遮光カーテンの隙間から零れる光で、朝になったことに気づく。

 ──ほとんど、眠れなかった。


 はじめての部屋っていうのはもちろんなんだけど、眠れなかった理由はそれだけじゃない。

 男の子の部屋ってもっと乱雑だと思っていたのに、木目で統一された家具は清潔感があって、わたしの部屋より綺麗かもしれない。

 誰も見ていないのに、男の子のベッドを使わせてもらうというのがドキドキして。

 おずおずとベッドにもぐりこめば、自分のベッドとは違う匂いがした。

 それがマコちゃんの匂いなのかと思ったら、さらにドキドキしてしまって。

 ベッドでゴロゴロしているうちに夜が明けてしまったのだ。


 眠たいけれど今日は学校がある。ここから行くのははじめてだし、早めに出なくちゃ。

 支度をして部屋を出たら、ちょうど隣の部屋の扉も開いた。


「あ……」

 半袖のワイシャツを着た紫希くんは、チラッとこちらを見て、颯爽と階段を降りて行った。

 おはようって、言えなかった。

 昨日も一日、紫希くんとは全然話ができていない。

 やっぱりいきなりの同居、迷惑だったのかなぁ。

 気まずいなと思いながらも、学校に行くためには早く出なくちゃいけないから、紫希くんの後を追うように階段を降りた。


「おはよう、ございます」

 リビングの入口で声をかけると、テーブルには既に朝食が用意されていた。

「おはよう、羽衣ちゃん。よく眠れた?」

「あ、はい……」

 眠れなかったなんて言ったら心配しちゃうもんね。

 わたしの返事に琴子さんは笑顔で「ほら、座って食べてねー」と声をかけてくれた。

 それにしても、朝からすごい。

 スープにサラダにオムレツに……。

 カフェで出てきそうなくらいお洒落なプレートで盛り付けられている。

 ママなんて目玉焼き焦がしたりとか未だにしてるのに。

「好き嫌いとか、ある?」

「ないです」

 本当は、トマトがちょっと苦手。でも食べられないわけじゃないもん。

 お世話になっていて、本当ならご飯の支度とか手伝わなくちゃいけないはずなのに、琴子さんったら「私の仕事、取らないで」なんて言って、全然させてくれないの。

 多分、ママから聞いてるんだよね。わたしが恐ろしく不器用なこと。

 せめてと洗い物だけはさせてもらっているけれど、こんなのほんの少しのお手伝いだもん。

 だからこれ以上、迷惑かけたりしたくないんだ。

 琴子さんは「私の仕事」と言うだけあってお料理上手。

 昨日の夜も、今朝の朝食も、見た目だけじゃなくて本当に美味しい。

 あっという間に食べ進めて、残ったのはプチトマトとヨーグルト。

 気合い入れたら食べられるんだから! さぁ食べるぞ、と一呼吸したら、前から手が伸びてきた。

「あ……」

 食べようとしていたプチトマト、紫希くんが食べちゃった。

 なんで? 紫希くんの顔を見たら、またフイッと逸らされた。

 彼のプレートを見れば、すでに全部食べ終わっていた。

 ひょっとして、気づいたの? わたしがトマト苦手だって。

 昨日も、わたしが疑問に思っていることを代わりに言ってくれたりとかして。

 きっと、すごく人の観察ができるひとなんだな。


「ごちそうさま。じゃあ、行ってくる」

「はぁーい。気をつけてね」

 朝、顔を合わせてからここまで、まったく無駄のない行動で家を出た紫希くん。

 すごいなぁ……。わたしなんて普段はゆっくりテレビ見ながら支度したりしてるのに。

 とりあえず洗い物だけして、わたしも学校に行くかな。

 食器をシンクに運んだところで、琴子さんが玄関から戻ってきた。

「あらあら、羽衣ちゃん。いいのよ、朝は。忙しいでしょ?」

「え、でも……わたし、これくらいしかできないし」

「いいのいいの。私、羽衣ちゃんがうちにいる間は念願の娘ができたと思っているんだから。目いっぱいお世話させてね」

 笑顔で琴子さんがハグをしてくれる。

 昨日も思ったけど、琴子さんのハグってすごく温かい。

 安心できるなぁ。

「ありがとう、ございます」

「うん。さ、行ってらっしゃい。うちから行くのはじめてなんだから、余裕もっていった方がいいでしょ?」

 確かに、そのつもりで朝の支度はした。

 その気持ちを汲んでくれる琴子さんの優しさが嬉しい。

「ありがとうございます。それじゃあ、いってきます」

