イーサンに脅されて契約書を書いたその帰り。家に帰ると、屋敷の使用人たちが大騒ぎしていた。とんでもなく偉い客が――ウェンディに会いに来ているのだと。「一体どこに行っていたんですか!」と責められながら応接室に引っ張られる。
「ちょ、何!? 誰が来てるっていうのよ」
「いいから早く来てください! 旦那様と一緒にお待ちですから!」
いつになく切羽詰まった様子の使用人に促されて応接間に入り、瞠目とする。そこには真っ赤なバラの花束を持った見目麗しい男が立っていた。
「わ、イケメン」
つい口から零れた言葉に、父親は慌てふためく。しかし男はにこやかな表情のまま謝罪する父を宥め、こちらに名乗った。「第1王子のエリファレット・ベルジュタム」――だと。
(第1王子様が私に何の用? まさかまた不敬罪がどうとか言い出すんじゃ……)
つい先程までのトラウマが蘇り、額に汗が滲む。父に言われるがまま、エリファレットの向かいに立ち、不慣れなカーテシーを見せてから腰を下ろした。
目の前に座るエリファレットは、イーサンとはまた違う系統の美男子だった。漆黒の髪にきりっと切れ上がった藍色の瞳。爽やかな雰囲気に優顔のイーサンに対して、エリファレットは落ち着いた佇まいで、暗い夜に浮かぶ月のような怜悧な美貌を持つ。
「第1王子殿下が、どうしてこのような場所までおいでになったのでしょうか」
そして、彼の口から1番に告げられたのは――。
「――ウェンディ嬢。あなたに求婚をしに来ました」
「…………」
突拍子もない申し出だが、本日二度目ともなれば慣れたものだ。もはや一周まわって冷静にすらなってくる。一方、隣に座る父は衝撃と動揺のあまり紅茶を飲み損じて、だらだらと唇から零している。
「ど、どうして娘なのですか……!? うちの娘は、親の私が言うのもなんですが、年頃の娘らしくなく部屋に篭って空想に耽ってばかりで、取り立てて褒めるところもなく……」
「取り立てて褒めるところがないですって? いいえ、彼女の物語を紡ぐ力は素晴らしい才能です。あなたは娘さんを過小評価し過ぎでは」
「……」
父とウェンディは顔を見合わせる。普通、ウェンディが書くような大衆小説は、貴族からは敬遠されがちだ。それを王族である彼が褒めるなんて本来ありえない話。
それに、元婚約者からはウェンディが作家活動に没頭するせいで軽蔑されていた。
するとエリファレットは、「自分は実はウェンディのファンなんです」と続けた。
「ご存知の通り、私には妃がひとりおりました。不幸にも彼女は病気を患い他界しました。しかし私にも立場があり、新しい妃を迎えるように上から言われているのですが、なかなかそういう気持ちになれず……」
「あ、当たり前のことです。殿下のお心の痛み、お察しいたします」
「ありがとうございます。エイミス男爵殿。妻のことで思い悩んでいたとき、ウェンディ嬢の小説に出会ったのです」
エリファレットは切々とした様子で語った。
「……ずっとあなたの作品に励まされていました。朗読会やサイン会に通ううちに、作家であるウェンディ嬢自身にも惹かれる自分がいました。先日、婚約破棄になったと伺い、この機を逃すまいとここに来た次第です」
「まぁ……私の朗読会に?」
「はい。頻繁に通っていました」
「!」
ウェンディの朗読会は、恋愛話が好きな女性ばかりが集まる会だ。平日の昼間にやっているので、一部の主婦しか集まらないこじんまりとした規模のもの。
「へえ、そうだったんですか。娘からは女性客しか来ないと聞き及んでおりましたが……」
「え、そうなんですか?」
「はは、それは殿下が1番よくご存知のはずでしょう」
「あ……ええ。もちろん」
そんなやり取りを父とエリファレットがしているが、考え事に夢中のウェンディの耳には入って来ない。
男性客は、ウェンディが記憶する限り――たったひとりしかいない。いつも外套のフードを被っていて、口元はマスクで覆っていて。その人は、朗読会、販売会、サイン会、登壇イベント、どこにでも現れてくるウェンディの熱心なファンだ。ウェンディにとって、初めてできたファンが彼であり、思い入れがある相手。
彼は決まって宛名入りのサインを書くとき、いつも『ノーブルプリンスマン』と書いてほしいと頼んでくる。どこかの国の王子様みたいなあだ名ですね、なんてやり取りをしたのを覚えているが、まさか……。
