一冊のノートを用意して、表紙には「L」の文字を書く。
日記ではなく、自分と向き合うためのノート、Lノートだ。
エリーの決意に触発されて、ルイーズもこれからのことを真剣に考えてみることにしたようだ。
まずは自分について書いてみるようだ。
** * * * * *
ルイーズ・ブラン ブラン子爵家 長女 16歳
カルディニア王国 出身
カルディニア王国女学院1年生 淑女科
髪色:ダークブラウン 髪の長さ:腰までのロングヘアー
瞳の色:グリーンアイ
(家族)
父 ルーベルト・ブラン 42歳
母 エイミー・ブラン 38歳
弟 リアム・ブラン 8歳
妹 ミシェル・ブラン 3歳
大切なもの:家族・家族同然の使用人のみんな・友人
好きなもの:植物(特にお花)・園芸・お菓子
嫌いなもの:特になし
得意なこと:料理(特にお菓子作り)
** * * * *
書き出した内容を読み返すルイーズ。
(これ以上は……、なにもないかな)
——侍女科のカリキュラムは家庭的なこと全般を学ぶ授業が多い
——もしルイーズが一緒だったら
ノートの端にエリーから言われた言葉を綴っているようだ。
きっと、カフェでエリーから言われたことを思い出しているのだろう。
エリーは何気なく言ったことかもしれないが、気持ちが落ちていたルイーズにとっては、嬉しい言葉だったようだ。
「私にできることって……、何だろう」
考えに煮詰まっていると、ルイーズの部屋をノックする音と共に、可愛い声が聞こえてきた。
「姉上」「ねえたまっ!」
ルイーズはその声を聞くだけで、頬が緩み口角が上がる。愛する弟と妹の声だ。
「どうぞ! 入って良いわよ」
普段は、帰宅すると弟と妹の部屋に向かうのだが、今日は男爵とオスカーに対応していたために、二人にはまだ会えていなかったのだ。
思考の沼に嵌まっていたルイーズは、考えることを一旦止めて、部屋に入ってくる二人に笑顔を見せた。
手をつなぎながら部屋に入ってきたリアムとミシェル。
二人はお目当ての姉を確認すると、顔を綻ばせながらルイーズに駆け寄ってきた。
「姉上、お帰りなさい」
「ただいま、リアム。ミシェルの面倒をみてくれてありがとう」
「いえ、ミシェルはいい子にしていたので大丈夫です」
ルイーズはリアムに微笑みながら頷いた。リアムからミシェルに顔を向け、ミシェルの目の高さに合わせるように屈んでから話しかけた。
「ミシェルはおにいさまの言うことをきちんと聞けたかな」
「うんっ! にいたまのゆうことちゃんときいたよ。ねえたまのこと、おへやでまってた」
「そう、偉かったわね。今日はお部屋に行けなくてごめんね、ミシェル」
「うん、いいよ」
かわいい妹から許しをもらい、ルイーズはミシェルの頭を優しく撫でた。
♦
三人は、ルイーズの部屋を出て、母親の部屋に向かっていた。
夕食前のこの時間は、母親のところで一日の出来事を話すことが日課になっている。
今日はいつもより遅いため、話せる時間は短くなってしまった。
母親のエイミーは、三年前の出産の際に出血の量が多く、二年前まではベッドの住人だったのだ。最近では、お茶会やパーティーに参加して、貴族夫人の義務を果たしている。それらの会に参加した翌日には、またベッドの住人となる。
ルイーズは、そんな母親の姿を見るといつも悲しい気持ちになる。
回復の兆しは見えてきたが、まだまだ症状は不安定だ。できることなら、全快するまでゆっくりしてほしい。しかし、貴族夫人としてはそうも言ってはいられないようだ。
母親は、弟がブラン子爵を継承するまで社交活動を続けるのだろう。
母親の部屋につくと、ノックをしてから声を掛ける。
「お母様、ルイーズです」
「リアムです」
「ミシェルでしゅ!」
「三人とも入って」
部屋の中から聞こえる優しい声。
「失礼します」
ベッドのヘッドボードに背を預けて、リラックスした様子の母親。
ルイーズは、いつもその姿を見ると安心する。
「お母様、お加減はいかがですか」
「ありがとう。大丈夫よ」
「それなら良かったです。夕食は食べられそうですか」
