翌朝、早起きをしたルイーズは、屋敷の庭園を見て回っていた。季節は夏ということもあり、辺り一面には寒色系の花たちが咲き揃っている。庭師トムの力作である。
夏に合わせて植えられた東屋前のエリアでは、楚々たる風情の花たちが、清々しい朝の光に照らされている。
夏場は水やりの時間が早いため、朝早くからトムも作業をしていたようだ。ルイーズは、トムのそばに行き話かけた。
「おはよう、トムさん」
「おはようございます、ルイーズお嬢様。何かご入用ですか」
「ええ。この薄紫のカンパニュラを、お母様の部屋に飾りたいの」
「わかりました。用意して、マーサさんに渡しておきます」
「ありがとう。よろしくね」
朝食の時間が近づいているため、ルイーズは食堂に向かう。食堂に入ると、母親が席に着いていた。顔色も良いため、ルイーズは安心したようだ。
父親は仕事で、リアムとミシェルはまだ眠っているのだろう。
「お母様、おはようございます。今日は起き上がっても大丈夫なのですか」
「おはよう、ルイーズ。今日は気分がいいの。
それに、あたなたがくれたカンパニュラで、お部屋がとても明るくなったわ。ありがとう」
「それは良かったです」
「このハーブウォーターも美味しいわね」
「昨日、エリーからフレッシュハーブをもらったんです」
「そうなの。エリーちゃんにお礼を伝えてね」
「はい」
窓から差し込む光の中で、母親と過ごす穏やかな朝に幸せを感じるルイーズだった。
王都の中心地(王宮)から、馬車で南に40分ほど進むとカルディニア王立学園がある。
王立学園を起点として、東に1時間ほど進んだ場所に王国学院、西に30分ほど進んだ場所に王国女学院は位置している。
カルディニア王国学院と女学院は、あることをきっかけにして、50年前に創設された。それまでは、貴族子息も貴族令嬢も、共に王立学園で学ぶことを義務付けられていたのだ。
王国学院と女学院が創設されることになったきっかけは、当時王立学園に通っていたカルディニア王国第三王女の奇行である。周りからそのように捉えられた行動の一つが、他人の婚約者を略奪する行為だ。学園に入学するまでの第三王女の評判は「美少女」「奥ゆかしい」「淑女の鏡」など、大変評判の良いものばかりだった。
そんな人物が何故、と周りは騒然となった。
当時の国王や王宮関係者が第三王女の奇行に気付いた時には既に手遅れで、王立学園に通っていた高位貴族の子息たちは、軒並み籠絡された後であった。
その後始末で、嫡男の廃嫡や幽閉、国外追放など、高位貴族家は大いに荒れた。救いだったのは、下位貴族の子息たちのほとんどが手付かずであったこと。ただそれだけだった。
真実も解明されぬまま、当の第三王女は幽閉のみ。それには婚約を駄目にされた貴族家やその親族、関係者からの批判が殺到したが、国王はそれ以上の重い罰を与えなかった。
王政は衰退の一途を辿っていくと思われた。
しかし、第三王女の母親であり、当時の王妃は隣国ロードリアス王国の元王女であった。王妃並びに王家には、大国ロードリアスの後ろ盾があり、貴族家では謀反を起こす計画なども出ることはなく、決定に黙って従うほかなかった。今やそれらの話は禁忌事項で、口に出すのも憚られる。
その出来事が原因で、当時王国の議会では二つの議案が持ち上がった。
一つ目は〈学院〉と〈女学院〉の創設。この提案は表向き〈性別の特性に合わせた教育〉〈専門性知識の習得〉など、学園にはない科を設けるために、都合の良い理由が挙げられた。本来の目的は〈異性間トラブルの回避〉であることは貴族であれば誰しもが理解していることだった。
二つ目は、長年続いてきた男系継承に関する法改正の提案。これまでも、議会で何度か提案された議題であったが、女性の継承を認めない方向で話は進められていた。しかし今回の問題によって、継承できる男性の減少に伴い、女性の継承が認められることとなった。