「はい、行ってらっしゃい。羽衣ちゃんも、気を付けてね」

 笑顔で手を振る琴子さんに見送られて、恵那家の玄関を出た。


「え……?」

 そこには先に行ったはずの紫希くんが立っていた。

 両手を腕組みして気だるそうにしていながら、朝日を受けた立ち姿はキレイで、思わず見とれてしまう。

 この人、口を開かなければ本当にカッコいいのにな。

 思わず足を止めたわたしに気づいて、紫希くんは「行くぞ」と一声かけてきた。

「え? 行くって……?」

「学校に決まっているだろう?」

「そ、そうだけど……紫希くんの学校ってどこ?」

 わたしの質問に紫希くんは、呆れたようにため息をつく。

「お前、気づいていないの? 俺、隣の高校」

「えぇ⁉」

 確かに隣の男子校の制服って、紫希くんが着ているのと一緒だけど、こんな制服、よくあるし!

「迷子で遅刻も困るだろう?」

「ま、迷子なんてならないもん! 昨日だって迷わずここに来られたんだし」

「琴子さんにも言われてるんだよ。面倒見ろって。いいから行くぞ」

 ぶっきらぼうに吐き捨てて、くるりと身をひるがえす。


『照れ屋で不器用だよね』

 昨日のマコちゃんの言葉を思いだす。

 そういうことなのかなぁ?

 確かにこうやって待っててくれるんだから、本当はいい人なのかもしれないけど。

「ついて来いよ。羽衣」

 はじめて呼ばれた名前に、とくん、と、胸が弾む。

 あの低音で呼ばれると、破壊力あるんですけど……。

 頬が熱を持ちそうになるのを、陽射しのせいだと思い込むようにして、紫希くんの後を追いかけた。


 いつもとは違う通勤通学の時間帯となる車内は、すごく混んでいた。

 普段と反対方向だからかな?

 学校はわたしの家と恵那家の中間くらいにあるから、逆の進行方向になる。

 わたしの家から向かう場合は、どちらかといえば田舎の方面で、恵那家からは都会方面になる。

 つまり、恵那家がある地域はかなりのどかな場所だ。

 恵那家の最寄駅では、座れなくても余裕があった車内だったのに、いくつかの駅を通り過ぎたら潰されそうになるくらい混んできた。

 こ、これは、苦しい。

 いつもこんな電車乗ってるの?

 けっして背が高くないわたしは、周りの人の壁に埋もれて、どこを見ていいのか、どうしたらいいのかわからない。

 恵那家の最寄駅から学校まではおよそ三十分。

 まだ十五分くらいある。

 揺れるたびに押されるし、バランスとるの難しいし。

 寝不足の身体にこれは、キツイな。

 するとグイっと腕を引っ張られて、車両の隅へと追いやられた。

「紫希、くん?」

「そこで大人しくしてろ」

 隅で身体が安定しただけじゃなくて、両腕で守るように囲ってくれているおかげで、さっきまで押しつぶされていたのが嘘みたいに、楽になった。

 助けて、くれたのかな?

 そう思って見あげたら、目も合わせずに顔を逸らされる。


『照れ屋で不器用だよね』

 また思い出した。

 どうやら本当にそうみたい。

 色々助けてくれたりするのに、顔を見合わせると逸らされるの。

 まるでツンデレの猫みたい。

 そう思ったら、ぶっきらぼうな口調も、怒っているような目も、全部かわいく見えてくる。

「ふふっ」

「……なんだよ」

 いきなり笑い出したわたしが気になったみたいで、紫希くんが訊ねてくる。

「なんでもないよ」

 かわいいなんて言ったら怒りそうだもんね。

 それでもなんだかおかしくって笑いが止まらない。

 学校の最寄り駅に着くまで、紫希くんは黙ったままそうしてわたしを守ってくれていた。


 最寄駅からは、徒歩で十分なんだけど……。

 ここまで一緒に来ておいて、「じゃあ」って分かれるのもなんか変。

 だけど、このまま一緒に登校したら、あらぬ誤解を抱きそうな……。

「どうした? 羽衣」

 改札を出て足を止めてしまったわたしの顔を、紫希くんが覗き込む。

「あ、いや……」

「酔ったか? 車内では大丈夫そうだったけど」

「ううん! それは全然平気。ただ、このまま一緒に登校したら、誤解、されるかなって」

「へぇ」

 なにやらニヤリと怪しげに笑う紫希くん。

「誤解されたらマズいやつとか、いるのか?」

「い、いないよ!」

 彼氏いない歴イコール年齢なんだから。

 なんなら絶賛募集中!

