さやかの世界は、幼い子どものように点と点で出来ている。
 義兄に連れられて車で外出するだけで、その間というものがない。だから外出先で義兄とはぐれたら、家への帰り方さえわからない。
 さやかはある日、外出先で珍しく一人でいた。
 そこは義兄が一年ほど前に父から譲り受けた洋館で、元々は義兄の曾祖父が建てたものだった。建てられた頃が明治だったからか、異国情緒の漂う緑色の屋根とテラスがあった。
 その日は義兄の休日で、義兄はさっちゃんに面白いものを見せてあげようと言って彼女を連れ出した。
 義兄は自らさやかの手を引いて洋館の中を案内すると、ガラス張りのテラスにさやかを導いた。そこで二人で、馴染みのホテルからデリバリーしてランチを取った。
 陽光の差し込むうららかな昼下がり、義兄と二人だけののんびりとした時間に、さやかはくつろいでいた。
 次第にまぶたが重くなったさやかに、義兄は優しく言った。
「ベッドもちゃんと手入れしてある。少しお昼寝しなさい、さっちゃん」
 義兄はさやかを抱き上げて、彼女を寝室に連れて行った。おひさまの匂いのするシーツの上にそっと下ろされて、さやかは心地いい午睡に身を委ねた。
 義兄と一緒だから、知らない場所に来たという緊張はなかった。だから一人で目が覚めたとき、さやかは子どものようにうろたえた。
 さやかはすぐに寝室を出て義兄を探そうとして、ふとベッドの隣に立てかけた姿見に気づいた。
 それは薔薇のツタで縁取られた、背の高い銀の鏡だった。その精緻な細工に見惚れてさやかが鏡に触れると、鏡にからまっていたカーテンが引かれた。
「え……っ」
 幕が切られるようにカーテンが引かれて、そこに思いのほか広い空間が現れる。
「奥に部屋があったの……あ」
 驚いてさやかがつぶやいたのは一瞬で、すぐに辺りの光景に赤面する。
 隠された部屋には、裸婦の絵画がいくつも置かれていた。それも同じ女性を繰り返し描いたようで、横顔や、背中から見た彼女や、ベッドの上から彼女を覗き込んだ絵もある。
 けれどその絵に映っていた描き手のまなざしは、いやらしいものではなかった。彼女に対する陶酔にまかせて、無心に筆を走らせたように思えた。
「みつかっちゃったか」
 さやかが声をかけられて振り向くと、義兄が側に立っていた。
 義兄もまた色気を帯びたまなざしではなく、懐かしいものを眺める目で絵たちを見て言う。
「絵の女性は、曾祖父の腹違いの妹だったそうだよ。曾祖父はよく義妹とここに籠って、何枚も彼女の絵を描いたそうだ」
 さやかは最初の驚きが過ぎると、少し落ち着いて絵を見ることができた。
 絵の中の女性は、描き手のまなざしを静かに受け入れているようだった。首をめぐらせて髪を梳く仕草、時にはくつろいで微笑んでいる様子もある。
 さやかと義兄は手を取って、その絵たちを順々にみつめながら歩く。それは禁忌の絵に心を躍らせるのではなく、お互いが考え事をしているような時間だった。
 ふとさやかは義兄を見上げて、あどけない問いを投げかけた。
「お兄ちゃんも、私を抱きたいと思うときがあるの?」
 義兄はそれに、さやかと結んだ手を持ち上げて答えた。
「今はこうして手をつないだり、さっちゃんを抱っこしたりしていたいかな」
「いつかは?」
「どうかな」
 義兄はさほど悩む素振りもなくさらりと言った。
「曾祖父と違って、俺とさっちゃんは血のつながりがないからね。抱きたいと思ったら、その前にさっちゃんと結婚するんじゃないかな」
 さやかは、そうなんだと素直に思う。だって義兄がもしその域に踏み込むなら、もうとっくにそうできているからだった。
 義兄はさやかの頭を引き寄せて、その上に口づけて言う。
「結婚したいなら、しよ。子どもが欲しいなら、作ろ。でもそれより、さっちゃんをいつも愛していたい。さっちゃんにも愛されていたい。それじゃだめ?」
 さやかはふいに柔らかく笑って、義兄を見上げる。
 さやかはうなずいて、義兄の背に腕を回す。
「……うん。私も、お兄ちゃんと同じがいい」
 森の中の洋館、そこは結ばれなかった二人の愛が宿るところ。
 けれどそれを受け継ぐ子どもたちは、そこで解けない愛を誓っている。