「ええ、折角だから皆でいただきましょう」
「はい、お食事はお部屋に用意していいですか」
ルイーズは、頷く母親を確認してからリアムの方に振り返る。
「リアム、今日のお夕飯はお母様の部屋で頂くと、お父様に伝えてきてくれるかしら」
「はい、伝えてきます」
「よろしくね」
「マーサ、お夕飯はお母様の部屋で取ることを料理長に伝えてほしいの、お願いね」
部屋に控えていた侍女のマーサにも、すぐさま伝えに行ってもらう。
「かしこまりました、ルイーズお嬢様」
リアムとマーサを見送ると、ミシェルを見る。少し眠たそうな表情だ。
ミシェルを抱き上げて母親のベッドに上げると、眠気眼で「かあたま……」と呟きながら、母親に手を差し出した。受け入れようとする母親に、ミシェルを預けると、安心したのかウトウトとし始めた。
「ルイーズありがとう。いつも二人の面倒を見てくれて、本当に助かっているわ」
「二人とも、私にとって可愛い弟と妹よ。好きで面倒見ているのだもの。お母様がそんな風に思わないで。ゆっくり療養して、良くなったら皆でお出かけがしたいわ。ピクニックとか楽しそう。きっと二人も喜ぶわ」
「そうね、楽しそう。二人の喜ぶ姿が目に浮かぶわ」
「…………」
母親と話しているうちに安心したせいか、ルイーズの目からほろりと涙が頬をつたった。
「ルイーズ、もっと私のそばに来てちょうだい」
自分の側に来たルイーズの手を、そっと握るエイミー。
「私の可愛いルイーズ。いつも家族を気遣い支えてくれて、本当に感謝しているわ。
ルイーズは頑張り屋さんだから、たまには自分を甘やかしてあげて。好きなものを食べて、好きなことをして……たまには家族に我儘を言って、困らせてもいいのよ」
「……うん」
ルイーズは、母親が自分を思ってかけてくれた言葉に、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
夕食後
ルイーズは、エリーからもらったフレッシュハーブを胸に抱えて、調理場へ向かった。
「料理長、今いいかしら」
「ルイーズお嬢様、いかがなさいましたか」
「今日、友人からフレッシュハーブをもらったの。明日、食事の際に出してもらえたらと思って、持ってきたの」
ルイーズは、料理長にフレッシュハーブを見てもらうために、紙袋を差し出した。紙袋を受け取り、袋の中を覗く料理長。
「良い葉ですね。このミントとレモングラスは、朝食の際にハーブウォーターとしてお出ししましょう」
「ありがとう。楽しみだわ」
♦
ルイーズが部屋に戻り学院の宿題をしていると、ノックをして部屋に入ってきた人物がいた。
「お嬢様、失礼いたします。
今日はお出迎えできず、申し訳ございませんでした」
ルイーズのお世話をしている侍女のローラだ。母親の専属侍女で侍女長でもあるマーサの娘で、二人は幼少の頃から姉妹のように過ごしてきた。マーサは、元々ルイーズの乳母であったため、ローラはルイーズの侍女となる前から、毎日一緒にいるのが当たり前の存在なのだ。
今日は前々から休暇を取っており、同じ職場仲間で見習い料理人のジョージと外出していたはずだ。。
「ローラ、大丈夫よ。それに、今日は仕事もお休みのはずでしょ。ミシェルのお世話もしてくれているのだから、お休みの日ぐらいはゆっくりしてほしいわ」
「それでも、私はお嬢様の《専属侍女》を自称しているのですから。
侍女長はまだ認めてはくれませんが……」
「マーサも、侍女としてのローラを認めてくれていると思うわ。でも、ミシェルの侍女が決まらないことにはね。それに、ミシェルのお世話を任せられるのは、ローラしかいないのよ」
「はい……。奥様と侍女長も、侍女の人数を増やすことや、ミシェルお嬢様の侍女に関してのお話し合いをなされていました」
「そう……そうよね」
「侍女としては、奥様と侍女長のご意向に従います。ですが、私個人としては、しばらくの間はこのままで様子を見ても良いのではないかと思っています。最近では、ミシェルお嬢様もご自身の思いを伝えることがお上手になってきましたしね」
