ヒューゴは一度軽く息を吐いてから、静かに語り始める。
「そもそもこれは、親戚たちなら大抵が知ってることだ。ただ、知っていながら誰も触れようとはしない。俺自身も同じで、お前に渡した資料にも何も書かなかった。俺が、アスター家に金で売られたという事実はな」
 売られたという言葉に、思わず眉を潜める。
 さっき、ロイドも同ことを言っていた。
「それってまさか、人身売買ってことですか?」
「いや、そういうわけじゃない。そうだな、まず最初に、俺の父にあたる人の話でもするか。その人は、さっきお前も会った祖父殿の一人息子だった」
 ランス=アスター辺境伯の一子。その立場から、当然将来は後を継いで当主になるものと目され、本人もそのつもりでいた。
 しかし、そうはならなかった。
 今から二十年近く前。彼とその妻の乗る馬車が不運にも事故に遭い、崖から落ちた。すぐに捜索が行われたものの、見つかった時には、二人とも事切れていたという。
 次期当主となるはずだった人物の、あまりに呆気ない最後だった。
「それからしばらく、この家はかなり荒れていたと聞く。当然だな。次期当主となる者が死んだのだから、新たな後継者を決めなくてはならない。だが亡くなった二人の間には子はおらず、当主直系の血筋は絶えた。そうなると、誰が後継者にふさわしいか。何人もの候補が出てはきたが、どれも決め手に欠けていたそうだ」
 自分の家の話だというのに、ヒューゴはまるで他人事のように言う。
 だが今の話を聞いて、クリスはおかしなところに気づいた。
「ちょっと待ってください。亡くなった二人の間に子どもがいなかったって、それじゃ総隊長はどこから出てきたんですか?」
 子どもができる前に死んでしまっては、ヒューゴが存在しないことになってしまう。
「別に嘘はついていない。確かに俺の父親とその妻との間に子どもはいなかった。だが、別のところにはいたんだよ」
「別のところって。それって……」
 妻以外のところにいる子供。それが何を意味するのかは、クリスもわかった。
「愛人だ。俺は、父親が他所の女との間に作った、不義の子だったんだよ」
 そこまで話して、ヒューゴは自虐的に笑う。
 この時点で、何も知らないクリスにとっては衝撃だった。
 クリスとて何も知らない子供ではないのだし、愛人だの不義の子だのという話を聞くのも初めてではない。
 だが身近な人からこんな風に言われると、どう応えていいかわからなくない。
「俺の母は、下町に住むただの平民だったよ。どうしてそんなのが貴族である父の愛人になったのかは俺も知らない。だが当時まだ子どもだった俺は、さらにものを知らなかった。自分の父親が誰かも、母親や俺自身がどんなに貧しい生活をしていたのかも、まるでわかっていなかったのだからな」
 はじめは静かだったヒューゴの口調が、だんだんと荒々しいものへと変わっていく。それだけ、平常心でいられないのだろう。
「父親が生きていたころ、母は定期的に金を渡され、一切の苦労はなかったらしい。だが亡くなってからはそれも途絶えた。女手一つで子どもを育てるとなると相当な負担だ。貯めていた金も尽き、生活も厳しくなったんだろう。ある日俺は母に手を引かれ、このアスター家に連れて来られた。そして、その場で売られた」
「…………えっ?」
 ようやく出てきた、売られたという言葉。だがあまりにも唐突すぎて、すぐには理解が追い付かない。
「売られたって、どういうことですか?」
「そのままの意味だ。さっきも言った通り、当時この家は後継者問題に揺れていた。母もどこかでそれを聞いて思ったんだろう。そこに、隠し子とはいえその血を引く子供を持っていけば、金になるとな」
「それって……」
 ぞわりと、全身が震える。今の話を聞いて想像したことが、的外れであってほしいと願う。
 しかし、それは叶わなかった。
「金を払えば、当主直系の血筋である俺をこの家にやる。そう言って母親は、大金を手にすることができた」
「そんな!」
 信じたくはなかった。もちろん世の中には、家族より金の方が大事という人間だっているだろう。そのくらいのことはわかってる。
 だが、それを受け入れられるかは全くの別問題だ。
「それって、お母さんは本当にお金のためにやったんですか? この家にいる方が総隊長のためになると思ったんじゃないんですか?」
