
ジト目になった尚を見て迂闊な発言を後悔したが、もう遅い。
「大丈夫! 最近はちゃんと担当さんとも相談してスケジュールを調整してるから! 寝てないよ!!」
美春は両手と首を振ったが、尚の目つきは鋭いままだ。
「お母さんたちとも約束したよね? 漫画を描くのは認めるけど、学生のうちは学業優先だって」
「う……でも、商業作家のはしくれとして、クオリティを下げて読者さんの期待を裏切るわけには……はい。もう寝たりしません。以後気を付けますので、どうかお母さんたちには言わないでください」
縮こまる美春を見て、尚が嘆息する。
「言わないけどさ。やっぱりアシスタントさんを雇ったほうがいいんじゃない? ぼくが手伝ってるとはいえ、一人じゃ大変でしょう? 余裕を作って、勉学に励むべきだよ。この前の数学の小テストだって散々な――」
「わああああ! ストップ! もう! 尚くんは黙ってて!」
さすがにクラスメイトの前で己の成績を暴露されるのは嫌らしく、美春は大声で尚の台詞を打ち消した。
「……ぼくが勉強を見てあげてるのに」
尚が不満げに呟くのを、あやめは聞き逃さなかった。
「どういうことだ? 姫野くんが姫野さんの……ちょっとややこしいな……」
「尚でいいですよ」
「そうか? それでは姫野さんが一緒にいるときは遠慮なく尚くんと呼ばせていただこう」
年の近い異性の名前を呼ぶのは気恥ずかしさを伴ったが、あやめはその照れを表には出さずに尋ねた。
「尚くんが姫野さんの勉強を見てあげているのか? まだ習ってもいないのに?」
「はい。ぼく、勉強は好きなんですよ。特に理数系が得意なんですが、姉は数学が最も苦手な科目なので、試験前には姉の試験範囲を勉強して、教えてあげてるんです」
「……ちなみに、いつからだ?」
「一年くらい前からですね。高校に入って数学がますます難しくなったと姉が嘆くので、独学で学ぶようになりました」
美春が高校一年のとき、尚は中学三年生、受験生である。
(受験勉強の片手間に高校の数学を独学で学び、教える立場になるとは……!)
「……素晴らしい姉弟愛だ。尚くんは凄いんだな」
あやめはすっかり感心した。
「そんなことないですよ。教科書を読めば誰でもできることです」
『いや、できないと思う』
あやめと美春のツッコミは見事に重なった。