「そうなのよね。今日も部屋に行けなかった私に『おへやでまってた』て言ってきたのよ。前はぐずるような仕草をしていたのに」
「えぇえぇ、分かります。その仕草も可愛すぎて、なんでもお願いを聞いて差し上げたくなってしまうのです。危険です、気を付けないとミシェルお嬢様の教育によろしくありません」
「ふふっ……そうね。うん、気をつけないとね」
「さあ、お嬢様。明日はせっかく学院もお休みなのです。明日のお休みを楽しむためにも、宿題がお済みになったら、就寝の準備をなさいましょう。ところで、明日は何かご予定はございますか」
「何もないわ。一日、家で過ごそうと思うの」
「かしこまりました。明日もお庭に出るようでしたら、朝早いお時間にお声をかけさせていただきますね」
「うん、そうしてもらえると助かるわ」
「かしこまりました。それではお嬢様、夜更かしなどせずに、早くお休みになられてくださいね」
「わかったわ。おやすみなさい」
「おやすみなさいませ、お嬢様」
ローラにミシェルのお世話も兼任してもらうようになってから、今まではローラにしてもらっていたお風呂から就寝前のやるべきことは、自分ですることにした。ローラの負担があまりにも大きいからだ。
(お母様もローラも、婚約が白紙になることをトーマスから聞いているはずなのに、話題に出さないでいてくれたわね。もし聞かれても、内容によっては返答に困るから、何も聞かずにいてくれてよかったわ)
翌朝、早起きをしたルイーズは、屋敷の庭園を見て回っていた。季節は夏ということもあり、辺り一面には寒色系の花たちが咲き揃っている。庭師トムの力作である。
夏に合わせて植えられた東屋前のエリアでは、楚々たる風情の花たちが、清々しい朝の光に照らされている。
夏場は水やりの時間が早いため、朝早くからトムも作業をしていたようだ。ルイーズは、トムのそばに行き話かけた。
「おはよう、トムさん」
「おはようございます、ルイーズお嬢様。何かご入用ですか」
「ええ。この薄紫のカンパニュラを、お母様の部屋に飾りたいの」
「わかりました。用意して、マーサさんに渡しておきます」
「ありがとう。よろしくね」
朝食の時間が近づいているため、ルイーズは食堂に向かう。食堂に入ると、母親が席に着いていた。顔色も良いため、ルイーズは安心したようだ。
父親は仕事で、リアムとミシェルはまだ眠っているのだろう。
「お母様、おはようございます。今日は起き上がっても大丈夫なのですか」
「おはよう、ルイーズ。今日は気分がいいの。
それに、あたなたがくれたカンパニュラで、お部屋がとても明るくなったわ。ありがとう」
「それは良かったです」
「このハーブウォーターも美味しいわね」
「昨日、エリーからフレッシュハーブをもらったんです」
「そうなの。エリーちゃんにお礼を伝えてね」
「はい」
窓から差し込む光の中で、母親と過ごす穏やかな朝に幸せを感じるルイーズだった。
王都の中心地(王宮)から、馬車で南に40分ほど進むとカルディニア王立学園がある。
王立学園を起点として、東に1時間ほど進んだ場所に王国学院、西に30分ほど進んだ場所に王国女学院は位置している。
カルディニア王国学院と女学院は、あることをきっかけにして、50年前に創設された。それまでは、貴族子息も貴族令嬢も、共に王立学園で学ぶことを義務付けられていたのだ。
王国学院と女学院が創設されることになったきっかけは、当時王立学園に通っていたカルディニア王国第三王女の奇行である。周りからそのように捉えられた行動の一つが、他人の婚約者を略奪する行為だ。学園に入学するまでの第三王女の評判は「美少女」「奥ゆかしい」「淑女の鏡」など、大変評判の良いものばかりだった。
そんな人物が何故、と周りは騒然となった。
当時の国王や王宮関係者が第三王女の奇行に気付いた時には既に手遅れで、王立学園に通っていた高位貴族の子息たちは、軒並み籠絡された後であった。
その後始末で、嫡男の廃嫡や幽閉、国外追放など、高位貴族家は大いに荒れた。救いだったのは、下位貴族の子息たちのほとんどが手付かずであったこと。ただそれだけだった。
