バイエルン王国、王都ミュンヘン郊外。
シュタルンベルク湖の畔に佇むバイエルン公爵が所有するポッセンホーフェン城は、久々の来客に賑わいを見せていた。
不仲で知られる公爵夫妻も、今日ばかりは揃い、豪華な晩餐の準備が整っていた。
だが、その喧騒の中で、ヘレーネは心ここにあらずといった様子で、窓辺に佇んでいる。
秋の冷たい空気が彼女の肩を撫で、微かな震えが体を走る。
夕焼けに染まる空を見つめる彼女の心は、あの日の記憶に囚われていた。
オーストリア帝国の若き皇帝、フランツ・ヨーゼフとの見合い──その瞳に映ったのは自分ではなく、妹エリーザベトだった。
妹の自由奔放さが、厳格な規律で育った青年皇帝の心を掴んだのだ。
見合い相手から公然と振られたという事実は、ヘレーネの王族の姫としての体面を深く傷つけた。
欧州中の王室に嫁ぎ先を打診しても、彼女に応える家はどこにもなかった。
22歳になり適齢期を過ぎた身。
これから先、静かな余生を送るしかない──そう覚悟していた。
「ヘレーネ公女、こちらにおいででしたか」
懐かしい声が背後から響いた。
振り返ると、そこにはトゥルン・ウント・タクシス家の侯世子《エルププリンツ》、マクシミリアン・アントンが立っていた。
彼の赤金色の髪は、黄昏の光を受けてまるで炎のように揺らめいていた。
その凛とした姿に、ヘレーネは幼少期の楽しかった日々が蘇るが、同時に痛みをもたらした。
思春期を迎えてから、彼はまるで氷をまとったかのように冷ややかに、距離を置いてきたのだから。
だが、今の彼の翠緑の瞳には、これまでの冷たさとは違う、何か別の決意が宿っているように見えた。
「アントン侯世子……」
アントンはヘレーネに真っすぐに歩み寄り、深く息を吸い込んでから口を開く。
その瞳の奥に、隠しきれない緊張が浮かんでいる。
「……バイエルン公爵に、貴女との結婚の許可をいただきました」
アントンの言葉に、ヘレーネの体は固まった。
嫁ぎ先の宛てがない令嬢にとって、名門と名高いトゥルン・ウント・タクシス侯爵家の世継ぎとの縁談は、まさに願ってもないほどの魅力的な提案だ。
だが、彼女の胸に広がったのは喜びではなく、戸惑いだった。
「ヘレーネ公女、貴女の了承をいただきたい」
アントンは落ち着いた声で告げた。
欧州随一の富豪とも言われるトゥルン・ウント・タクシス家ならば、花嫁候補は選び放題だ。
彼が本当に自分を望んでいるというのが信じられない。
「……どうして?」
喉の奥から搾り出すように問いかけた。
アントンは少し目を伏せ、再びヘレーネを見つめると力強く答えた。
「かねてより貴女をお慕いしております」
アントンの声は力強く、情熱が込められていた。
だが、ヘレーネの心は冷静だった。
(嘘よ。そんなはずはない。)
ヘレーネは心の中で呟いた。
彼の言葉は甘く優しいが、それを鵜呑みにして心を開くほど、無防備ではない。
王族と貴族の婚姻は滅多に起こらない。
だが、傷物となった公爵令嬢ならば、侯爵家でも娶ることができると考えたのではないか。
妹のエリーザベトがオーストリア皇妃となった今、姉と結婚すれば、オーストリア皇帝の姻戚という地位を得る。
その計算が働いたに違いない。
だが、慕っていると宣うアントンは、形だけでも愛情を示そうとしている。
不仲な両親を見ていると、例え計算ずくの婚姻でも、愛情を示そうと努力する相手ならば、救いがあるように思えた。
晩餐会は恙なく終わった。
すでに、求婚者は公爵夫妻の信頼を得ているようだ。
訪問は頻繁になり、いつしか両親の間に座るアントンの席は、ヘレーネの隣に用意されるようになった。
やがて、両親の期待に背中を押される形で、ヘレーネはアントンの求婚に頷いた。