議会では、その提案が何度も協議され、国王はそれを渋々ながらも認めたのだった。それにより、学院と女学院の創設が決定され、カルディニア王国の爵位継承制度にも変化が生じることとなった。
〈王立学園〉王族と王侯貴族、貴族家(公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵)の嫡男、嫡男ではなく爵位継承予定の者、養子となり爵位を継承するものが所属。
学科は貴族科
〈王国学院〉貴族家の二男、三男、庶子、庶長子、庶民が所属。
学科は騎士科・執事科
〈王国女学院〉貴族家の息女、庶子、庶民が所属。
学科は淑女科・侍女科
王国女学院の淑女科に関しては、王立学園時の淑女科がそのまま引き継がれる形となった。
王国学院と王国女学院は、どちらも庶民に門戸を開いている。しかし、多少なりとも学費が掛かるため、必然的に入学を希望した富裕層の庶民が入学することとなる。
こうして、カルディニア王国の教育環境と爵位継承制度は劇的な変化を遂げた。
決定された当初は、問題点が上がり捗々しくなかったが、それも年数を重ねるごとに落ちついていった。
婚約を白紙にすることが決まってから二日後の朝
ルイーズは馬車に乗って女学院に向かっていた。この時間は読書や考え事をしたり、景色を見てゆったりとした時間を過ごす。
自宅から女学院までの道程は、緑豊かな緑色から爽やかな空色の景色に変わっていく。ルイーズは今、そのゆったりと流れる色の変化を楽しんでいるようだ。
休日を挟んだことで、屋敷では穏やかなひとときを過ごせた。家族と過ごして心に余裕が出たルイーズは、馬車の中で昨日までの出来事を思い返していた。
(他の貴族家では許されないことかもしれないけど、折角与えられた貴重な時間。私に何ができるのか考えたい)
本来の貴族としての在り方を追いやるように、頭を横に振るルイーズ。固定観念や先入観から解放されたいのだろうが、それらを手放すのは簡単なことではないだろう。
今までは《決められた道を歩むのが当たり前》だと思っていたルイーズにとって、自分の道を作ることに、戸惑いと迷いが生じるのは仕方のないことだ。
考えに耽る中、エリーと母親の言葉が何度も何度も頭を過ぎった。
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しばらくして、馬車の窓から外の景色を眺めると、乳白色の建物が視界に入ってきた。その場所に続いている広い並木道を進めば、ルイーズの通うカルディニア王国女学院だ。
少し進んだところで、馬車はそのまま学院の門を潜り、広いエリアに馬車を停める。
ルイーズは開けられたドアから降りると、御者のモーリスに「ありがとう」と御礼を伝えた。
「とんでもないことです。ルイーズお嬢様、本日は一旦お屋敷に戻ります。授業が終わるころに、乗降場でお待ちしております」
「わかったわ、お迎えよろしくね」
今日は母親が馬車を使うのだろう。モーリスは馬を休憩させてから屋敷に戻り、また馬を交代して用事を済ませてから、学院に迎えに来てくれる。
お辞儀をして見送るモーリスに別れを告げると、ルイーズは入口に向かって歩き出した。
(屋敷から通える距離だと思って選んだ通学だけど、皆のことを考えたら、入寮を検討したほうが良かったかもしれないわね)
そんなことを考えながら歩いて行くと、学校の入口に辿り着いた。校内に入ると清廉な空気が漂っている。その空気を肌身に感じると、自然と気が引き締まるようだ。
廊下を歩き、一階奥にある自分の教室へ向かうと、クラスメイトに挨拶をして席につく。椅子に腰かけ、先日作成した〈Lノート〉を通学カバンから取り出すと、先ほどまで考えていたことを思いつくまま書き記していく。