真実も解明されぬまま、当の第三王女は幽閉のみ。それには婚約を駄目にされた貴族家やその親族、関係者からの批判が殺到したが、国王はそれ以上の重い罰を与えなかった。
王政は衰退の一途を辿っていくと思われた。
しかし、第三王女の母親であり、当時の王妃は隣国ロードリアス王国の元王女であった。王妃並びに王家には、大国ロードリアスの後ろ盾があり、貴族家では謀反を起こす計画なども出ることはなく、決定に黙って従うほかなかった。今やそれらの話は禁忌事項で、口に出すのも憚られる。
その出来事が原因で、当時王国の議会では二つの議案が持ち上がった。
一つ目は〈学院〉と〈女学院〉の創設。この提案は表向き〈性別の特性に合わせた教育〉〈専門性知識の習得〉など、学園にはない科を設けるために、都合の良い理由が挙げられた。本来の目的は〈異性間トラブルの回避〉であることは貴族であれば誰しもが理解していることだった。
二つ目は、長年続いてきた男系継承に関する法改正の提案。これまでも、議会で何度か提案された議題であったが、女性の継承を認めない方向で話は進められていた。しかし今回の問題によって、継承できる男性の減少に伴い、女性の継承が認められることとなった。
議会では、その提案が何度も協議され、国王はそれを渋々ながらも認めたのだった。それにより、学院と女学院の創設が決定され、カルディニア王国の爵位継承制度にも変化が生じることとなった。
〈王立学園〉王族と王侯貴族、貴族家(公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵)の嫡男、嫡男ではなく爵位継承予定の者、養子となり爵位を継承するものが所属。
学科は貴族科
〈王国学院〉貴族家の二男、三男、庶子、庶長子、庶民が所属。
学科は騎士科・執事科
〈王国女学院〉貴族家の息女、庶子、庶民が所属。
学科は淑女科・侍女科
王国女学院の淑女科に関しては、王立学園時の淑女科がそのまま引き継がれる形となった。
王国学院と王国女学院は、どちらも庶民に門戸を開いている。しかし、多少なりとも学費が掛かるため、必然的に入学を希望した富裕層の庶民が入学することとなる。
こうして、カルディニア王国の教育環境と爵位継承制度は劇的な変化を遂げた。
決定された当初は、問題点が上がり捗々しくなかったが、それも年数を重ねるごとに落ちついていった。
婚約を白紙にすることが決まってから二日後の朝
ルイーズは馬車に乗って女学院に向かっていた。この時間は読書や考え事をしたり、景色を見てゆったりとした時間を過ごす。
自宅から女学院までの道程は、緑豊かな緑色から爽やかな空色の景色に変わっていく。ルイーズは今、そのゆったりと流れる色の変化を楽しんでいるようだ。
休日を挟んだことで、屋敷では穏やかなひとときを過ごせた。家族と過ごして心に余裕が出たルイーズは、馬車の中で昨日までの出来事を思い返していた。
(他の貴族家では許されないことかもしれないけど、折角与えられた貴重な時間。私に何ができるのか考えたい)
本来の貴族としての在り方を追いやるように、頭を横に振るルイーズ。固定観念や先入観から解放されたいのだろうが、それらを手放すのは簡単なことではないだろう。
今までは《決められた道を歩むのが当たり前》だと思っていたルイーズにとって、自分の道を作ることに、戸惑いと迷いが生じるのは仕方のないことだ。
考えに耽る中、エリーと母親の言葉が何度も何度も頭を過ぎった。
♦
しばらくして、馬車の窓から外の景色を眺めると、乳白色の建物が視界に入ってきた。その場所に続いている広い並木道を進めば、ルイーズの通うカルディニア王国女学院だ。
少し進んだところで、馬車はそのまま学院の門を潜り、広いエリアに馬車を停める。
ルイーズは開けられたドアから降りると、御者のモーリスに「ありがとう」と御礼を伝えた。
「とんでもないことです。ルイーズお嬢様、本日は一旦お屋敷に戻ります。授業が終わるころに、乗降場でお待ちしております」
「わかったわ、お迎えよろしくね」