「誰かのために、なんて中々思えることではないのよ。それってすごいことだと思うわ。……でも、まずは自分のことを一番に考えてほしい」
「そうかしら……、でも、ありがとう」
徐々に声が弱まってしまったため、後半の言葉はルイーズには届かなかったようだ。
エリーは、いつも他者を優先するルイーズに、まずは自分の気持ちを大切にしてほしいと願っているようだ。
「私、御祖母様のハーブ園で、ハーブを育てたいの。そんなことを言っても、認めてもらえる訳がないから、両親の言いつけ通り、学院の淑女科に入学したの。父は婚約者を見つけることを諦めてはいないから、淑女科にこだわっていてね。だから、従姉妹に協力してもらって、彼女の侍女になる約束をしてから、侍女科に転科したいと父を説得したわ」
「そうだったの。エリーの御祖母様は、領地でハーブを育てているのよね。それなら、最終的には侍女ではなく、ハーブ園で働きたいということなのね」
「そうなの。侍女科では医療や薬草学を学べるわ。その他にも様々な経験ができる。だから本当に楽しみなの。ルイーズには偉そうなことを言ってしまったけど、実際には自信がなくて不安だったの。——ルイーズも、今やりたいことが見つからなくても、色々な経験をしていくうちに見つかるかもしれないわ」
「うん、ありがとう。大丈夫、心配しないで。何だか、今とても清々しい気分なの。屋敷にも戻ったら、私もお父様に話してみるわ」
ルイーズの晴れやかな笑顔を見て、エリーはほっとした表情を浮かべた。
屋敷に戻ったルイーズは、リアムとミシェルがいるであろう図書室に向かった。
「リアム、ミシェル」
二人は姉の声に気付くと、読んでいた絵本から顔を上げて返事をした。
「姉上、お帰りなさい」「ねえたま、おかえり」
「ただいま。二人とも絵本を読んでいたの?」
「はい」「にいたまにね、よんでもらったの」
「そう、ミシェル良かったわね。リアムありがとう」
頷くリアムと笑顔のミシェル。
「そうだわ……。今日は二人に嬉しいお知らせがあります」
「何ですか」「なぁーに?」
「週末にエリーが我が家に遊びに来ます。二人とも何か予定はありますか?」
「エリーさんが……。予定はありません!」「ありましぇん!」
「そう、それなら良かったわ。当日は、エリーのために美味しいお菓子を三人で作って、お出迎えしましょうね」
「はい、楽しみです」「うん!」
エリーから「週末に屋敷へ訪ねていいか」と聞かれたルイーズは、嬉しさからすぐさま了承した。今思えば、あれは自分を心配したエリーの気遣いだったのだ、とルイーズは思った。
ルイーズは、目の前で喜ぶ二人を見つめながら、そんなエリーの気遣いに感謝した。
二人の喜ぶ姿を微笑ましく思いながら、図書室を後にしたルイーズ。
先ほど出迎えてくれた執事のトーマスに、父の所在を確認するや否や、侍女のローラと一緒に理解しているという顔つきで頷かれた。
二人は自分の顔を見ただけで、いつでも察してしまう。ルイーズは、そんな二人に感心しながら父親の執務室に向かった。
執務室には、父親のルーベルトと母親のエイミーが二人並んでソファーに座っていた。
さすが、出来る執事トーマスは、ルイーズの様子を見てエイミーにも声を掛けたようだ。
「ただいま戻りました、ルイーズです」
「どうぞ、入っていいよ」
部屋の中からルーベルトが返事をした。
「失礼いたします」
「ああ、今日はどうしたのかな?」
何故かルーベルトも緊張しているようだ。微妙に声が上擦っている。その声に釣られてか、ルイーズも少しばかり緊張したが、意を決して話し始めた。
「先日、これからのことを考える時間をくださいとお願いしたことを覚えていらっしゃいますか?」
「ああ、もちろんだよ」
何故か不安そうな顔で頷くルーベルトと、それに対し口火を切るルイーズ。
「あれから、これからのことを自分なりに考えたのです。今の私に何ができるのか、何がしたいのか。新しい婚約者はどうするのか。考えても、今の私に出来ることは分かりませんでした。新しい婚約者についても、今は考えられません。でも、やってみたいと思えるものが見つかったのです。
