領地にあるマーシェス侯爵家の屋敷は高台にあり、2階のバルコニーからはかなり遠くまで外の景色が見渡せるようになっている。
 そこから真っすぐ前方に見える大樹を眺めながら、旦那様と初めてデートをしたあの日のことを思い出していた。
 大樹の成長と共にその地下ではダンジョンが成長を続けている。ダンジョンがとても不思議な空間であること、地下3階にはどういうわけか海があって沖にはクラーケンという大きなイカの魔物が出ること、だからここは海から遠いのにイカ焼きが名物だと旦那様が熱心に語るのを、さも初耳のように、
「まあ、そうなんですの?」
「おもしろそうですわ」
と相槌を打った。
 そのあと一緒にイカ焼きを食べた時も、初めて食べた体《てい》で、しかも普段のように大きな口を開けてかぶりつくようなことはせずに上品に食べた。
「この大樹はね、もうすぐ花が咲くだろうと言われているんだ。花が咲いたら、またじたりで見にこよう」
 そう言って甘く微笑む旦那様に、わたしも微笑み返した。
「はい。楽しみです」
 しかしその時、心の中ではまったく違うことを考えていた。
 ダンジョンを完全制覇すれば初回に限り大樹に花が咲くのは有名な話だ。すでに踏破されているよそのダンジョンでも初の踏破者が出るとそれを祝うかのように花が咲いたという記録が残されている。
 ダンジョンの成長は樹によってまちまちで、このマーシェスダンジョンは成長ペースがとてもゆっくりであるため、どこまで階層が広がればおしまいなのかすらハッキリしていない。よそのダンジョンとの比較で、おそらく地下50階で終わりだろうと推測されている。
 大樹の花には不老長寿の効果があると言われているのはまあ眉唾物だとしても、一度しか咲かない花を見てみたいし、なんなら風に揺れて散る花びらを1枚ぐらい拾って押し花にして残しておけないだろうかと期待している。
「花を咲かせるのは俺らだから。みんなで花見しながらイカ焼きを腹いっぱい食おうぜ」
「踏破できるといいですね」
「できるといいじゃなくて、踏破するんだよ」
 旦那様に大樹の花の話を聞いた時に、ロイさんと交わした会話を思い出して胸がツキンと痛んだ。
 その痛みは、冒険者としても男性としても慕っていたロイさんを失った悲しみと、結婚間近であるにもかかわらず他の男性のことを考えている後ろめたさの両方だったのだと思う。
 だから、旦那様にも愛人がいるとわかった時、お互い様だったのだとホッとした。
 行方知れずとなってしまったロイさんと今後どうこうなるはずもないし、旦那様との婚約を了承した時点で捨てたはずの感情だったけれど、ふとしたことがきっかけでロイさんの顔や声を思い出してしまう。