窓の外には、深い夜の闇が広がる。
 王宮から戻ったヘレーネは、自室に下がり己の不運を嚙みしめていた。

 フランツ・ヨーゼフ皇帝の見合いで選ばれたのは、付き添いで来ていた妹のエリーザベトだった。
 さらには、タクシス侯爵家との縁談までもが王命によって頓挫した。
 すべてが崩れ去り、ヘレーネの胸には深い絶望が広がっていた。

「どうして……どうしてこんなことに……」

 涙が静かに頬を伝い落ちる。

 アントンは、ヨーロッパ随一の富豪で、結婚相手に困ることがないだろう。
 それに比べて、自分は皇帝に袖にされ、侯爵家との縁談も破談となり、適齢期を逃した公爵令嬢——どこにも嫁ぐことなどできない。
 一生を孤独に過ごすしかないのだ。

 だが、その胸の奥に、別の感情が広がっていた。
 気づかないふりをしていたが、ヘレーネはその感情に目を向けざるを得なくなった。

「……アントン……」

 その名を口にした瞬間、胸が締めつけられるような感覚が彼女を襲う。
 甘やかな微笑み、低く響く声、そして蕩けるように真摯に見つめる視線——それらが次々に脳裡に浮かんできた。

 ヘレーネは、ようやく気づいた。
 お互いの立場や利益のためではなく、彼を一人の男性として愛し始めている自分に。

 その時、廊下の向こうから足音が近づき、控えめなノックの音が扉に響いた。

「公女様、失礼いたします。」

 侍女頭の声には、普段とは違う緊張感が滲んでいる。

「タクシス侯爵家の世子様が、お越しです。いかがなさいますか?」
「アントンが……!?」

 驚きに息を呑んだヘレーネは、戸惑いながらも顔を上げた。

 王命が通達され、きっと彼は別れを告げに来たに違いない——直接、さよならを言うために。
 好きな相手には泣き顔ではなく、最後に笑顔を見せたい。
 そう心に決め、涙を拭ったヘレーネは、アントンを迎えるために客間へと向かった。

 扉を開けると、黒い外套に身を包んだアントンが、静かに立っていた。

「アントン……」

 ヘレーネは小さく彼の名を呼び、別れの言葉を待った。

 アントンはじっと彼女を見つめ、ゆっくりと歩み寄った。
 早馬で駆けつけたのだろう。
 アントンは、夜の冷たい風の匂いを纏っている。

 そして、彼女の頬に残る涙の跡に気づくと、痛ましそうに眉を寄せた。
 彼の手がそっとヘレーネの頬へと伸ばされた。

「泣いていたのか?」

 アントンは、頬を優しく指で辿った。
 その指の温もりに、ヘレーネは思わず動揺した。
 彼の指先が触れたところから、胸の奥がじんわりと熱くなっていく。

 ヘレーネは言葉に詰まり、ただ小さく首を振った。

 アントンは彼女を見つめ続け、沈黙が続く。
 彼の翠緑の瞳には、隠しきれない緊張が漂う。
 やがて、アントンは意を決したように息を吐き出すと、口を開いた。

「ヘレーネ、王命に背こうとも、君を諦めきれない」

 思いがけない言葉に、ヘレーネは目を瞬かせた。
 アントンは真剣な表情で言葉を継ぐ。

「結婚を強行すれば、家門から追放され、身分を失うだろう。それでも……一緒になってくれないか?」

 ヘレーネはその言葉に息を飲んだ。
 アントンは王命に背き、家門を捨ててでもヘレーネと一緒になろうとしている。
 胸の中に、喜びが広がっていくのを感じた。

「アントン、貴方は追放されて侯世子の地位を失ってもいいのね?」
「そうだ。それでも、ヘレーネと結婚したい」

 アントンはまっすぐ彼女を見つめた。
 ヘレーネはしばらく黙って考え込んだが、ふと笑みを浮かべた。

「わたしたち、追放されたら……コルフ島に行けるわよね? シチリアにも?」

 ヘレーネの声には、予想外の軽やかさが混じっていた。
 アントンは一瞬驚いたが、彼女の意図をすぐに理解し、愛しげに微笑んだ。

「そうだ、どこにだって行ける。ベネチアでも、フィレンツェでも、新大陸にだってさえ、君の行きたい場所ならどこへでも」
「それなら……案外、悪くないかもしれないわ」

 アントンの表情には安堵が滲んでいた。
 近づいてきて、ヘレーネの手を取り、アントンはそっと握りしめた。
 ヘレーネは少し照れくさそうに微笑み、アントンの手をぎゅっと握り返した。

「一緒に、どこへでも行きましょう。アントン、国を追われようとも、あなたとならどこへ行っても大丈夫」

その瞬間、ヘレーネの胸には確信が生まれた。
彼女の人生は、今まさに大きな『分水嶺』に立っている。
この選択が、彼女の未来に計り知れない変化をもたらすのだと、はっきりと感じた。

 抑えきれずにアントンはヘレーネを強く抱きしめた。
 腕の中に包まれたヘレーネは、心が温かく満たされていくのを感じた。
 頬が彼の胸に触れ、鼓動が伝わってくる。

「ヘレーネ……」

 アントンの声は微かに震えていた。
 ヘレーネは彼の背にそっと腕を回す。彼の温もりを感じながら、自分の不安が消えていくのを実感した。

 やがて、アントンはそっと彼女の肩に手を置き、少し体を離して、二人はお互いを見つめ、微笑んだ。
 アントンは彼女の手を取り、その指先に軽く口付けた。

「ヘレーネ……愛しているよ。」

 アントンの囁きに、ヘレーネの目からは再び涙がこぼれたが、それは悲しみの涙ではなかった。

「私も……あなたを愛しています。」

 ヘレーネは涙声で答えた。アントンは彼女を強く抱きしめ、そのまま唇を重ねた。
 二人の間には、もう何の迷いも残っていなかった。