私、侍女科で様々な経験をしたり、新しいことに挑戦してみたいのです。どうか、侍女科で学ぶことを認めていただけませんか」
「…………」
「気持ちは決まっているのね」
「はい」
固まったままのルーベルトとは違い、エイミーはルイーズの表情を見て安心した様子だ。執事のトーマスや侍女のローラからも、考え込むルイーズの話を聞いていたのだろう。まさかこんなにも早く、思いの丈を聞かせてもらえるとは思っていなかったようだが。
我に返ったルーベルトは、ルイーズに尋ねた。
「淑女科が嫌なのか? 嫌ではないのなら、今のままで良いじゃないか。新しい婚約者を探すから、もう少し待っていなさい」
「あなた!」
「坊ちゃま!」
「坊ちゃまじゃない!」
大人たちのあたふたする様子を、呆然とした様子で見守るルイーズ。
「ルイーズ、お父様とお話をするから、お部屋に戻って宿題でもしていらっしゃい」
ルイーズは、笑顔のエイミーに頷き返すと部屋を後にした。
その後の執務室では、母親のエイミーと執事のトーマスから、お説教をされる父親ルーベルトの姿があったとか、なかったとか。
ルイーズが去った後の執務室では。
母親のエイミーが、父親ルーベルトの説得を始めていた。
「今回の婚約が駄目になったことで、あの子は将来について悩んでいたわ。
親の決めた婚約にも、素直に従って頑張ってきたのに……その結果が婚約白紙よ。
いつも周りのことを第一に考えるあの子が、自ら考え行動したの。その思いを、無にしたくないの。だから、私はあの子を応援するわ」
「分かっている……分かっているんだ。でも、娘には苦労してほしくないんだ。だから、婚約だって、領地が隣の彼奴の所に決めたんだぞ! なのに、彼奴の息子は! 一体ルイーズのどこに不満があるんだ!」
「坊ちゃま」
低音ボイスで主を呼びながら凝視するトーマス。
「だから、坊ちゃまというな! 怒ると坊ちゃま呼びをするのは止めてくれ」
「あなた、トーマスを怒鳴らないで」
ルーベルトをなだめるエイミー。
「それに、もう済んだことよ。ルイーズが前を向いているの。私たちが後ろ向きになってどうするの。貴方には、あの子の考えを受け入れて、背中を押してあげてほしいの」
「しかし、侍女科ということは……この先、婚約は考えていないということか?」
「それは、まだ分からないわ」
トーマスは、エイミーの体調を心配して、二人の会話に割って入った。
「奥様、体調を崩されたら大変です。もうお部屋にお戻りになられたほうがよろしいでしょう」
「そうさせてもらいますわ。後のことはお願いしても良いかしら」
「勿論です。私にお任せ下さい」
にっこりとほほ笑むトーマス。
「ありがとう、トーマス。お願いしますね」
「はい」
その後の執務室は、トーマスの独壇場となった。
ルイーズが自身の決心を両親に語った翌日。
ルイーズは、父親から侍女科への転科を認めてもらえたようだ。
話し合いの後、執務室で起こったであろうことを知らないルイーズは、少しばかり戸惑ったが二人に感謝した。もちろんトーマスにも御礼を伝えた。
今日はいつもより早い時間に学院へ到着した。
ルイーズは教室に入ると、授業の準備を整えてから事務室へと向かった。同じ階にあるため、始業時間までには戻ってこられるだろう。
多くの光が差し込む教室に比べると、事務室へ続く廊下は控えめな光を放っている。
ガラスシェードの照明と、窓から差し込む微かな光が、床のモザイク柄を照らしている。優し気なクリーム色の壁と、ダークブラウンの重厚なドアが相まって、凛とした空気を放っている。
室内からは教員の声が聞こえてきた。
ルイーズは昂ぶる気持ちを抑えつつ、ドアをノックした。
「お入りください」
ルイーズは、「失礼いたします」と言いながら室内に入った。
「おはようございます。早い時間から申し訳ありません。本日は、事務手続きに関する書類を頂きたく参りました」
丁度よく、淑女科の教員がいたようだ。
「何の書類かしら」
「淑女科から、侍女科に転科するための書類です」
教員は、戸惑いながらルイーズに尋ねた。
