朝露をまとった薄紫色のライラックが甘い香りを漂わせ、シュタルンベルク湖の煌めく水面を撫でる風が、瑞々しい爽やかさを運んでくる。

 1858年5月2日、湖の東岸に佇むベルク城にて、ついに、バイエルン王から正式な結婚の許可が下りた。

 ヴィッテルスバッハ家の当主であるバイエルン国王マクシミリアン2世は、ヘレーネがバイエルン公女としての称号と権利を保持し続け、さらにトゥルン・ウント・タクシス侯爵夫人の称号をも名乗ることを許可した。

「ヘレーネ、この上なく幸せです……。」
 アントンが感極まったように囁くと、ヘレーネは微笑を浮かべた。
「アントン、私もとても幸せよ。ありがとう……。」
 ヘレーネはアントンに寄り添い、その腕にそっと手を添えた。
 彼女の瞳には、これまでの苦しみと努力が報われた喜びが滲んでいた。
 アントンはそんなヘレーネを優しく抱きしめると、彼女の額に唇を寄せた。

 正式に婚約が認められた二人に、ウィーンから妹エリーザベトの祝電が届いた。
 ヘレーネの幸せを誰よりも願い、エリーザベトは夫フランツ・ヨーゼフに懇願し、バイエルン国王に結婚を認めさせるために尽力してくれたのだ。
 結婚が実現した背景には、姉妹の深い絆があった。

 祝電を手に取ったヘレーネは、エリーザベトからの温かな言葉を目にする。
「ありがとう、エリーザベト……」
 ヘレーネは祝電を胸に抱きしめ、妹への感謝の気持ちを噛みしめた。

 そして、8月24日──待ちに待ったその日は、あいにくの雨だった。
 シュタルンベルク湖畔のポッセンホーフェン城にて、挙式が厳かに執り行われた。
 雨の雫が祭壇を包み込むように静かに降り注ぐ中、二人は誓いの言葉を交わした。

 三日前に待望の皇太子を出産したばかりのエリーザベトは出席できなかったが、皇帝の兄弟たちや、初代オーストリア皇帝の妃であるカロリーネ・アウグステ皇太后も訪れ、両家にゆかりの深い人物たちに囲まれた華やかな祝宴となった。

 挙式後、ヘレーネはアントンと二人きりで湖畔の散歩を楽しんだ。
 雨上がりの空は澄み渡り、雲間から差し込む光が水面に反射し、幻想的な風景を生み出していた。
 アントンがヘレーネの手を引き、湖面を眺めながら二人で歩む。

「雨上がりの景色は、美しいものだな」
 アントンの言葉に、ヘレーネは静かに頷いた。
 この特別な日を迎えるまでの長い苦難を思い返しながら、二人は穏やかに微笑み合った。

 こうして、公爵令嬢ヘレーネの幸せな結婚が始まった。


 挙式から一年も経たないうちに、トゥルン・ウント・タクシス侯爵家の居城であるレーゲンスブルクの聖エメラム宮殿にて、二人の間に新しい命が誕生した。
 赤ん坊が小さな産声を上げた瞬間、男の子ではないことで周囲に少しの落胆が広がった。
 しかし、ヘレーネとアントンにとって、それは些細なことだった。
 二人は、娘をルイーザと名付け、この新しい命を心から慈しみ、母子の健康に感謝していた。

 そんな穏やかな日々の中、フランツ・ヨーゼフから候世子夫婦の子供の誕生を祝う手紙が届いた。
 手紙には、思いがけない言葉が綴られていた。

『ネネの子供はひどく醜いに違いない』

 辛辣な言葉を読んだアントンの眉間には怒りの色が浮かび、拳を固く握りしめた。
「どうしてこんな意地の悪いことを……」
 震える声でそう呟く彼に、ヘレーネはそっと腕を添えた。
 冷静な声で、優しく諭すように語りかける。
「アントン、気を静めて。皇帝も今は戦場で大変な時期なのでしょう……」

 彼女の胸には、フランツ・ヨーゼフが困難な結婚を実現させてくれたことへの感謝がまだ強く残っていた。

 イタリア情勢は悪化し、フランツ・ヨーゼフは自ら軍を率いてイタリアに向かっていた。
 今月、開戦したソルフェリーノの戦場では、ナポレオン三世が支援するサルデーニャ王国とオーストリア軍が血みどろの戦闘を繰り広げている。
 戦場は血と涙に染まり、多くの命が無情にも散っていった。

 ヘレーネは再び視線を落とし、愛おしそうに赤ん坊の顔を見つめた。

「それに、アントン、見て。ルイーザはこんなに可愛らしい。私たちの娘は誰にも劣らない美しい子よ」

 アントンも視線を落とし、無垢な赤ん坊を見つめた。
 ルイーザの愛らしさに触れ、彼の怒りは徐々に和らいでいった。

 トゥルン・ウント・タクシス候世子夫妻の生活は順調で、第二子エリーザベトも生まれ、家族四人の新しい暮らしが幕を開けようとしていた。

 しかし、それは突然の書簡で打ち破られる。
 出産を終えたばかりのヘレーネの元に、ウィーンから一通の書簡が届いたのだ。
 そこには、フランツ・ヨーゼフからの命令が書かれていた。