エリーザベトは、抱える苦悩を吐き出しはじめると、それは濁流のように溢れ、止まらなかった。
「ネネ、私……もうウィーンには戻りたくない。宮廷の生活は息が詰まるの。貴族たちの絶え間ない噂話、まるで看守のように私を監視する女官たち……私は囚人じゃないのに……」
彼女の声には、長い間抑え込んできた苦しみが色濃くにじんでいた。
ヘレーネはただ黙って耳を傾け、妹がどれほどの重荷を背負ってきたのかを理解しようとしていた。
「女官長なんて、大公妃の意を汲んで私を苦しめるために動いているのよ。それに、フランツだって仕事ばかり……。私は一人きりで、孤独に押しつぶされそうになるの」
ヘレーネは頷きながら、エリーザベトの言葉を心に刻み込むように黙って聞いていた。
「でも、一番辛いのは……子供たちと引き離されたこと。乳母と養育係に預けられて、我が子の成長を見守ることもできない。……子どもを産んでも、母親にはなれなかった」
エリーザベトの声が震え、涙がにじんだ。
「頑張ってウィーンに一旦は戻ったけど、子供たちは、私に近づこうとすらしなかったわ。だからまたここに逃げ込んだの」
その言葉がヘレーネの胸に深く突き刺さった。
彼女自身もまた、生まれたばかりの娘と、自分の足で歩きだしたルイーザを残してこの地に来ている。
母としての時間を奪われたことで、エリーザベトの嘆きに深く共感することができた。
そして、コルフ島の滞在で、何よりも驚かされたのは、エリーザベトの美への執念だった。
彼女は北欧で提唱されたばかりの体操を取り入れ、厳しい運動を日々自らに課し、美しさを保つため、食事にも強い拘りを持っていた。
決めた通りの食事しか摂らず、その執念はもはや美しさを守るための『手段』を超え、彼女の存在価値そのものになりつつあった。
「わたしの唯一の武器が、美貌なのよ……」
寂しげに笑うエリーザベトは、『ヨーロッパ一の美しい皇妃』と謳われる華やかな姿とは程遠かった。
ヘレーネの皿に置かれた仔牛のソテーをじっと見つめ、エリーザベトはため息交じりに呟いた。
「ねえ、ネネ……もう食事なんて楽しめないの。美しくあるために、毎日ほんの少しの野菜と仔牛の肉汁しか口にしない。それ以上食べたら……太ってしまう」
そう語るエリーザベトの目は爛々と光り、その執念が彼女を捉え、放してくれないことが一目でわかった。
美しさという鎧がなければ、彼女は自分の価値を保てなくなっているようだった。自らの価値を他者に認めさせるため、その鎧を常に完璧に保つことが不可欠だと信じ込んでいたのだ。
「それに、フランツは、ふっくらした女性が好きなの。だから、私が痩せ始めると、急に時間を作って色々食べさせようと構いだすの」
エリーザベトは皮肉めいた笑みを浮かべ、内に秘めていた苦しみを吐露した。
妹が抱える美しさへの執着、そして夫との関係を保つための苦しみは、想像以上に深刻だった。
エリーザベトは亜麻色のまとめ髪を触りながら、震える声で言葉を紡いだ。
「……あの人、浮気してたのよ。黒髪が綺麗な宮廷夫人とね」
その言葉が放たれた瞬間、ヘレーネは思わず息を飲んだ。
唯一の味方であり、ウィーン宮廷での支えだったはずの夫──フランツ・ヨーゼフの裏切り。
それが、エリーザベトの心を徐々に蝕み、彼女をさらなる絶望の淵へと追い込んでいることが、痛いほどに伝わってきた。
姉妹はコルフ島で楽しい時間を過ごしたが、ひと月経つ頃、ヘレーネはこれ以上家族と離れて暮らすことに耐えられなくなっていた。
娘たちや夫、レーゲンスブルクにいる家族のことが恋しくて堪らなかった。
しかし、エリーザベトを連れ戻す説得を行わないまま、ウィーンに行くことは、彼女にとっても苦しい決断だった。
ただ、ヘレーネはこの訪問を通じて、問題解決の糸口を見つけていた。
エリーザベトはまだ、夫に愛されたいと願っていた。
そして、夫の愛を信用できなくなり、不安が心の中で渦巻いていることを、理解することが必要だと確信していた。
ヘレーネがコルフ島を離れる前夜、二人は夕食を共にする。