「ブランさん、あなたは確か、婚約者がいたわよね」
「はい。まだ、手続きの最中ですが、婚約は白紙になります」
「そうだったの……。それは残念だったわね」
「先生、お気遣いありがとうございます。でも、婚約のことでしたら、私は大丈夫です。
……もしかして、成績の関係で転科出来ないということもありますか」
「断定はできないけど、成績は大丈夫だと思うわ。あとは面接ね。それから、このことを御両親はご存じなのかしら」
「はい、知っています。転科することにも、許可をもらえました」
「それなら、面接だけど……侍女科の先生の予定を確認してからになるわね」
そんなやり取りを、離れた場所から見ていた人物がいた。
「ソフィア先生、少しよろしいかしら」
「院長先生、どうされましたか」
「その面接、今から三人で行いましょう」
「よろしいのですか?他の先生方は……」
「大丈夫よ。成績はクリアしているのよね? それにしばらくの間、他の先生たちの予定が空かないと思うわ」
「……。そうですね、分かりました。それから、ブランさんの成績については大丈夫です」
三人は、部屋の隅にある対面のソファーに腰をかけると話し始めた。
ルイーズは、二人からの質問に対し、答えられることには全て答えた。そして、婚約が白紙になってから今日までのことを正直に打ち明けた。
全て聞き終えた院長は、ルイーズと目を合わせると穏やかな口調で伝えた。
「そう、決意は固そうね。
それなら、私からは一つだけ……中々に難しいことだけど、今の気持ちを持ち続けて。その気持ちを忘れなければ、大丈夫よ」
「……はい」
ルイーズは、院長の温かな人柄に包まれて安堵した。
「それでは、侍女科への転科をお認めになるということでよろしいですね、院長先生」
「はい、許可します」
院長はルイーズに許可を伝えると、ソフィア先生を見て頷いた。
「かしこまりました。それではブランさん、そろそろ時間ですから、教室に戻るように」
「はい、ありがとうございました」
ルイーズは、二人にお辞儀をしてから事務室を後にした。
今日ここで、許可がでるとは思わなかったのだろう。
ルイーズは、新しい道を歩み始めることに、胸の高鳴りを抑えられずにいた。
事務室から教室へ戻ったルイーズは、エリーを見つけるとすぐさま近くへ駆け寄った。
「ルイーズ、おはよう。どうしたの、何かあったの?」
「エリー、おはよう。今、事務室に行ってきたの。急遽、院長先生とソフィア先生に面接をしていただけることになって、そこで転科の許可をもらったわ」
「えっ、もう面接をしたの? 早いわ……。でも、嬉しい。」
口調は抑えているが興奮気味のルイーズに、エリーは驚きと嬉しさで、中々言葉が出てこないようだ。
その時、始業の鐘が鳴り、急いで着席をする二人。その日は二人ともが嬉しさのあまり、そわそわと落ち着かない一日を過ごした。
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屋敷へ戻ったルイーズは、出迎えてくれたトーマスとローラ、そして御者のモーリスに、学院から転科の許可が出た事を伝えた。
今日は父親が仕事で不在のため、リアムとミシェルに会いに行った後は、母親の元に行っても大丈夫かの確認を取った。ルイーズは、ローラがマーサの元へ行くのを見ると、二人の所へ向かった。
「リアム、ミシェル、ただいま」
「姉上、お帰りなさい」「ねえたま、おかえり」
ルイーズは、笑顔で出迎えた二人を同時に抱きしめた。
きゃっきゃと喜ぶミシェルに、何かあったのかと心配するリアム。
「急にごめんなさい。今日は嬉しいことがあったの」
ほっと安心するリアム。
「嬉しいことなのですね、それなら良かったです」
「ねえたま、うれしいの? よかったね」
「二人ともありがとう、また後でお話しましょうね。それから……約束をしたお茶会だけど、三人でお菓子を作るでしょう。その時に、二人が食べたいと思うお菓子を、後で教えてくれる?」
「分かりました。ミシェルと考えておきます」
「ミシェルケーキたべたい」
