沈黙

今日、彼女との喧嘩の末、関係に終止符が打たれた。熊本でのことだ。突然、彼女が車を飛び出し、「歩いて帰る」と怒り出した。それきり三時間が経っても戻らず、やむなく家に帰ったところ、彼女から電話が鳴った。彼女のあまりにも子供じみた性格に、もうついていけないと感じた。不思議なのは、彼女のLINEでの文面はとても大人びていて、しっかりした女性の印象を受けるのに、実際に会うと子供っぽい一面ばかりが顔を出すというギャップだ。付き合えば付き合うほど、その幼さに振り回されるばかり。今日もその結果が待っていた。さらに追い打ちをかけるように、彼女はLINEをブロックしてきた。これで五度目だ。喧嘩の原因もいつも些細なことばかりだ。今日は「財布に千円しかない」と伝えたにもかかわらず、「香水が欲しい」と言ってきた。それも600円の香水。先日は「韓国語を勉強したいから参考書を買ってほしい」と頼まれたばかりだ。こうした思いつきの行動には、さすがに苛立ちを感じずにはいられない。そして、この日から陽子との恋は、終わりを迎えたのだった。私は、陽子に誘いをかけるのはやめた。それでも毎日公共の場で顔を合わせる日が続いた。朝の光が揺らめく駅のホームや、夕暮れが残る交差点の向こう側で、何もなかったように互いに視線を逸らす。我々の沈黙は、偶然を装う沈黙であり、しかしそのたびに張り詰めた緊張が胸を締めつけるのだった。人々が行き交う雑踏の中、陽子の姿は、まるでその喧噪に溶け込んでしまいそうだった。あの短い言葉や、頬を膨らませる子供じみた表情、そのすべてが過去へと沈み込み、そして二度と手が届かない場所に押しやられていくように感じられた。それでも、彼女が通り過ぎたあとに残る淡い香りが、ふとした瞬間に呼び起こされる記憶と共に、私の心の奥に沈殿していく。私は彼女の幼さや衝動的な行動に辟易していたはずだったが、こうして日々が流れるごとに、その無邪気さが愛おしさとなって胸の奥で疼き始めるのを止めることができなかった。まるで、静かな水底に沈んだ小石が、ある瞬間に澄み切った水面に波紋を広げるように。陽子はもう何も望まない。彼女が口にした言葉も、願った小さな香水も、私の前には二度と現れることはないのだろう。それでも、ふと目を閉じたとき、彼女のかすれた声が心に蘇り、私は自分が何か大切なものを無くしたことに気づかされるのだ。時折、彼女が振り返る瞬間があった。その時、私たちはただ目を合わせることもなく、ただ沈黙が続くだけだった。たわいない毎日が半年間続いた。仕事と家との往復、雑然とした生活の流れの中に、陽子の面影が薄く刻まれた日常が続いた。時間は静かに過ぎ、過去の記憶は砂に埋もれる貝殻のように、少しずつその輪郭を失っていった。もう戻ることもないだろうと、自分に言い聞かせながら、私はどこか心の奥でその名残を手放せずにいた。えてして恋する心は、そんな時にふいに訪れるものだ。日々のたわいないやりとりの中で、思いがけない感情がまた芽生え始めていることに気づいた。今度は、ほんの少しばかりの勇気が私を動かした。ある雨上がりの朝、陽子と顔を合わせた時、私は自然と声をかけていた。
「阿蘇に猿回しを見に行こうか」
私の口からその言葉がこぼれ落ちた瞬間、彼女の顔に一瞬の戸惑いが浮かんだ。そして、まるで風に揺れる小枝のように、彼女の瞳が微かに震えているのがわかった。私たちの間にあった半年の沈黙が、ようやく風化し、解け始めたかのようだった。
「…いいね」
陽子の返事は、今までのどの言葉よりも静かで、柔らかい響きがした。その瞬間、私は彼女の目の奥に潜んでいた小さな不安や迷いを感じ取った。私たちはただ、阿蘇の猿回しという口実を前に、再び互いに向き合おうとしている。過去を背負ったまま、けれども少しずつ前を向きながら。阿蘇の山々が見渡せる道を進む車中、再び彼女の隣に座ることができたのが、まるで夢のように思えた。彼女が何気なく窓の外に目をやるたびに、私は彼女の横顔に言葉をかけたい衝動を抑えながら、ただ車のエンジン音に耳を傾けていた。

陽子は本気で人を愛したことはなかった。また、その愛というものがなんなのか理解できない。しかし、陽子の心は微妙に恋愛感情を揺さぶりかけているのだった。