(まさか、そんな……)
ウェンディはばっとソファから立ち上がり、前のめりになりながら言った。
「あ、あなたはまさか、ノーブルプリンスマンさん!?」
「はい……? なんでしょう、その珍妙な名は」
「えっと……私の昔からのファンで……。とてもとても大事な人なんです。ごめんなさい、違いますよね。いくらなんでもこんな安直なあだ名、王子様が使うはずないですよね」
乾いた笑いを浮かべながら座り直すウェンディ。もしエリファレットが自分のことをノーブルでプリンスな男だと称していたら、ちょっと短絡的すぎるだろう。
しかし、ノーブルプリンスマンはデビューする前の下積み時代から応援してくれて、ウェンディにとっても励みになっていた人。いつか顔を見てお礼が言えたらいいと思っていたのだ。がっかりした様子で肩を落としていると、エリファレットが言った。
「いえ。俺がノーブルプリンスマンです」
「……ですが今、知らないような反応をされていましたが……」
それに、珍妙な名前だと困惑気味に言ってきた。
「いいえ。俺で間違いありません」
「…………!」
そうきっぱりと断言する彼。ウェンディはぱっと表情を明るくさせ、両手を合わせた。
「本当ですか? 嬉しいなぁ……。ずっとこうしてお話できたらって思っていたんです。私、プリンスマンさんのおかげでここまで頑張ってこれたと言ってもおかしくないから」
「…………」
「どうしよう、感激して涙が……っ。ふふ、ごめんなさい。私ったら人前で恥ずかしい……」
嬉しくなってとめどなく溢れてくる涙を指で拭うと、エリファレットはなぜかきまり悪そうに目を逸らした。
本当の名前も、年齢も、身分も何も分からない大事なファンが、こうして本来の自分を打ち明けてくれたことが嬉しかった。浮かれているウェンディに対し、エリファレットはバツが悪そうに一度咳払いして、本題に話を戻した。100本近くありそうなバラの花束を、求婚の了承の印に受け取ってほしいと告げられる。
「…………」
「どうか、しましたか?」
彼は当然受け入れるものと思っている様子だった。身分があまりにも格上の相手からの求婚。ただの男爵令嬢に拒む権利は本来ならない。しかし、ウェンディは花束を受け取らずに沈黙した。
「おいウェンディ。何をぼさっとしているんだ。早く受け取れ! 殿下に失礼だぞ」
父は、先日の婚約破棄騒動でウェンディの女としての名誉に傷がつき、二度と嫁の貰い手は見つからないだろうとひどく落胆していた。そこに現れた第1王子という破格の階級からの求婚は、願ってもいないものだろう。しかし――。
「……なさい」
「?」
「――ごめんなさい。その花束は、お受け取りすることができません。実は私、つい先程別の方と――結婚をしてきたんです」
「「え?」」
驚く父とエリファレットに、その相手が第3王子イーサンだと伝える。それが契約結婚であることは伏せて。下級貴族相手ならまだしも、相手が同じ王族であれば、簡単に契約を覆すことはできない。イーサンの名前を出すと、それまで穏やかだったエリファレットの表情が、露骨に険しくなる。
「……チッ、愚弟め」
その呟きは、「どういうことなんだ!?」とウェンディに迫り混乱する父の声に掻き消され、誰の耳にも届かなかった。
「――ということで、大変身に余る光栄なお話ですが、お断りさせていただきます」
「……そうですか。分かりました。こちらこそ押しかけてしまってすみません」
「いえそんな。とんでもありません」
玄関までエリファレットを見送り、ウェンディは最後にそっと微笑みかけた。
「――またきっと、朗読会にいらしてください。プリンスマンさん」
「……はい。ぜひ」
彼も寂しげに微笑み、帰っていくのだった。彼が出ていって扉が閉まったあと、父が言った。
「いいのか? ウェンディ。エリファレット殿下はお前にとって――泣くほど大事な相手なんだろう。彼と一緒になった方が、お前は幸せなんじゃ……」
「……」
もし、イーサンと契約を結んでさえいなければ、自分の作品を好きだと言ってくれるファンと結婚できていたのだろう。ノーブルプリンスマンは、ウェンディにとって最も思い入れのあるファン。
後悔がないと言えば嘘になる。ウェンディは今までに経験したことのないような胸のざわめきと切なさを感じた。
◇◇◇