シュタルンベルク湖の畔に佇むバイエルン公爵が所有するポッセンホーフェン城は、久々の来客に賑わいを見せていた。
不仲で知られる公爵夫妻も、今日ばかりは揃い、豪華な晩餐の準備が整っていた。
だが、その喧騒の中で、ヘレーネは心ここにあらずといった様子で、窓辺に佇んでいる。
秋の冷たい空気が彼女の肩を撫で、微かな震えが体を走る。
夕焼けに染まる空を見つめる彼女の心は、あの日の記憶に囚われていた。
オーストリア帝国の若き皇帝、フランツ・ヨーゼフとの見合い──その瞳に映ったのは自分ではなく、妹エリーザベトだった。
妹の自由奔放さが、厳格な規律で育った青年皇帝の心を掴んだのだ。
見合い相手から公然と振られたという事実は、ヘレーネの王族の姫としての体面を深く傷つけた。
欧州中の王室に嫁ぎ先を打診しても、彼女に応える家はどこにもなかった。
22歳になり適齢期を過ぎた身。
これから先、静かな余生を送るしかない──そう覚悟していた。
「ヘレーネ公女、こちらにおいででしたか」
懐かしい声が背後から響いた。
振り返ると、そこにはトゥルン・ウント・タクシス家の侯世子《エルププリンツ》、マクシミリアン・アントンが立っていた。
彼の赤金色の髪は、黄昏の光を受けてまるで炎のように揺らめいていた。
その凛とした姿に、ヘレーネは幼少期の楽しかった日々が蘇るが、同時に痛みをもたらした。
思春期を迎えてから、彼はまるで氷をまとったかのように冷ややかに、距離を置いてきたのだから。
だが、今の彼の翠緑の瞳には、これまでの冷たさとは違う、何か別の決意が宿っているように見えた。
「アントン侯世子……」
アントンはヘレーネに真っすぐに歩み寄り、深く息を吸い込んでから口を開く。
その瞳の奥に、隠しきれない緊張が浮かんでいる。
「……バイエルン公爵に、貴女との結婚の許可をいただきました」
アントンの言葉に、ヘレーネの体は固まった。
嫁ぎ先の宛てがない令嬢にとって、名門と名高いトゥルン・ウント・タクシス侯爵家の世継ぎとの縁談は、まさに願ってもないほどの魅力的な提案だ。
だが、彼女の胸に広がったのは喜びではなく、戸惑いだった。
「ヘレーネ公女、貴女の了承をいただきたい」
アントンは落ち着いた声で告げた。
欧州随一の富豪とも言われるトゥルン・ウント・タクシス家ならば、花嫁候補は選び放題だ。
彼が本当に自分を望んでいるというのが信じられない。
「……どうして?」
喉の奥から搾り出すように問いかけた。
アントンは少し目を伏せ、再びヘレーネを見つめると力強く答えた。
「かねてより貴女をお慕いしております」
アントンの声は力強く、情熱が込められていた。
だが、ヘレーネの心は冷静だった。
(嘘よ。そんなはずはない。)
ヘレーネは心の中で呟いた。
彼の言葉は甘く優しいが、それを鵜呑みにして心を開くほど、無防備ではない。
王族と貴族の婚姻は滅多に起こらない。
だが、傷物となった公爵令嬢ならば、侯爵家でも娶ることができると考えたのではないか。
妹のエリーザベトがオーストリア皇妃となった今、姉と結婚すれば、オーストリア皇帝の姻戚という地位を得る。
その計算が働いたに違いない。
だが、慕っていると宣うアントンは、形だけでも愛情を示そうとしている。
不仲な両親を見ていると、例え計算ずくの婚姻でも、愛情を示そうと努力する相手ならば、救いがあるように思えた。
晩餐会は恙なく終わった。
すでに、求婚者は公爵夫妻の信頼を得ているようだ。
訪問は頻繁になり、いつしか両親の間に座るアントンの席は、ヘレーネの隣に用意されるようになった。
やがて、両親の期待に背中を押される形で、ヘレーネはアントンの求婚に頷いた。