――おなかすいた。


 空腹。飢えている。

 お腹の底からせり上がってくる気持ち悪い感覚。それは少し吐き気にも似ていて、思考はそれを満たし収める為の行為にばかり向く。


 ――なにをたべようか。


 薄い布の上からそっとお腹を押える。内臓が満たす物を求めて脈打つのが伝わる。

 押えたお腹から目線を上げればテーブルがある。白いクロスに、紺色のラインの入ったお皿が乗って、芳ばしいパイが乗っている。丸いパイは温かな蒸気を立ち上らせて、網目模様の飾りが愛らしい。

 切り分けるためのナイフが傍らに添えられ、湯気と共にただよう香りが私を誘う。


 ――おいしそう。たべたいな。


 そう思うのだけれど、ためらってしまう。私が頬ばるために焼かれたパイ。けれど、ナイフを手に取れないでいる。

 けれど、こうしてためらっているうちにも飢えは進み、飢えれば飢えるほど、パイを口にした時に止められなくなるのはわかっていた。

 さっくりと、軽い音がしてパイにナイフが入れられる。

 飢餓はもう取り返しがつかない地点まで着ていた。

 頑ななパイ生地に閉ざされた中身が、入れられたナイフの切り口から滲み出す。

 ナイフをパイから離すと、とろりとした粘着質な赤いジャムがナイフにからみつき糸を引く。

 パイ生地の芳ばしさとは違う、甘ったるくてまとわりつくような気だるい匂い。その匂いに舌の上が濡れてきて、ナイフを持った右手で口元をぬぐう。

 ナイフからゆっくりと尾を引きながらしたたり落ちる赤が左手のひらに落ちて、それをなめた。

 耳の奥までしんわりと広がる甘さ。甘い甘い赤いジャム。その甘さに犯されて。


 ――もう、とまらないの。


 ナイフを投げ捨てて、素手でパイをつかみ取り、貪る。ただそのジャムの甘さに支配されて、そのパイの芳ばしさに引き立てられて、全部全部全てを余す所なくその赤い赤いジャムをこの口にこの体に仕舞い込んでしまいたい。


 ――それいがい、もうなにもかんがえられない。


 指の間からジャムが流れる。お皿の上にジャム溜まりが出来る。はち切れんばかりに内臓が腫れあがって、それでも止まらない。食欲は止まらない。ただ貪欲に。ただ愚鈍に。パイを押し込める。赤いジャムを。

 皿の上に、テーブルの上に、クロスの上に、床の上に、ジャムの染みたパイ生地の破片が転がって、それを一つ一つ拾い上げては口に運ぶ。

 皿の上に、テーブルの上に、クロスの上に、床の上に、私の指に、手に、指先に、爪の間に、指の間に、手首に、谷間に、太股に、膝に、踝に、肌に、滴る赤いジャムを舐め取る。


 ――おさらもテーブルもゆかも、わたしも、キレイ。キレイ。もうどこにもない。わたしのなかにだけ。


 椅子の上に腰掛けて、猫のように体を丸めては私は私の躯を舐め回す。

 膝を抱えて、親指の腹を舐めて、空いた皿を見つめて、私は、飢える。