 だけど、紫希くんは彼氏じゃないもん。

 こんなイケメンと並んで歩いて、なにを噂されるかわからないと思ったら怖いんだよ。

「なるほど。誤解なー」

「ふ、うぇっ⁉」

 ガシッと肩を抱かれるよう引き寄せられたと思ったら、そのまま紫希くんは歩き始めた。

「ちょ、ちょっと、紫希くん?」

「ちょうどいいや。虫よけになってくれよ」

「虫よけ?」

 その言葉の意味を聞くまでもなかった。

 駅を出たところで、すでに数人の悲鳴が聞こえてきた。

 見ればうちの生徒や他校の生徒が、信じられないものを見たかのように青ざめている。

「おぉっ。効果抜群だなぁ。羽衣のおかげで静かになりそうだ」

「ちょっ、そしたらわたしが恨みを買うじゃないっ」

 そんなの冗談じゃない!

 慌てて腕を振りほどこうとしたら、軽くかわされて両腕を掴まれた。

「大丈夫。ちゃんと守ってやるよ」

 耳元でささやく、色気のある低音ボイス。

 あ、朝から刺激が強すぎますけどっ。

 思わず腰が砕けそうになるところを、再び起きた悲鳴で我に返る。

「それに、世話代だと思ってくれよ。こっちも生活変える羽目になったんだからな」

 ず、ずるい。

 それを言われたら、逆らえないじゃない。

「ほら、行くぞ」

 今度は強引に肩を抱くんじゃなくて、手を繋がれた。

 わたしの手なんてすっぽり包まれてしまうくらい、大きな手のひら。

 有無を言わせず強引なことするくせに、本当は優しい。

 今だって引っ張るように歩いているようで、わたしの歩調を考えてくれているのがわかる。

 トクンと跳ね上がる体温が、つないだ手から伝わりませんように。

 そう願いながら、学校までの道のりを、わたしたちは手を繋いだまま歩いた。



「ちょっと! 羽衣、どういうこと!?」

 どれだけの人が集まっているのか。

 教室に入るなりあっという間に取り囲まれてしまった。

「あれ、隣の紫希様じゃない! なんで一緒に登校しているの⁉」

「紫希、さま?」

 クラスメイトで親友の樹里(じゅり)が一番の剣幕で詰め寄ってくる。

「羽衣、知らないの? 天使の真琴様、魔王の紫希様」

「ぶっ!」

 思わず吹き出してしまう。

 なんでここでマコちゃんの名前まで出てくるのよ。

「て、天使? 悪魔?」

「悪魔じゃなくて、魔王様っ。あの寄せ付けない風格、サラサラの黒い髪に黒い瞳。目が合っただけで気絶する子がいたって聞くわよ」

 そ、そりゃあ確かにキレイな顔立ちしているけど、もうちょっとなにかなかったのかな?

 魔王って、本人呼ばれて嬉しいのかしら……。

 あぁ、でもマコちゃんはわたしも天使だって思ったから、対比になると魔王になっちゃうのか。

「それに天使の真琴様と義理の兄弟。どちらも素敵で、あそこだけ別世界! 異次元! なのに……」

 キッと睨まれるけど、そんなこと言われてもしょうがないじゃないーっ。

「そ、そんな情報知らなかったもん。大体、みんな彼氏いるし、今までそんなこと言わなかったじゃんー」

「言ったわよー。でも羽衣ったら最初に遠目で見て『わたしリアル彼氏欲しいから、そういうのイイや』って」

 そうだっけ?

