これはまだ、ウェンディが売れっ子作家になる前の話。

(最悪……。初めての販売会なのに――ひとりも来ないなんて……!)

 書店の会場で、ウェンディは項垂れた。ようやく念願叶って出版に漕ぎ着けて、数作目の発売日で販売会を開くことになったはいいものの、今日はあいにくの――大雨。
 せっかく読者と話ができると期待していたが、この雨では誰も来れないだろう。

「お嬢ちゃん、残念だが今日は諦めて帰った方がいいんじゃないかい? 風が強くなる前に……」
「嫌ですよ絶対! もしかしたら私の大切なファンが来てくれるかもしれないじゃないですか!」
「そうかいそうかい。なら好きにするといいよ。雨が降ろうが降らまいが、どうせ誰も来ないと思うがねぇ。……風邪引いてもわしは知らないよ」

 好意で書店を会場に貸してくれた高齢の店主は、嫌味を零して家の方に戻ってしまった。机をどんと拳を叩き、歯ぎしりする。

(何あの嫌味なおじいちゃん! 誰も来てくれないのは雨のせいに決まってる……よね!?)

 うんうんと首を縦に振り、必死に自分に言い聞かせるが、本当は彼が言ったように、駆け出し作家の自分にはファンがいないのかもしれない。自分の作品は、誰にも必要とされていないのではないか。そんな風に考えたらなんだか切なくなってきた。するとそのとき――。

「こんにちは。ウェンディ先生……ですか?」

 初めて『先生』と呼ばれて、はっと顔を上げると、不思議な格好の青年が立っていた。フードを深く被り、口元を布で覆って姿を隠している。唯一確認できる緑色の瞳と視線がかち合ったとき、彼はウェンディの姿を見て目を大きくして固まった。

「私がウェンディです。あの……どうかしましたか?」
「あ、いえ……。先生がこんなに綺麗な方とは思わなくて……」
「あらやだっ、お世辞が上手ですね」

 ふふと上品に笑って、おどけた様子で頬に手を添える。ウェンディはおべっかを言っているのだと全く間に受けなかったが、青年の方は頬を染めて目を伏せた。そして、一冊の本をこちらに差し出し、サインをお願いしますと言った。初めてサインを求められたウェンディは感激し、目を輝かせる。

「はい、喜んで……! あの、私の本はどうして知ってくださったんですか!? それに、私の本は女性向けの恋愛小説ですけど、男性目線で感想とか気になったこととかがあったら教えてほしいです! それからそれから、」

 身を乗り出して興奮気味に質問攻めにすると、彼は困惑して何度か目を瞬かせたあと、ふっと笑った。
 ウェンディは我に返り、口に手を当てて一歩下がる。

「あ……ええと、ごめんなさい。つい嬉しくて……」
「謝らないでください。先生の本はたまたま書店で見つけて買いました。……とても面白かったです。最初から最後までテンポが良くてするする読めました。ああでも、3章の1令嬢がピアノの練習をするところに違和感がありました」
「ええっ、どうしてですか?」
「令嬢は爪を伸ばしているそうですが、ピアノを嗜む人は、基本的に爪を短くした状態を維持するんです。特に、優れた演奏家で爪を伸ばしっぱなしにするのは考えられません」
「た、確かに……」
「それから、4章の指揮者のセリフ、すごく良かったです」
「本当ですか!?」

 彼はウェンディの本の内容をかなり読み込んでいて、設定の矛盾を指摘し、良かったところも熱心に語ってくれた。ウェンディは、自分の本の感想を初めて読者から聞けて、終始感激しっぱなしだった。

 夢中になって話をしていたら、いつの間にか外の雨も上がっていた。話に集中するあまり、サインを書いていないことに気づく。サインの宛名はなんと書けばいいかと聞くと、彼は顎に手を添えて散々悩んだ挙句、『ノーブルプリンスマン』という変なあだ名を答えた。
 ウェンディはひと文字ひと文字真心を込めてサインを書き、手渡しした。

「雨で髪もお洋服も濡れてます。風邪を引いたら大変……。今日はどちらからいらしたんですか?」

 サインを渡してから、ウェンディはハンカチを取り出して、彼の服を拭いた。

「それは――内緒です」

 人差し指を口の前に立てる彼。すぅと目を細めてこちらを見下ろす表情とその仕草が色っぽくて、ウェンディの心臓がどきっと跳ねた。
 サイン入りの本を大事そうに懐にしまった彼は、傘を差して店を出て行く。

「ありがとうございました。プリンスマンさん!」

 これが、ウェンディとノーブルプリンスマンの最初の出会いだった。



 ◇◇◇



 ノーブルプリンスマンはそれから、熱心なファンとしてウェンディの元に足繁く通うように。サイン会、朗読会、販売会、登壇イベント……。ウェンディの行くところにはどこでも現れた。

「ウェンディ先生。今日の朗読会、すごく良かったです」
「……ありがとうございます」
「おや、なんだか今日は浮かないご様子ですね」
「実は、ある読者さんに私の本は全然面白くないって言われて……」

 朗読会終わりに話しかけてきたノーブルプリンスマンに悩みを打ち明ける。ウェンディはまだ駆け出しの新人作家。朗読会にたまたま立ち寄ったファンではない人に言われた『つまらない』の言葉がぐっさりと刺さってしまった。

 広場の噴水の石造りの囲いに腰掛け、肩を竦める。

「私なんて……やっぱり作家に向いてないのかも。朗読会は全然人が集まらないし、本はちっとも売れない。家族にも馬鹿にされて……嫌になっちゃう」

 結婚を急かされても逃げ続け執筆に没頭していたが、ここのところ、家族に負い目を感じながら、誰も喜んでくれない物語を作り続けることに辟易してしまっている。いっそのこと、全部投げ出して辞めてしまおうかとさえ思っている。

「そ、そんなことおっしゃらないでください! 僕は好きです。先生の作品が。本が売れないなら刷った分全部買います! 誰より多く朗読会にも通います! だからどうか……僕みたいなファンがいることを忘れないで。あなたの作品を待ってる人は、励まされてる人は……ここにちゃんといるから」
「……!」

 ぎゅっとウェンディの両手を握り、懇願する彼。熱意がひしひしと伝わってきて、鼻の奥がつんと痛くなる。

(私、もっと頑張ろう。この人に……私の大切なファンに喜んでもらうために……!)

 ノーブルプリンスマンは、ウェンディがスランプに陥ったり落ち込んだときは、いつも励ましてくれた。徐々に朗読会に来てくれるお客さんが増えてきてからは、彼と話せる時間も減っていった。けれど、彼は変わらずウェンディのことを応援し続けてくれた。

 そしてウェンディも、彼のことが好きだったのだと思う。
 政略結婚が決まってからは、その気持ちもしまわなくてはならなくなってしまったのだが。