* * * * *
馬車通学-自分以外の家族が使用するときモーリスが往復(お父様は乗馬も可能)
寮-家族や皆に中々会えない(帰宅は週に一回)
* * * * *
(自力で通学する手段でもあれば良いのだけど……)
ルイーズが何やら考えている間に、クラスメイト達が教室に入ってきたようだ。その中にはエリーもいて、ルイーズに声を掛けてきた。
「ルイーズ、おはよう。今日も早いわね」
「おはよう、エリー。この前はハーブとクッキーをありがとう。美味しくいただいたわ。
それに、母がとても喜んでいて、お礼を言っていたわ」
「それは良かったわ。おば様も、起き上がれる時間が増えたのかしら。またお邪魔したときにでも、体調が良ければご挨拶がしたいわ」
「ありがとう、母もきっと喜ぶわ」
ルイーズとエリーの母親は、女学院の同窓で仲が良かったようだ。お互いに屋敷へ招き入れ、お茶をするような仲である。娘たちも同年齢ということで、何度も引き合わされるうちに友情が芽生え、育まれたようだ。そのため、お互いの母親のこともよく理解しているのだろう。
廊下の方から教師の足音が聞こえてくると、エリーは「また、後でね」と囁いて、急いで席に着いた。
午前の授業が終わり昼食の時間。ルイーズとエリーは、裏庭のベンチでお弁当を食べていた。食堂で食べる時もあれば、天気の良いときは裏庭で昼食を食べる。
今日は込み入った話があるためか、裏庭に来たようだ。
「エリー、この間は私のことで心配を掛けてごめんなさい。
あの後、屋敷に帰ったら、おじ様とオスカーが来ていたの。オスカーが、私のことを『女性として見ることが出来ないから、婚約解消をして欲しい』と言ってきたわ。私はおじ様に、白紙を提案してそれが受け入れられたのだけど……。白紙の話が出てからオスカーの様子がおかしくて……。どうしても、解消か破棄が良かったみたい」
黙ってルイーズの話を聞いていたエリーが、眉間に皺を寄せながら、疑問を口にした。
「解消か破棄が良いだなんて、意味が解らないわ。何を考えているのかしら。でも、無事に婚約白紙できて良かったわ。ルイーズにとっては、これで良かったのよね」
「ええ。お互いに恋愛感情はなかったし、婚約も白紙にすることに決まったからほっとしたわ」
「そう……、それなら良かった。安心したわ」
婚約について話し終えたルイーズは、今悩んでいることをエリーに相談するために、話を切り出した。
「エリー、聞いてほしいことがあるの」
「どうしたの」
「先日のことだけど、エリーが淑女科から侍女科に転科する話をしてくれたでしょう?『将来の仕事につながる学びがしたい』と。話を聞いたとき、すごいと思ったわ。恥ずかしいけど、私…こんな状況になるまで、自分の将来について考えたこともなかったの。もう決まっていることだから。でも、婚約の話が無くなったことで、これからのことを考えてはいるのだけど、自分には何が出来るのか、何をしたいのかが分からないの」
「それは仕方がないわ。ルイーズの中では、将来の方向性が決まっていたのだから。
それが無くなって、戸惑うのも無理はないわ。それに何が出来るのかって話だけど……、初めは、今やっていることや出来る事、興味があること何でも良いと思うのよ。もちろん得意なことや好きなことでもね。例えば、時間がある時は何をしたい? 眠る前にふと考えることはなに?」
エリーに問われ、考えるルイーズ。
「家族やエリー、大切な人のことを考えることが多いわ。リアム、ミシェルともっと遊んであげたい。お菓子を作って食べさせてあげたい。毎日、母の部屋にお花を飾ってあげたい。父ともっと話をしたい。エリーと街にお買い物に行きたい。それから……昨晩はオスカーのことも考えたわ」