「わかったわ、どんなケーキが食べたいか、後でお姉さまに教えてね。リアムもね」
「分りました」「うん、わかった」
二人と約束を交わしてから部屋を出ると、廊下ではローラが待っていた。ローラがマーサに確認をして、こちらに知らせてくれたようだ。
ルイーズは、部屋で待っているエイミーの元へ急いで向かった。部屋の前に着くと、ドアをノックするルイーズ。
「お母様、ルイーズです」
「どうぞ、入って」
部屋に入ると、エイミーはソファーに座ってルイーズが来るのを待っていた。
「失礼します。お母様、ごめんなさい。今日は、どうしても早くお母様にお話しをしたかったので、二人は一緒ではないのです」
「そんな時もあるわ。二人には、夕食の時にも会えるのだから、気にしなくて良いのよ」
「はい」
「ルイーズ、ここに座って。お話があるのでしょう」
ソファーへ座るように促され、ルイーズはエイミーの横に腰をおろした。
「お母様、昨日はありがとうございました。お父様に口添えしてくださったのでしょう?」
「そうね。お父様は、貴女に苦労してほしくないとおっしゃっていたわ。親として、その気持ちもわかるのよ。でも、貴女が『新しいことに挑戦したい』と言ったとき、私は嬉しかったの。
私は、学生の時に興味を持ったことがあっても、何もせずにその思いに蓋をしたわ。貴族令嬢として……、その思いが強かったのね。時代が許さなかったとしても、何かできたはず……。今なら、そう思うわ。だから、ルイーズとリアム、そしてミシェルの三人には、自分の気持ちを大切にしてほしいと思っているの」
母親の発言にあった、《貴族令嬢として》。それを聞いたルイーズは、この数日間、自身も何度そのことを考え、悩んだかを思い出した。だから、母親が自分の思いに蓋をしたことも良くわかるのだ。それでも、母は自分のことを応援してくれている。
ルイーズは、母親に感謝の念を抱いたようだ。
「お母様ありがとう。私、頑張るわ」
頷き返すエイミーに、ルイーズは今日の出来事を話し始めた。
「今日は、転科手続きのために事務室に行きました。その時、淑女科のソフィア先生と院長先生が、その場で面接をしてくれました。本当は、他の先生も交えて面接を行うそうですが、三人で面接をして、その場で転科を許可していただけました」
「そうなの、それは急展開ね」
「はい。その後、院長先生から『中々難しいことだけど、今の気持ちを持ち続けて。その気持ちを忘れなければ大丈夫』とお言葉を貰いました。院長先生と、対面でお話したことが初めてだったので、緊張しましたがとても嬉しかったです」
「そう……。院長先生が……」
エイミーは昔を懐かしむように、話し始めた。
「院長先生は、私が学院に通っていた時は、教員だったの。
グレース先生とお呼びしていたのよ。歳は離れているけれど、お姉様のような存在だったわ。
美しいだけではなく、知的で優雅で、それでいて寛容で……。学院に入学して教えを受けたとき、こんなにも素晴らしい人がいるのかと、感動したことを覚えているわ。私たちの世代では、憧れていた人が多いのではないかしら」
「そうなのですね」
「ごめんなさいね。一人で話し過ぎたわ。とても懐かしくなってしまって」
「いえ、そういう話を聞きたいです。学院にもようやく慣れてきて、まだ分からない事ばかりなので」
「そうよね」
「——お母様、一つお聞きしてもいいですか?」
ルイーズは、何となく人に聞くのが躊躇われることを、エイミーに尋ねることにした。
「何かしら? もう何十年も前の話だから、私のわかる範囲でよければ答えるわ」
「——上級生たちが、丘の上の修道院に身体を向けて、ひっそりと祈るところをよく見かけるのです。信仰心が篤い方たちなのでしょうか。上級生たちは、あの場所に出向かわれたことがあるのでしょうか。私は、まだ訪れてことがないので、伺ってみたいと思っていたのです」
ルイーズにとって、あの修道院は神聖な場所というイメージしかなかった。小高い丘の上に建つ象牙色の修道院は、その麓にある学院から見上げれば、寛容で温かな雰囲気だ。
エイミーには、ルイーズの言っていることがすぐに分かったようだ。