空は雲一つない晴天で、優しい春の風が頬に当たる気持ちの良い日。
大学に入学したばかりの艶子は、軽井沢の別荘に父とゆかり、また父の秘書の立山と遊びに来ていて、別荘の庭で愛犬のホグと追いかけっこをしていた。
「お嬢様、危ないですよ」
十年ほど前から松野上家に仕える家政婦のゆかりが、艶子の手を引き池から引き離した。
「わ、大変!ありがとう、ゆかりさん」
艶子は危なかったわ、と胸をホッと撫でおろしながら、微笑んでみせた。
父は「艶子は相変わらずおっちょこちょいだなぁ」と言うものの、その目は優しく温かい。
「ふふっ、本当ね。気を付けるわ」
「お嬢様、本当にお気を付けくださいませ。お嬢様がケガをされては、社長が仕事で使い物にならなくなってしまいます」
立山は父の親友で、社長秘書であるが軽口を叩ける中。
艶子は立山にもごめんなさいと謝る。
「艶子はいい子に育ったなぁ」
父はますます顔を緩め、艶子を見つめる。
立山は娘を溺愛する主に慣れているものの、それでもハァとわざとらしいため息を吐いた。
別荘には、大体この四人で訪れる。
艶子は十二歳の頃に母と姉の凛子を亡くし、それからというもの、父が他人の力を借りながらではあるが、必死に艶子を育ててくれた。
艶子は漆黒のストレートの髪の持ち主で、それは名前と同じく艶やか。
顔立ちも目鼻立ちの整った美人で、どの角度から見ても美しいと言われるほど。
また、肌は雪のように白くきめ細かで、笑うとえくぼができ可愛らしくもある。
艶子は年々、母と凛子に似てくる。
父はそんな艶子が可愛くてたまらなかった。
艶子のスカートをホグがくいくいと引っ張る。
振り返るとイタズラ顔をしたホグが、スカートから口を離してまた池の方へ走っていく。
「待って、ホグ!」
つい、今の今注意されたことを忘れ、池の方へ走り出してしまう艶子。
「お嬢様!気を付けてくださいね!」
ゆかりがそう言ってすぐ、ホグが足を滑らせ池に落ちてしまったのだ。
ホグは体の小さなチワワで、これまで水遊びなどさせたことなどない。
「ホグ!」
慌てた艶子はホグを助けるために迷わず池に入り、ホグを抱く。
「よかったわ、溺れなくて……」
艶子がホッとしてすぐ、ゆかりが「お嬢様早く池の外へ!」と顔を青くしていることに気付き、ハッとした。
いつの間にかベンチに座る父の横にいた立川まで、側に来ていて険しい顔を作っている。
「ごめんなさい……」
「お嬢様、お手を」
立川から差し出された手に、自分の手を預けて力を入れて池から出た。
「まったく、無理をなさる。私に助けを呼べばよかったんですよ」
「ごめんさい、あなたも濡れてしまったわね」
立川の足元を濡らしてしまったことを申し訳なく思い、しゅんとする。
「私は大丈夫ですよ、早く中で体を温めましょう。五月とはいえ、油断はできません」
すると、父が寄ってきて「立川、あまり艶子を叱ってやらないでくれ」と立川の肩をポンと叩き、「艶子、ホグを助けて偉かったね」と微笑んだ。
艶子は優しい父が大好きだった。
また、自分のことを大切に思ってくれるゆかりと立川のことも信頼していて、この時間は永遠に続くのだと思っていた。
十八になる艶子は幼等部からエスカレーター式の大学に通っている。
教師や友人に恵まれ、何不自由なく楽しい日々を送っていた艶子。
だが一つだけ、高等部の頃から周囲に恋人ができはじめると、人並みに恋に憧れを抱いた。
私も恋をしてみたいわ!と。
艶子の周り男性、といっても父と立川になるが、二人共優しい性質で特に男性に怖いイメージなどない。
また、恋愛ドラマや映画の俳優たちは素直に素敵だと思えるし、恋人となるときっともっといいものに違いないと考えたのだ。
