クリストファー=クロス。彼には、決して他の隊員には言えない秘密があった。
いや、より正確に事実を伝えるなら、こう言った方がいいだろう。
クリスティーナ=クロス。彼女には、決して他の隊員には言えない秘密があった。
要は、性別が女であるにも関わらず、男と偽って警備隊に入っていたのだ。
いったいなぜそんなことになったのか。それにはこんな経緯があった。
「旦那様のバカーっ!」
その日クリスは、ナナレンの近くの町にある酒場で、何度も叫び声を上げていた。かと思うと、急においおいと泣きながらテーブルにうつ伏せる。
ちなみに、この時はちゃんと女の格好をしている。
他の客が、何事かといった様子で目を向けるが、泣いているのが若い女性だとわかったとたん、一人の酔った男が近づいてきた。
「よう姉ちゃん。嫌なことでもあったのなら、俺が話を聞くぜ。男にでも捨てられたか?」
もし本当に男に捨てられたのだとしたら、こんな無神経な奴に話したくはないだろう。
男の方も、実際は話なんて聞く気はなく、ちょっかいをかけてきただけだ。
そんな男の態度は、今のクリスを苛立たせるのには十分だった。
「すみません、ほっといてください!」
「つれないこと言うなって」
クリスが怒っても男は一切堪えず、馴れ馴れしく肩に手をかける。
さすがにこれ以上はまずいと思ったのだろう。一部始終を見ていた店主が、やってきて声をかける。
「お客さん。うちでそういう声かけは遠慮してくれませんか」
だが次の瞬間、突如男が叫び声をあげた。
「痛ててててててっ! なっ、何するんだ!」
店主は、最初何が起きているのかわからなかった。少しの間をおいてようやく、男がクリスに腕を捻りあげられているのだと理解する。
「は、離せ。このっ!」
男は暴れるが、腕は一向に振り解けないどころか、ますますおかしな方向に引っ張られていく。
「私のことはほっといてください。でないと、どうするかわかりませんよ!」
「は……はい!」
クリスが手を離し、男はようやく自由になるが、その顔は真っ青だ。
少しまでの威勢はどこへやら。一言すみませんと謝ると、瞬く間に店を後にする。
しかし残されたクリスはと言うと、男を撃退した高揚感などまるでない。むしろよけいに沈んだ様子で、そばに置いてあったジョッキの中身を一気に飲み干す。
そして、またもしくしくと泣きはじめる。
「うぅ……ぐすっ」
一方、それを近くで見ていた店主は困っていた。
(さて、どうしたものかな)
さっきみたいにトラブルになりそうなら止めにも入るが、そうでなければこういう客には深く関わらないのが一番だ。下手をすると、今度は自分が厄介事に巻き込まれかねない。
しかし、このまま我関せずを貫くには、あまりにも悲壮感が漂っていた。
「お、お嬢ちゃん、いくらやけ酒でも、飲み過ぎは体に悪いよ」
結局、迷ったあげく、声をかけることにする。さっきの男の二の舞にならないように、極めて慎重にだ。
「えっぐ……お酒なんて、一滴も飲んでませんよ」
「えっ、そんなはずは……本当だ」
クリスは酒をあおっていたわけではなかった。ただつまみを食べ、水を飲みながら泣いているだけだった。
最初は、本当にやけ酒をしようかと思っていたのだが、飲める年齢になるまでは数ヵ月足りなかった。そして何より、酒の値段が思ったより高くて断念したのだ。
「私だって、飲んで全てを忘れたいんです! だけどお酒は高いんです! おいそれとお金を使うわけにはいかないんです! わかります!?」
「あ、ああ、わかるとも。けど、いったい何があったんだい。よかったら話を聞かせてくれないか?」
店主も、今まで何人もの酔っぱらいの相手をしてきたプロだ。さすがにシラフでこんなになってるのは初めてだが、それでも今まで培ってきた接客術で、なんとかなだめていく。するとクリスも多少は落ち着いたのか、少しずつ事情を話し始めた。
「私、半年前に、この町の商家に住み込みで働きに入ったんです。故郷の村からはだいぶ遠いですけど、とってもお給料がよかったんですよ。実家にはまだ小さい弟達がいるんですが、仕送りして少しでもいい暮らしをさせてあげよう。そう思って、これまで働いてきました。なのに、なのに!」
クリスはそこまで言ったところで、一度黙りこむ。そしてワナワナと肩を震わせると、力任せにテーブルに拳を叩きつけた。
「先日、旦那様から従業員一堂に、慰安旅行に行っておいでと言われたんです。毎日お店のために働いてくれている君達への、ほんの感謝の気持ちだって。でもその慰安旅行から帰ってきたら、お店の中がもぬけの殻になっていたんです。旦那様とその家族、夜逃げしていたんですよ!」
