入社から3ヶ月後に本社で開かれた研修で、俺と彼女はお互いを認知した。
それも、最悪のシチュエーションと最高のタイミングで。
「ー…ねえ、こんな所でやめようよ」
給湯室の横にあるトイレに入ろうとすると、そんな会話が聞こえてきて思わず顔を顰《しか》める。
勤務中、しかもお膝元の本社で情事を試みようとはいい度胸だ。
そう思いつつも、女の声は拒否性を帯びていたことから少しだけ中を覗き込むと、彼女の姿と見知らぬ男の後ろ姿が目に入り衝撃で立ち止まった。
「ハルって真面目すぎ…別に休憩中だし誰も来ないじゃん」
「…そういう問題じゃないよ。とにかく、もう戻ろう?」
「なんで?好きじゃん、いちゃつくの」
癇に障る話し方と、彼女を下に見た言葉の数々に苛立ちがピークになったところで無遠慮に足を踏み入れた。
「そこで何をしているんですか」
「…!し、失礼しましたっ」
「——チッ」
首から下げたネームプレートは本社の人間であることを表す証。
俺の顔よりも先に二人の視線が胸の下あたりに留まって、両極端な反応をそれぞれ見せた。
舌打ちを残して俺の横をすり抜け足早に去っていく彼に、悲しげで温度の低い視線を投げかける彼女に対しても、ワイシャツの襟から覗き見えた首筋の鬱血にも、訳も分からず腹が立つ。
それなのに不思議と頭は冷えていて、冷静に初動を考えていた。
「大丈夫だった?」
「…!は、はいっ。あの、申し訳ございません」
自分でも聞いたことがないくらいに穏やかで慈愛に満ちた声をかけると、彼女の視線がようやく交わった。
けれどすぐに謝罪によって下を向かれてしまう。
小さな体をさらに萎縮させて頭を下げる姿が見たかったわけではない。
「中野さん…だっけ?」
「え…あ、はい…」
「ああ、驚かせたね。今日同じ会議室で研修を受ける篠宮です。同期だけど本社にいる関係で今日の研修準備手伝わされたから、誰が来るかは知っているんだ」
「そうだったんですか…!大変でしたね」
砕けた口調で話しかけると、ぱっと顔色が明るくなり労いの言葉で返してくれる。
「そ。こき使われちゃうから。…でも、色々出来るから中野さんも何かあったらいつでも遠慮せずに言ってね」
「い、いいんですか」
「勿論。…そうだ、名刺渡しておく。何かあったら内線かけて」
「…ありがとうございます!」
まるでヒーローでも見るかのような純粋な瞳に見つめられて、あまりの真っすぐさに心を貫かれた。
開いた穴から漏れ出た過去の表にはできない遊びや仮面の下に潜ませた黒い欲が流れ出していったみたいで、水のように澄んだ視線に俺は完全に虜になった。