そこで大学について進路を決める際に、父に共学の大学を受験してみたいと相談してみた。
基本的に艶子に甘い父。
これまで艶子の願いを拒まれたことはなかったため、今回もいいよと簡単に頷いて、大学について率先して下調べしてくれるのではと思った。
しかし、娘を溺愛する父は共学に行くことを許してはくれなかった。
断固として反対され、そのまま進学して今に至る。
それでも艶子としても少し憧れを抱く程度だったので、それほど反発はせず受け入れたのだった。
父はというと、艶子のことを目に入れてもいたくないほどに可愛がると同時、それはもう心配した。
艶子は見た目がよいのはもちろんだが、体つきが女らしく異性の目を惹きつけてしまう。
彼女が高校を卒業してすぐ、一度連れて行ったパーティーでは、艶子をぜひ嫁にしたいと申し出る者がかなりいて、それ以来一切そのような場に連れ出さなくなった。
大学の行き帰りは運転手を付け、絶対に一人で外には出さなかったし、友人と食事をする際は、家に呼びなさいと言って、ホームパーティーを開くほど。
過保護すぎるのでは?と立川が呆れるくらい、大切に育てていたのだ。
今後においても、結婚適齢期になれば裕福な家の令息を婿にして、同じ屋敷で一緒に住もうとも考えていた。
しかし、それは叶うことはなかった。
大学一年生の夏休みに差し掛かる一日前のこと、父は突然にして亡くなったのだ。
その時のことは、正直思い出したくはないが、記憶に強く残っている。
「お嬢様、ご主人様がお亡くなりました」
しとしとと冷たい雨の降る夕方だった。
目を赤くしたゆかりが、艶子を大学まで迎えに来て、悲しげに告げたのだ。
「ど、どういうこと……」
いまいち理解できない。
父は関西へ出張へ行っており、今日帰宅予定だった。
土産をたくさん買ってくるからお利口にしてなさい、と優しく言っては出掛けて行った。
「新幹線の中で、愉快犯に刺されてしまい……。即死だったそうです」
「そ、そんな……」
「お嬢様、とにかく帰りましょう。私も立川さんもおりますので」
なんてことなの――。
こんなことになるなんて、思いもしなかった。
きっと悪い夢なんだわ。
しかし、帰宅しても元気な父の姿はなかった。
艶子は可愛いなと、言ってくれる父の声もしない。
亡くなった父と対面し、葬儀に参列するが、現実のこととは思えなかった。
母の分、姉の分、愛情を注いでくれた父。
まだまだ父と過ごせると思っていたのに。
艶子は顔が腐ってしまうのではと思うくらい、泣いた。
悲しすぎて涙が出ないなんて嘘だと思った。
これからどうしていけばいいのだろうか。
父も母も姉もいない。
艶子一人だけが残ってしまったのだ。
心が常に晴れない。
頭にモヤがかかったように、鈍い。
喪失感と悲痛で心が病みそうだった。
艶子はしばらく家に閉じこもった。
立川とゆかりが心配して、なんとか艶子を外に出そうとしてくれたが、無理だった。
二人に気遣わせまいと思うも、力が湧かない。
だが、そんな日も長くは続かなかった。
なぜなら叔父夫婦が突然に家にやって来ては、艶子の部屋の扉を開けたからだ。
「お、叔父様、叔母様、どうして……」
叔父夫婦とは、あまり関わりのなかった艶子。
父は一つ年下の叔父と仲が良好でなく、あまり親しくしていなかった。
父は三代続くデパートを経営していたが、二人兄弟であるのに叔父はまったく関係のない会社で働いていた。
その理由はわからないが、立川からは叔父には経営能力が備わっていないと聞いたことがある。
「この家は、もうあなたのものではないの。ここにいられては困るわ」
「何を仰っているの……?ここは私の家よ」
ここは紛れもなく艶子の家で、自分の部屋だ。
なぜそのようなことを言われなければならないのか。