「ああ。君、あの店の従業員だったんだね」
その話なら、街でも噂になっていた。住み込みの従業員を旅行に行かせている間に、店にある金目のものを全て持っての逃亡。当然、従業員は誰一人としてそのことを知らず、帰ってきた時には職を失っていたというわけだ。
「そりゃ、お店の経営が苦しいって話は私も聞いてましたよ。そんな時期に旅行なんて大丈夫かなとも思いました。けど、だからってこんなのあんまりじゃないですかーっ!」
「うん、そうだね。君の言う通りだ」
確かに、ひどい話だ。
しかしクリスの不幸はまだ終わらない。昨日まで職場であり住み家であった建物は、いつの間にやら売りに出されていて、立ち退かなければならないそうだ。
「じゃあ、お嬢ちゃんはもしかして宿無しかい?」
「うぅ……一応、建物を買い取った人が哀れに思ったのか、立ち退くのは一週間だけ待ってくれるそうです。まあ、行く当てなんてないので、一週間後には宿無しになってしまいますけどね」
「それは、災難だったね……」
実際、哀れと言う他ないと、人のいい店主は思った。
こんな話を聞いてしまっては、同情するしかない。
「そうなると、すぐにでも次の仕事を探さなくてはいけないな。ちょっと待ってなさい」
店主はそう言うと、一度店の奥へと引っ込んでいき、それからいくつかの紙の束を手にして戻ってきた。
「これ、全部求人募集のチラシだよ」
「ぐす……求人募集?」
「時々、店にこういうのを貼ってくれって頼まれることがあってね。とりあえず、この中から探して見るってのはどうだい?」
「うぅ……ありがとうございます!」
涙でぐちゃぐちゃになった顔で、クリスはお礼を言う。
ひどい裏切りにあった彼女には、こうしてちゃんと話を聞いてくれる人がいるというだけでありがたかった。
「私、絶対次の仕事先を見つけます」
こうして、再就職先を探すことを決意したクリス。しかしやる気を出したのはいいが、それで全てがうまくいくほど甘くはなかった。
なにしろ、一週間後には住む家を失うのだ。当然、次の仕事も以前と同じような住み込みか、でなければ近くに家を借りて生活できるだけの給金があるところが望ましい。
しかしその条件に合い、なおかつクリスが就職できるところとなると、簡単には見つからなかった。
いや、より正確に事実を伝えるなら、こう言った方がいいだろう。
クリスティーナ=クロス。彼女には、決して他の隊員には言えない秘密があった。
要は、性別が女であるにも関わらず、男と偽って警備隊に入っていたのだ。
いったいなぜそんなことになったのか。それにはこんな経緯があった。
「旦那様のバカーっ!」
その日クリスは、ナナレンの近くの町にある酒場で、何度も叫び声を上げていた。かと思うと、急においおいと泣きながらテーブルにうつ伏せる。
ちなみに、この時はちゃんと女の格好をしている。
他の客が、何事かといった様子で目を向けるが、泣いているのが若い女性だとわかったとたん、一人の酔った男が近づいてきた。
「よう姉ちゃん。嫌なことでもあったのなら、俺が話を聞くぜ。男にでも捨てられたか?」
もし本当に男に捨てられたのだとしたら、こんな無神経な奴に話したくはないだろう。
男の方も、実際は話なんて聞く気はなく、ちょっかいをかけてきただけだ。
そんな男の態度は、今のクリスを苛立たせるのには十分だった。
「すみません、ほっといてください!」
「つれないこと言うなって」
クリスが怒っても男は一切堪えず、馴れ馴れしく肩に手をかける。
さすがにこれ以上はまずいと思ったのだろう。一部始終を見ていた店主が、やってきて声をかける。
「お客さん。うちでそういう声かけは遠慮してくれませんか」
だが次の瞬間、突如男が叫び声をあげた。
「痛ててててててっ! なっ、何するんだ!」
店主は、最初何が起きているのかわからなかった。少しの間をおいてようやく、男がクリスに腕を捻りあげられているのだと理解する。
「は、離せ。このっ!」
男は暴れるが、腕は一向に振り解けないどころか、ますますおかしな方向に引っ張られていく。
「私のことはほっといてください。でないと、どうするかわかりませんよ!」
「は……はい!」
クリスが手を離し、男はようやく自由になるが、その顔は真っ青だ。
少しまでの威勢はどこへやら。一言すみませんと謝ると、瞬く間に店を後にする。
しかし残されたクリスはと言うと、男を撃退した高揚感などまるでない。むしろよけいに沈んだ様子で、そばに置いてあったジョッキの中身を一気に飲み干す。
