吾輩は幽霊である。 名前などという物は何処かに置き忘れてきたらしい。
いつもは墓場の隅っこでボーっとしておるのであるが、夕方になるとどうも脇の辺りがくすぐったくて堪らない。
 それも有ってかのこのこと墓場を抜け出して辺りを散策するのだよ。 そうするとな、生きていた頃みたいにいろんなことを発見する。
飲み屋街の入り口に来ると何処からともなくイカの焼ける美味い匂いが漂ってくるじゃないか。
 その匂いが何処から漂ってくるのかと首を伸ばしていたら、そこらに居た男どもが「やい、ろくろ首を見付けたぞ!」と騒ぎ立てる。
吾輩は少なくともあのような得体の知れぬ化け物ではないのであるぞ。
 男どもに向かってキッと睨み付けてやると今度は「うわーーー、首が睨んでる!」などと騒ぎ始める。
それを聞いた若い衆が「何処だ何処だ?」と辺りを探し回る。
 男どもが「あそこだ。」と言いながら手を伸ばすのであるが、当然吾輩は逃げているのだから誰の目にも映らない。
拍子抜けした若い衆は文句をこそ言いながら何処かへ行ってしまう。 その様子を吾輩は飲み屋の陰からじっと見ているのである。
 男たちもまた(やれやれ、、、)という顔をしてそれぞれの家に帰っていくのである。 帰る家が在るというのは幸せであるなあ。

 何? お前にも帰る家が有るのではないかとな?
有ったら当然至極のように帰っておるわ。 無いからこそこうしてさ迷っておるのじゃぞ。
 雨の日も風の日も晴れた日も嵐の日も吾輩はこうしてさ迷っておるのじゃ。 むろん、休むことも無いがね。
 幽霊というのは便利なものよ。 食うことも寝ることも要らぬ。
何もかも忘れ去ったように歩き回っておるからなあ。 時々、そんな吾輩を捕まえて「お前は何者だ?」と聞いてくるやつが居る。
「吾輩は幽霊じゃ。」と答えようものなら「そんなことは分かり切っておる。」と激怒して何処かへ行ってしまうのだ。 何や分からんもんよなあ。
 それにしてもなんで吾輩と話せたのかのう? やつは陰陽師でもやっておるのかね?
世の中、不思議な人間はたくさん居るからなあ。 そうそう、目の見えんやつでもたまに幽霊と話せるという変なのが居る。
 そんな吾輩も飲み屋街の入り口でボーっとしておるのよ。 何でここに来たのかは知らんのじゃが。

 そろそろ五月の祝いの頃じゃろう。 チラチラと見える家の屋根の上にはこいのぼりが見える。
緋鯉だの真鯉だのと言ってはみんなが見上げている。 男の子が居るんじゃな。
 吾輩か? 吾輩は家族が居ったのかどうかも分からん。
生きておったからには親も居ったんじゃろうがね。
そのような記憶というやつを何処かへ置き忘れてしまったらしい。 今更取り戻そうとは思わんよ。
 ここまでこうして何年ほっつき歩いているのかも分からん。
兎にも角にも何処に行くとも知れずに歩いてきたんじゃよ。 そして美味そうな匂いに引き寄せられて飲み屋街にまで来たんじゃ。
 朝となく昼となく夜となくさ迷っておるわけよ。 寂しい男じゃ。
お付きの女でも居ればいいんじゃがそんなのも居らん。 吾輩は気紛れ瘋癲の風来坊じゃ。
 夜になると其処彼処からいい匂いが漂ってくる。 しかし吾輩の腹はグーともプーとも鳴らんのじゃ。
どうやら空腹という感覚を忘れ去っているらしい。 だからか食べたいという思いも起きないのだ。
 この辺りは金持ちが集まってくるらしい。 いい服を着ていい身形をしいい男といい女が連れ添うようにやってくる。
女が居るからとて羨ましいとは思わん。 時々、変な所から顔を出して脅かしてやるのみ。
 そのたびに女どもはワーダのキャーダのと見苦しいくらいの叫び声を上げる。 男どもは(またか)という顔をして女どもを冷たく見ている。
吾輩も相当な悪者であるらしいなあ。 それにしてもいい匂いがするもんじゃ。

 時には飲み屋街を離れて寂しい田舎町をうろついていたりもするんだ。 するとな、「お前は誰だ?」と地主のような幽霊が聞いてくる。
「わしは風来坊じゃ。」って言い返すとそいつは黙って何処かへ行ってしもうた。 何じゃったんじゃろうなあ?
 田舎町もまあそれなりに楽しいものよ。 田んぼには蛙だのタニシだの何だのと面白い生き物が住んでおるでなあ。
そいつらを見ておるだけでも時間が経ってしまうんじゃ。 辺りには誰も居らんからなあ。
 田植えの時期が近付いてくると田んぼにも水が張られる。 そうなるとタニシ殿も目を覚ますのかのう?
メダカだってチョロチョロと泳ぎ回っておる。 そいつをタガメが追い掛けてくる。
時々はゲンゴロウが邪魔しに来たりしてな、見ておると飽きないもんよ。 吾輩はいったい何をしておるんじゃろうなあ?
 フラフラと歩き回っておると墓場にだって迷い込むもので、新しい物からいつ建てられたとも分らぬような古い墓までジロジロと眺め回しておる。
(吾輩の墓は何処に在るんじゃろうなあ?) 考えずともよいはずなのにたまには考え込んでしまうんじゃ。
 人間というやつは死ねば必ずと言っていいくらいに墓を建てる。 それが何処かに在るはずなんじゃ。
死んだ後、誰かが吾輩の手を握って泣いておるのも見たことが有る。 見たというだけでそいつが誰だったのかは分からん。
 そしてそのまま吾輩は誰かに付き添われるようにして点に帰ったんじゃ。 でも気付いたらこの町に戻って来ておった。
この町に何か有るのかね?

 世間は子供の日とか言ってお祝いをしてなさる。 鎧兜とか粽とかこいのぼりとか懐かしいもんじゃのう。
吾輩も小さき頃は祝ってもらったもんじゃ。 そこまで派手でもなく贅沢でもなかったが。
それでも嬉しかったもんじゃ。 祝ってもらえぬお子も居るんじゃからのう。
 とか何とか言いながら今日もブラブラとしておる。 菓子屋の店先にも祝いの物が並んでおるのう。
ん? あれは何じゃろう?
 店の隅っこで誰かが座り込んで何かをしておる。 覗いてみようか。