ーーいいかい……
月夜に狂い咲いた桜の木に近づいてはいけないよ……ーー
それは……僕が住んでいる村に古くから伝わる言い伝え。
そんな……月夜に狂い咲く桜なんて存在(あり)はしない。
季節は春夏秋冬と順に巡り、その時折に決まった花が咲くのだから。
そう、思ってたーー……。

夜風が少し肌寒い長月。
僕はなかなか寝つけなくて、寝間着の上に上着を羽織ってから縁側へと出た。
……あぁ、今日は満月……か。
部屋の中にいても何となく、いつもより外が明るいな……と、感じてはいたけど……外に出るとより一層まんまるとした月の柔らかな光が辺りを明るく照らしていた。
僕は遥か彼方の夜空に浮かぶ月をぼんやりと眺めていた。
ひらり……。
ん?
何だろう……。
瞳を凝らしてよーく見る。
ひらりと、宙に舞っているのは花びらだった。
僕は何気なく、その花びらに向かって手をのばした……。
ほどなくして、花びらが僕の掌に収まり、何の花びらだろう……と、覗き込んだ瞬間……
ザァーー!!
突風が吹き荒れた……。
その強い風に目を開けていられなくて、僕は思わず目を瞑った……。
刹那……。
そーっと、目をあけると……
ひらり……
花びらは僕の掌を離れて、再び宙へと舞い、僕から離れていった……。
僕は縁側から庭先へと降り立って裸足のまま……花びらを追ったーー……。

花びらに導かれるように僕が辿り着いた場所は村の外れの小高い丘だった。
そこには1本の大きな桜があり、満開の桜が咲き乱れていて、僕と同じように桜の花びらに導かれてやって来たのか、1人の女性がいた。
その女性は艷やかな長い黒髪に透き通った白い肌。赤い紅をさした唇にとても珍しい暗赤色の瞳がとても印象的だった。
僕に気がつくと柔らかな微笑みを浮かべて会釈をしたので、僕も笑みを浮かべて会釈をして女性の側で満開の桜を見つめた。
月夜に照らされた桜は昼間に見るよりもとても美しくて、僕は息をするのも忘れるくらい見惚れていたんだーー……。

それからというもの……僕は毎晩、満開の桜を見るために出かけた。
僕がその場所に行くと……必ず女性もいて、僕を見るなり嬉しそうに微笑んではくれるが、一度も喋ってくれることはなかった……。
多分、口をかけないのだろ……と、僕は思い、それからというもの女性に話しかけることはしなかった。
ただ、2人肩を寄せ合い並んで満開の桜の木を見つめているだけで良かったから……。
そして……
僕は桜の木(このばしょ)から離れたくない……。
ずっと、女性(かのじょ)といたい……と、いう気持ちが強くなり、屋敷へは帰らなくなった……。
いや、帰れなくなってしまったんだ……。

そう、月夜に狂い咲いた桜に魂ごと魅せられてしまったからーー……。