そして、またもしくしくと泣きはじめる。
「うぅ……ぐすっ」
一方、それを近くで見ていた店主は困っていた。
(さて、どうしたものかな)
さっきみたいにトラブルになりそうなら止めにも入るが、そうでなければこういう客には深く関わらないのが一番だ。下手をすると、今度は自分が厄介事に巻き込まれかねない。
しかし、このまま我関せずを貫くには、あまりにも悲壮感が漂っていた。
「お、お嬢ちゃん、いくらやけ酒でも、飲み過ぎは体に悪いよ」
結局、迷ったあげく、声をかけることにする。さっきの男の二の舞にならないように、極めて慎重にだ。
「えっぐ……お酒なんて、一滴も飲んでませんよ」
「えっ、そんなはずは……本当だ」
クリスは酒をあおっていたわけではなかった。ただつまみを食べ、水を飲みながら泣いているだけだった。
最初は、本当にやけ酒をしようかと思っていたのだが、飲める年齢になるまでは数ヵ月足りなかった。そして何より、酒の値段が思ったより高くて断念したのだ。
「私だって、飲んで全てを忘れたいんです! だけどお酒は高いんです! おいそれとお金を使うわけにはいかないんです! わかります!?」
「あ、ああ、わかるとも。けど、いったい何があったんだい。よかったら話を聞かせてくれないか?」
店主も、今まで何人もの酔っぱらいの相手をしてきたプロだ。さすがにシラフでこんなになってるのは初めてだが、それでも今まで培ってきた接客術で、なんとかなだめていく。するとクリスも多少は落ち着いたのか、少しずつ事情を話し始めた。
「私、半年前に、この町の商家に住み込みで働きに入ったんです。故郷の村からはだいぶ遠いですけど、とってもお給料がよかったんですよ。実家にはまだ小さい弟達がいるんですが、仕送りして少しでもいい暮らしをさせてあげよう。そう思って、これまで働いてきました。なのに、なのに!」
クリスはそこまで言ったところで、一度黙りこむ。そしてワナワナと肩を震わせると、力任せにテーブルに拳を叩きつけた。
「先日、旦那様から従業員一堂に、慰安旅行に行っておいでと言われたんです。毎日お店のために働いてくれている君達への、ほんの感謝の気持ちだって。でもその慰安旅行から帰ってきたら、お店の中がもぬけの殻になっていたんです。旦那様とその家族、夜逃げしていたんですよ!」
「ああ。君、あの店の従業員だったんだね」
その話なら、街でも噂になっていた。住み込みの従業員を旅行に行かせている間に、店にある金目のものを全て持っての逃亡。当然、従業員は誰一人としてそのことを知らず、帰ってきた時には職を失っていたというわけだ。
「そりゃ、お店の経営が苦しいって話は私も聞いてましたよ。そんな時期に旅行なんて大丈夫かなとも思いました。けど、だからってこんなのあんまりじゃないですかーっ!」
「うん、そうだね。君の言う通りだ」
確かに、ひどい話だ。
しかしクリスの不幸はまだ終わらない。昨日まで職場であり住み家であった建物は、いつの間にやら売りに出されていて、立ち退かなければならないそうだ。
「じゃあ、お嬢ちゃんはもしかして宿無しかい?」
「うぅ……一応、建物を買い取った人が哀れに思ったのか、立ち退くのは一週間だけ待ってくれるそうです。まあ、行く当てなんてないので、一週間後には宿無しになってしまいますけどね」
「それは、災難だったね……」
実際、哀れと言う他ないと、人のいい店主は思った。
こんな話を聞いてしまっては、同情するしかない。
「そうなると、すぐにでも次の仕事を探さなくてはいけないな。ちょっと待ってなさい」
店主はそう言うと、一度店の奥へと引っ込んでいき、それからいくつかの紙の束を手にして戻ってきた。
「これ、全部求人募集のチラシだよ」
「ぐす……求人募集?」
「時々、店にこういうのを貼ってくれって頼まれることがあってね。とりあえず、この中から探して見るってのはどうだい?」
「うぅ……ありがとうございます!」
涙でぐちゃぐちゃになった顔で、クリスはお礼を言う。
ひどい裏切りにあった彼女には、こうしてちゃんと話を聞いてくれる人がいるというだけでありがたかった。
「私、絶対次の仕事先を見つけます」
こうして、再就職先を探すことを決意したクリス。しかしやる気を出したのはいいが、それで全てがうまくいくほど甘くはなかった。
なにしろ、一週間後には住む家を失うのだ。当然、次の仕事も以前と同じような住み込みか、でなければ近くに家を借りて生活できるだけの給金があるところが望ましい。
しかしその条件に合い、なおかつクリスが就職できるところとなると、簡単には見つからなかった。