けれど、さっきはっきりと見えたはずの長剣をしまった彼は、こちらへと大股で近付いて来た。

 私が居る方向へと、迷いなく。

 この周辺に、彼の妻が居るということ……私?

「嘘だろう……あれは、アーロン・キーブルクだ」

 ごくりと喉を鳴らしたモラン伯爵は独り言のようにして呟き、自分は何も知らない無関係だと言わんばかりに、そそくさと私から離れて行ってしまった。

 ……嘘でしょう。待って……私だって出来ることなら、逃げ出したい。

 彼が恐れて呟いたのは、亡くなってしまった夫の名前ではない? 将軍と呼ばれる人は何人も居たとしても、同姓同名はおかしいわ……。

 逃げ出したい。けれど、こちらへと近付いて来る男性の放つ圧が、これまでに感じたこともないくらいに、あまりに強過ぎた。

 まるで、恐ろしい蛇に睨まれて固まり、その後は捕食されるしかない蛙のように、私は身体が動かせない。

 とても楽しめるような事態ではないと楽団も気がついたのか、軽快な音楽は途絶え、ダンスを止めた周囲の貴族たちは息を殺したままだ。