「さあな。母親が何を思っていたかなんて俺にはわからん。だが、俺の目の前で言っていたよ。父親と関係を持ったのは、そうすれば金に苦労することがなかったからだ。それがなくなった今、わざわざ俺を育てる理由もないってな。それ以来、母とは一度も会っていない」
 瓶に残っていたワインを乱暴にグラスに注ぎ、それを一気に飲み干す。
 さすがに酔いが回ったのか、フラリと大きく頭を揺らし、そのまま項垂れた。
「俺が女が苦手になったのも、多分そのことが原因だろうな。好きでもない男と関係を持ち、愛せもしない子供を産める。それがどうにも受け入れられなかった」
 図らずも、ずっと気になっていた疑問の答えを知ることができた。
 もちろん全ての女性がそうだというわけではないし、ヒューゴもそれはわかっているはず。だが一度拗れてしまった感情を、そう簡単に直せるとは思えなかった。
「酒に頼ったのは失敗だったかもな。女が苦手な原因までは話すつもりはなかったはずなんだかな」
 クリスは何も言わなかった。いや、言えなかった。こんな話を聞いて、なんと言ったらいいのか、全くわからない。
「つまらん話を聞かせたな。さっきも言ったが、お前にこれを話したのは、俺の自己満足だ。すぐに忘れてくれてかまわん。だから、その……お前が泣く必要はない」
「えっ……?」
 言われて、いつの間にか、目に涙が浮かんでいることに気づく。
「──っ!」
 その涙を慌てて拭う。全て拭い終わってから、叫ぶように言う。
「泣きません! 泣いたら、隊長が困るじゃないですか!」
「お前……」
 ヒューゴが最も苦手なのは、泣いている女の姿だ。ただでさえ辛い時に、それを見せて困らせたくはなかった。何の言葉もかけてやれないなら、せめて困らせたくはない。
 そんなクリスを見て、ヒューゴは静かに言う。
「なあ。酒に酔ったついでに、もうひとつ話をしてもいいか?」
「もちろんです。最後まで付き合うって、言ったじゃないですか」
 ここから何を話そうとしているのかはわからない。
 だがヒューゴがそれを望んでいるなら、全て聞いてやろうと思った。
「俺は次期当主としてこの家に売られたが、そう簡単になれるわけじゃない。それにふさわしい人間になるため、学問だの武術だの、さんざん叩き込まれはした。だがそれでも、愛人の子、しかも平民の子との間に生まれた子が当主でいいのか、親戚連中は大いに揉めた。ロイドの奴が俺を気に入らないのもそのためだ」
 ロイドの名が出てきて、また嫌な気持ちが込み上げてくる。
 あの時彼が話そうとしていたのは、今聞いたヒューゴの事情そのものだったのだろう。
 それを話せば、ヒューゴが傷つくとわかっていたから。
「ああいう嫌がらせがあったのも、一度や二度じゃない。恥をかかされたこともあれば、逆にやり込めたこともあった。だがな──」
 不意に、ヒューゴの言葉が途切れる。これまでにも、話の途中で沈黙が続くことは何度かあったが、今までで一番長いような気がした。
 話しにくいことなのだろうか。もしそうならば、無理してまで話さなくてもいい。
 そう言おうとしたその時だった。
「誰かが俺のために、あんなにも声をあげ怒ってくれたのは初めてだったよ。だから、その……ありがとな」
「えっ?」
 出てきた言葉はあまりに予想外で、何を言っているのかすぐには理解できなかった。
「えっと、どういうことです?」
「どうって、礼を言ってるんだよ。今のを聞けばわかるだろ!」
「す、すみません」
「くそっ。やっぱり言うんじゃなかった」
 怒鳴ってそっぽを向くヒューゴだが、その頬は先ほどまでと比べても、より赤くなっていた。
 その原因が、酔いのせいか怒ったからか、はたまた別の何かかはわからない。
 だがそれから、小さな声でそっと呟く。
「お前がそういうやつだから、俺のことも全部話せる。そう思えたんだよ」
 そして、ほんの少しだけ微笑む。
 それを見て、クリスの胸がドクンと大きく高鳴った。
(な、なにこれ……?)
 どうしてこんな時にドキドキしているのか。微笑んだヒューゴを見て、どうして嬉しくなるのか。
 わけがわからず困惑するクリスだが、答えは出ないまま、胸の高鳴りは大きくなる一方だった。