エリーザベトは相変わらず食べ物にほとんど手をつけようとしなかったが、ヘレーネは自分の皿にある仔牛のソテーを切り分け、そっと妹の前に差し出した。
「シシィ、少しでも食べて。赤身の部分だから太らないわよ。ね?」
エリーザベトは一瞬、驚いたような表情を浮かべたが、ヘレーネの真剣な眼差しに応じて、フォークを手に取った。
そして、ゆっくりと一口食べた。
「……美味しいわ」
エリーザベトは、しみじみと味わいながらつぶやいた。
早朝、淡いピンクと橙に染まる朝焼けがコルフ島を包む。
出航前、ヘレーネはエリーザベトに、一つの提案をした。
「シシィ、フランツ・ヨーゼフはあなたを愛しているわ。だからこそ、私をここに送ったのよ。……まだ時間はたっぷりあるわ。シシィだけの子供を作って、自分の手で育ててみたらどう?」
驚きと戸惑いがエリーザベトの顔に浮かんだ。
ヘレーネの思いがけない提案が、エリーザベトの心を揺さぶっていた。
「もう出産は嫌よ。皇太子を生むときに難産だった……それに、子供を産んだって、姑に取り上げられるだけよ」
「身籠ったらウィーンから離れて、好きな場所で産めばいいじゃない。…… シシィが決めることだから、無理強いはしない。だけど、子どもを産んでも、母親にはなれなかったって一生嘆くつもり?」
姉の提案に、エリーザベトはしばらく黙りこみ、その意味をじっくりと噛みしめていた。
15歳で婚約、16歳で結婚、17歳で出産したエリーザベトは、現在22歳。フランツ・ヨーゼフは30歳。
エリーザベトがコルフ島に籠ったことで、夫婦関係は破綻しているのは世間に露見している。今から夫婦関係を改善して子どもを作るのは果てしない道のりに思えた。
だが、大公妃に阻まれた乳母も養育係もなしに、自らの手で子どもを育てることは、エリーザベトの切願でもあった。
グライフ号の甲板に立つヘレーネは、遠ざかるエリーザベトの姿を見つめ続けた。
エリーザベトもまた、浜辺に佇み、船が沖へと進んでいくのをじっと見送っていた。
二人の間には、言葉にできない感情が静かに流れていた。
静かな風に乗りながら、ヘレーネは心の中で、妹の幸せを深く祈った。
「ネネ、私……もうウィーンには戻りたくない。宮廷の生活は息が詰まるの。貴族たちの絶え間ない噂話、まるで看守のように私を監視する女官たち……私は囚人じゃないのに……」
彼女の声には、長い間抑え込んできた苦しみが色濃くにじんでいた。
ヘレーネはただ黙って耳を傾け、妹がどれほどの重荷を背負ってきたのかを理解しようとしていた。
「女官長なんて、大公妃の意を汲んで私を苦しめるために動いているのよ。それに、フランツだって仕事ばかり……。私は一人きりで、孤独に押しつぶされそうになるの」
ヘレーネは頷きながら、エリーザベトの言葉を心に刻み込むように黙って聞いていた。
「でも、一番辛いのは……子供たちと引き離されたこと。乳母と養育係に預けられて、我が子の成長を見守ることもできない。……子どもを産んでも、母親にはなれなかった」
エリーザベトの声が震え、涙がにじんだ。
「頑張ってウィーンに一旦は戻ったけど、子供たちは、私に近づこうとすらしなかったわ。だからまたここに逃げ込んだの」
その言葉がヘレーネの胸に深く突き刺さった。
彼女自身もまた、生まれたばかりの娘と、自分の足で歩きだしたルイーザを残してこの地に来ている。
母としての時間を奪われたことで、エリーザベトの嘆きに深く共感することができた。
そして、コルフ島の滞在で、何よりも驚かされたのは、エリーザベトの美への執念だった。
彼女は北欧で提唱されたばかりの体操を取り入れ、厳しい運動を日々自らに課し、美しさを保つため、食事にも強い拘りを持っていた。
決めた通りの食事しか摂らず、その執念はもはや美しさを守るための『手段』を超え、彼女の存在価値そのものになりつつあった。
「わたしの唯一の武器が、美貌なのよ……」
寂しげに笑うエリーザベトは、『ヨーロッパ一の美しい皇妃』と謳われる華やかな姿とは程遠かった。
ヘレーネの皿に置かれた仔牛のソテーをじっと見つめ、エリーザベトはため息交じりに呟いた。