驚いて言うと、叔母がドシドシと大きく足音を立てて近付いてきては、艶子の頬をバシッと叩いた。
「お嬢様っ!」
いつの間に来ていたのか、ゆかりが驚きの声を上げる。
「口答えするなんて、さすがあの母親の娘ね」
艶子は誰かからぶたれたことなど一度もなかった。
頭が真っ白くなり、目を丸くする。
「おい、手を出すのは止めなさい。この子の唯一の利点を傷つけては貰い手もいなくなるだろう」
叔父が艶子を庇うものの、その目はまったく優しくない。
父と同じ血が流れているだなんて思えない鋭く憎しみの籠った目だ。
それに父と似た顔立ちなのに、まるで違う。
「艶子、この家はもう私のものなのだ」
「ど、どういうことなの……?」
「お前の父親が死んで、会社もこの家も別荘もすべて私のものになったのだ」
艶子は叔父が言っていることが理解できなかった。
顔を青白くし見つめていると、叔父が意地悪く笑う。
「お前にはここを出て行ってもらわなければならないんだよ」
「そ、そんな……!」
突然のことに頭がくらくらとし追いつかない。
そもそもここを出て行かされても、自分に行く当てなどない。
親族は叔父一人。
母は一人っ子で祖父母は既に亡くなっている。
ここを出てどこに住むというのか。
これまで働いたこともない箱入り令嬢の艶子。
突然外に放り出されても何もできない。
「ここは私の家なのよ……お父様が残してくださった家だわ!」
すると、叔母が「本当にうるさい娘ね!」と、また手を振り上げたので、身をキュッと縮ませた。
しかし痛みがやってこない。
恐る恐る顔を上げると、叔父が叔母の手を掴んで止めていた。
「あなた!」
叔母は止められたことに顔を真っ赤にして怒っている。
それを叔父は無言で首を横に振るだけ。
「いいか、艶子。この家は今後私たちが住むことになる」
「……叔父様が?」
「あぁ、そうだ。今からここの主は私だ」
「なんてことなの……」
父と艶子がこれまで過ごしてきた家。
母と姉の思い出も詰まっている特別な場所だというのに。
それから叔父は二つ選択肢を与えた。
一つは、このまま身一つでこの家を出て行くこと。
二つ目は、このまま家に残り家政婦として叔父家に仕えること。
艶子は何も力を持たない頼りない身。
後者を選ぶしかなかった。
ここに身を置かせてもらうことに、頭を下げろと命令された艶子は、生まれて初めて土下座の姿勢で懇願した。
それを見た叔母は、ざまぁみろと言わんばかりに意地悪く笑う。
叔母からすると、艶子は邪魔な存在でしかない。
彼女の母親にそっくりな艶子に、嫌悪感を抱いていたのだ。
艶子の叔母の洋子は、艶子の母親の優子と、隣同士に住む幼馴染みだった。
幼い頃は、洋子より一つ年下の優子のことを妹のように思っていた洋子。
優子が人見知りする性格だったので、自ら甲斐甲斐しく世話を焼いていた。
しかし二人が成長するにつれ、その関係は変わっていく。
優子が大変美しく育ち、周囲の彼女へ向ける目が明らかに変わってきたからだ。
これまで洋子の後ろに隠れていた優子は、周囲の優しさに触れることで、明るくのびのびとした人格に形成されていく。
反して洋子はと言うと、不美人ではないが、かといって美しくはなかった。
誰が比べるなどないのに、自身が優子と比較することが多くなり、卑屈な性格になっていく。
洋子は徐々に優子と距離を置き始めるが、最悪なことに同じ男を好きになってしまった。
相手は艶子の父親となる勇一。
大学が同じだった洋子と優子。
洋子は同じ大学で一つ年上の勇一のことを密かに想っていたのだが、なんと優子が入学してきたた年に、彼は彼女と付き合い始めた。
間接的だが失恋してしまった洋子。
同じくして失恋をした者がもう一人いた。
それは、洋子の今の夫である浩二だった。