 そういやそんなことがあったような、なかったような。

「と、に、か、く! 紫希様となんで一緒に登校してるの? しかも、手を繋いで!」

「そ、それは……」

 あーんっ! 紫希くんのバカ―。

 守ってやるって、女子高のトラブルまでは無理じゃんっ。

 わたし、このままだと学校中から睨まれそうなんですけどっ。

 半泣きで後ずさったら、救いのチャイムが鳴ったことにより、みんな渋々と自席へと戻っていった。

 これ、一緒に暮らしていますなんて言ったら、生きて学校出られるのかしら……。


 今日ほど授業がありがたいと思ったことはない。

 いつもは眠気半分で聞いているのに、寝不足なんてなんのその。

 ちょっとでも気を抜こうなら、どこから誰の質問が飛んでくるかわかったもんじゃない。

 かつてない程の集中力を見せ、最後の授業が終わったら、一目散に教室を飛び出した。

 のんびりしてたら捕まっちゃうもんね。

 一致団結した集団女子は怖いって知ったよ。

 紫希くんには悪いけど、やっぱり朝みたいなことはやめてもらわなくっちゃ。

 それなのに……。

「なん、で?」

 隣の男子校とうちの学校は、下校時間が少しずれている。

 別にお嬢様学校でもないし、付き合うことが禁止されているわけじゃないけれど、校門前ではなるべく接触しないように学校側は気を付けている。

 なんでも過去、下校時刻にお互いの校門前で待ち合わせだの告白だので盛り上がって、近所迷惑になったんだとか。

 そんなわけで、男子校の下校はうちの学校より三十分遅い。

 そのはずなんだけど、今、校門を出たところに紫希くんがいる。

「さ、帰ろうぜ」

 こともなげに言うけれど、男子校はまだ授業中のはず。

 そういえば、登校時間だって男子校はうちより三十分遅い。

 そうやってずらしたところで、朝練だとか理由はなんでもつけて同じ時間帯に登下校したりするんだけどね。

 でもこれはきっと違う。

 下校の場合は女の子がずらさない限り、一緒に帰ることはできないんだから。

「授業、は?」

「ん? 自習だから平気」

 本当、かなぁ? いやいや、自習でも抜けてきたらダメでしょ。

 そして、問題はそこじゃない。

「紫希くん、やっぱり一緒に登下校は無理だよ」

「は?」

 不機嫌そうに睨むけど、ひるまずにわたしは紫希くんの顔を見る。

「だ、だって。大変だったんだよ、今日。紫希くん、みんなから『紫希様』なんて言われてて、教室入るなり詰め寄られたんだから」

 さすがに『魔王』と言われていたのは黙っておこう。

「このままじゃ、学校で浮いちゃうもん。無理っ。無理だよ!」

「へぇ……」

 ヒュッと温度が急激に下がったかのような声色に、思わず身体が震える。

 見れば今までで一番冷たい目をした紫希くんがいた。

 その紫希くんの目線の先には、遠巻きにわたしたちの様子を窺ううちの生徒たちがいた。

「二度と羽衣に絡むな。迷惑だ」

 張り上げたわけじゃないのに通る声に、みんな金縛りにあったように動けなくなった。

「ほら、行くぞ」

「あ、で、でも」

 紫希くんに手を繋がれて引っ張られるも、みんなが気になって振り返る。

 そんなわたしの様子に気づいたのか、紫希くんも振り返った。

「ちょっ……」

 それはみんなに見せつけるかのように、わたしを胸元へと引き寄せた。

 口の端を軽く上げ皮肉気に微笑むさまに、グラウンドで黄色い悲鳴があがったのが聞こえる。

 その様子を確認した紫希くんは、抱き寄せていた腕を解き、手を繋いで再び歩き出す。

 登校の時と同じ、振り払えなくて。

 みんなからどう見えるのか気になりつつも、そのまま紫希くんの後を歩いた。



 学校から離れてしばらくすると、紫希くんは繋いでいた手を離した。

 そうだよね。フリだったんだもんね。

 温もりが遠ざかったことを淋しく思いながらも、わたしが早歩きにならないくらいの速度で歩いてくれている。

 それでも、前へ踏み出す足取りが、とても重い。

 夕方とはいえ、夏の陽射しが容赦なくわたしたちを照りつける。

 寝不足のせいかな。なんだかフラフラする……。

「羽衣っ‼」

 紫希くんが叫ぶような声でわたしの名前を呼んだ気がするけど、目の前が暗くなって意識を手放した。