「ねえ、ネネ……もう食事なんて楽しめないの。美しくあるために、毎日ほんの少しの野菜と仔牛の肉汁しか口にしない。それ以上食べたら……太ってしまう」
そう語るエリーザベトの目は爛々と光り、その執念が彼女を捉え、放してくれないことが一目でわかった。
美しさという鎧がなければ、彼女は自分の価値を保てなくなっているようだった。自らの価値を他者に認めさせるため、その鎧を常に完璧に保つことが不可欠だと信じ込んでいたのだ。
「それに、フランツは、ふっくらした女性が好きなの。だから、私が痩せ始めると、急に時間を作って色々食べさせようと構いだすの」
エリーザベトは皮肉めいた笑みを浮かべ、内に秘めていた苦しみを吐露した。
妹が抱える美しさへの執着、そして夫との関係を保つための苦しみは、想像以上に深刻だった。
エリーザベトは亜麻色のまとめ髪を触りながら、震える声で言葉を紡いだ。
「……あの人、浮気してたのよ。黒髪が綺麗な宮廷夫人とね」
その言葉が放たれた瞬間、ヘレーネは思わず息を飲んだ。
唯一の味方であり、ウィーン宮廷での支えだったはずの夫──フランツ・ヨーゼフの裏切り。
それが、エリーザベトの心を徐々に蝕み、彼女をさらなる絶望の淵へと追い込んでいることが、痛いほどに伝わってきた。
姉妹はコルフ島で楽しい時間を過ごしたが、ひと月経つ頃、ヘレーネはこれ以上家族と離れて暮らすことに耐えられなくなっていた。
娘たちや夫、レーゲンスブルクにいる家族のことが恋しくて堪らなかった。
しかし、エリーザベトを連れ戻す説得を行わないまま、ウィーンに行くことは、彼女にとっても苦しい決断だった。
ただ、ヘレーネはこの訪問を通じて、問題解決の糸口を見つけていた。
エリーザベトはまだ、夫に愛されたいと願っていた。
そして、夫の愛を信用できなくなり、不安が心の中で渦巻いていることを、理解することが必要だと確信していた。
ヘレーネがコルフ島を離れる前夜、二人は夕食を共にする。
エリーザベトは相変わらず食べ物にほとんど手をつけようとしなかったが、ヘレーネは自分の皿にある仔牛のソテーを切り分け、そっと妹の前に差し出した。
「シシィ、少しでも食べて。赤身の部分だから太らないわよ。ね?」
エリーザベトは一瞬、驚いたような表情を浮かべたが、ヘレーネの真剣な眼差しに応じて、フォークを手に取った。
そして、ゆっくりと一口食べた。
「……美味しいわ」
エリーザベトは、しみじみと味わいながらつぶやいた。
早朝、淡いピンクと橙に染まる朝焼けがコルフ島を包む。
出航前、ヘレーネはエリーザベトに、一つの提案をした。
「シシィ、フランツ・ヨーゼフはあなたを愛しているわ。だからこそ、私をここに送ったのよ。……まだ時間はたっぷりあるわ。シシィだけの子供を作って、自分の手で育ててみたらどう?」
驚きと戸惑いがエリーザベトの顔に浮かんだ。
ヘレーネの思いがけない提案が、エリーザベトの心を揺さぶっていた。
「もう出産は嫌よ。皇太子を生むときに難産だった……それに、子供を産んだって、姑に取り上げられるだけよ」
「身籠ったらウィーンから離れて、好きな場所で産めばいいじゃない。…… シシィが決めることだから、無理強いはしない。だけど、子どもを産んでも、母親にはなれなかったって一生嘆くつもり?」
姉の提案に、エリーザベトはしばらく黙りこみ、その意味をじっくりと噛みしめていた。
15歳で婚約、16歳で結婚、17歳で出産したエリーザベトは、現在22歳。フランツ・ヨーゼフは30歳。
エリーザベトがコルフ島に籠ったことで、夫婦関係は破綻しているのは世間に露見している。今から夫婦関係を改善して子どもを作るのは果てしない道のりに思えた。
だが、大公妃に阻まれた乳母も養育係もなしに、自らの手で子どもを育てることは、エリーザベトの切願でもあった。
グライフ号の甲板に立つヘレーネは、遠ざかるエリーザベトの姿を見つめ続けた。
エリーザベトもまた、浜辺に佇み、船が沖へと進んでいくのをじっと見送っていた。
二人の間には、言葉にできない感情が静かに流れていた。
静かな風に乗りながら、ヘレーネは心の中で、妹の幸せを深く祈った。