「そう…、最後はどうかと思うけど……。ルイーズは、人のお世話をするのが元々好きなのね。二人に接する姿を見て、母性が強いとは思っていたけれど。相手に何かをしてあげたいという気持ちは、相手の笑顔が見たい、幸せになってほしい、という思いからきているのよね、きっと……」
「そうね、幸せでいてほしいと思っているわ。そのために、自分は何が出来るのか——」
ルイーズは、エリーから言われたことで、心にあった何かが少しずつ繋がっていくような感覚を覚えていた。〈大切な人たちのために行動すること〉エリーのように〈自身のために前向きに行動すること〉自分には、前者だけだと思っていたルイーズは、自分の心を少しだけ理解できたようで嬉しくなった。
「誰かのために、なんて中々思えることではないのよ。それってすごいことだと思うわ。……でも、まずは自分のことを一番に考えてほしい」
「そうかしら……、でも、ありがとう」
徐々に声が弱まってしまったため、後半の言葉はルイーズには届かなかったようだ。
エリーは、いつも他者を優先するルイーズに、まずは自分の気持ちを大切にしてほしいと願っているようだ。
「私、御祖母様のハーブ園で、ハーブを育てたいの。そんなことを言っても、認めてもらえる訳がないから、両親の言いつけ通り、学院の淑女科に入学したの。父は婚約者を見つけることを諦めてはいないから、淑女科にこだわっていてね。だから、従姉妹に協力してもらって、彼女の侍女になる約束をしてから、侍女科に転科したいと父を説得したわ」
「そうだったの。エリーの御祖母様は、領地でハーブを育てているのよね。それなら、最終的には侍女ではなく、ハーブ園で働きたいということなのね」
「そうなの。侍女科では医療や薬草学を学べるわ。その他にも様々な経験ができる。だから本当に楽しみなの。ルイーズには偉そうなことを言ってしまったけど、実際には自信がなくて不安だったの。——ルイーズも、今やりたいことが見つからなくても、色々な経験をしていくうちに見つかるかもしれないわ」
「うん、ありがとう。大丈夫、心配しないで。何だか、今とても清々しい気分なの。屋敷にも戻ったら、私もお父様に話してみるわ」
ルイーズの晴れやかな笑顔を見て、エリーはほっとした表情を浮かべた。
屋敷に戻ったルイーズは、リアムとミシェルがいるであろう図書室に向かった。
「リアム、ミシェル」
二人は姉の声に気付くと、読んでいた絵本から顔を上げて返事をした。
「姉上、お帰りなさい」「ねえたま、おかえり」
「ただいま。二人とも絵本を読んでいたの?」
「はい」「にいたまにね、よんでもらったの」
「そう、ミシェル良かったわね。リアムありがとう」
頷くリアムと笑顔のミシェル。
「そうだわ……。今日は二人に嬉しいお知らせがあります」
「何ですか」「なぁーに?」
「週末にエリーが我が家に遊びに来ます。二人とも何か予定はありますか?」
「エリーさんが……。予定はありません!」「ありましぇん!」
「そう、それなら良かったわ。当日は、エリーのために美味しいお菓子を三人で作って、お出迎えしましょうね」
「はい、楽しみです」「うん!」
エリーから「週末に屋敷へ訪ねていいか」と聞かれたルイーズは、嬉しさからすぐさま了承した。今思えば、あれは自分を心配したエリーの気遣いだったのだ、とルイーズは思った。
ルイーズは、目の前で喜ぶ二人を見つめながら、そんなエリーの気遣いに感謝した。
二人の喜ぶ姿を微笑ましく思いながら、図書室を後にしたルイーズ。
先ほど出迎えてくれた執事のトーマスに、父の所在を確認するや否や、侍女のローラと一緒に理解しているという顔つきで頷かれた。
二人は自分の顔を見ただけで、いつでも察してしまう。ルイーズは、そんな二人に感心しながら父親の執務室に向かった。