「おい!! 一体どういうつもりだ! イーサン!」
王宮の離れにて、数名の護衛を付き従えたエリファレットが、イーサンの寝室の扉をばんっと開け放つ。
寝台でクッションにもたれながらウェンディの小説を読んでいたイーサンが、忌々しそうに顔を上げる。外した眼鏡をサイドテーブルに置き、閉じた本を片手に寝台を下りた。
エリファレットはずかずかと汚れた靴で絨毯を踏み歩き、イーサンのナイトウェアの襟元を掴み上げる。
「手荒な真似はおやめください。兄上。こんな夜中に押しかけてきて謝罪のひと言もないのは、礼儀に欠けるのでは?」
「黙れ! そんなことはどうでもいい。それよりも説明しろ! ウェンディ・エイミスの婚姻を結んだというのはどういうつもりだ!?」
せっかくの毎夜のルーティンの読書時間を邪魔され、ただでさえ不愉快なのに、エリファレットの耳障りな怒鳴り声が、がんがん頭に響く。
「別に、そのままですよ。彼女に求婚し、正式に婚姻を結んだ。何か問題でも?」
「ふざけるな。あの娘の婚約を破棄させるために俺が根回ししていたことを知っていたくせに」
「はは。ええ、知っていました。あなたがウェンディ先……さんを軟禁して、自分の評判を上げるための小説を書かせようとしていらしたこともね」
イーサンは唇に乾いた笑いを浮かべた。
ウェンディが公開婚約破棄されたのは、エリファレットの思惑が背景にあった。侯爵家の令嬢エリィに好意を抱いていた元婚約者のロナウドをそそのかして、想い人と結婚できるように環境を整えると約束した。実際に、ロナウドを婿入りさせるように侯爵夫妻に口添えまでした。
そして、ウェンディを社交界で孤立させるため、女として欠陥があると見せしめるかのように公の場で恥をかかせたのだ。
「彼らがうまくいくとは思えません。リューゼラ侯爵家は多額の借金を抱えている。その事実を伏せて婚姻を斡旋したようですが、すぐに明らかになるでしょう」
ロナウドに、多額の借金を返していくような気概はないように思えてならなかった。
「あの男はただの駒に過ぎない。不幸になろうとどうでもいい」
彼はいつも、利用するだけ利用して、役に立たなくなったら残酷に切り捨ててきた。――元妃でさえも。
(……つくづく、横暴で冷酷な人だ)
呆れたように冷めた眼差しを向ける。次期国王の地位を失ったのは、そういうところだぞ――と。
「ウェンディ先……さんに、兄上を讃えるような小説は書かせません。……それに、あなたは一度だって彼女の本を読んだことなどないのでしょう」
「大衆小説は下賎の民の卑しい娯楽だ。興味もない」
卑しい娯楽とばっさり切り捨てる彼。ウェンディの小説を馬鹿にされて腹が立ち、拳をぎゅっと握り締める。
「彼女の物語は、誰かの心に寄り添い、励ましてくれるものです」
「そして――孤独な王子の心を慰めたってか?」
「……はい」
イーサンは王宮の中で孤立していた。なぜなら、半分は高貴な王族の血、半分は賎しい娼婦の血が流れているからだ。婚外子のイーサンは本邸に居住することができず、離れでひっそりと息を潜めて暮らしてきた。
生きているだけで懐疑的な目を向けられる。罪人のように生きる日々の中、イーサンにとってウェンディの物語だけが楽しみだった。
「だから、彼女を政治利用するなど――絶対に許しません。僕が絶対にさせない」
「お前に何ができるって言うんだ! 賎しい売女の血を引いた紛い物のくせに!」
「紛い物で結構」
婚外子であろうと、半分は王族。王族としての権利は有している。これまで他の王子たちの顔色を窺い、決して自分の主張をすることはしてこなかったが、ウェンディに手出ししようとするなら見逃すことはできない。
エリファレットにも体裁がある。王子の妻であれば、ウェンディに簡単に手出しできないだろう。
イーサンは鋭い眼差しで兄を射貫き、はっきりと告げる。
「父上の評価を挽回し、王位を継ぎたいのなら――楽をしようとしないで、自分の力を尽くすべきです」
「〜〜〜〜! ……半分偽物のくせに、生意気な……!」
彼は怒りで顔を真っ赤にし、歯ぎしりした。八つ当たりするようにイーサンの手から本を奪い上げ、床に叩きつけて部屋を出て行った。
叩きつけられてページが広がった小説。その表紙裏には、この本の著者であるウェンディのサインが書かれてきた。
その宛名は――『ノーブルプリンスマン』だった。