千陀組の若頭には、大切な小鳥がいるらしい。
さやかはそう噂されているとは知らずに子ども時代を過ごした。
なぜって、金融業を営む義兄が若頭という裏の地位を持っていたことさえ、さやかが一年前、大学に入ってからようやく聞いたことだったから。
義兄とさやかを後部座席に乗せて滑るように走っていた車が、不自然なほど唐突に止まった。
助手席の側近が降りて少し時間があった。まもなく側近は戻って来て義兄に告げる。
「末松組の元若頭が、話だけでも聞いてほしいと言っていますが」
義兄は側近の言葉に面倒そうにまばたきをして、さやかに振り向いた。
「さっちゃん、少し待っててね」
義兄がさやかに告げた声はいつも通り優しかった。
義兄は車の外に出て、仕事の話をしていたようだった。
スモークのかかった窓ごしに見えたのは、すがるように義兄に何かを訴える壮年の男の姿だった。街灯の光もほとんど無い道路の際で、エンジンの吐き出す煙だけが冬の空に広がっていた。
義兄は始終氷のようなまなざしで男を見下ろしていて、まもなく話を打ち切って戻ってきた。
話の結果は、側近が義兄に確かめるまでもないことのようだった。走り出した車の中で、義兄は凍てついた声で側近に命じた。
「奴は車に触ったな。請求しとけ。まだ言葉を話せるんだから、どこを売ればいいかはわかるだろ」
さやかは義兄に気づかれないようにこくんと息を呑んだつもりだったけど、義兄はあやすようにさやかの頭を撫でて言った。
「さっちゃん、今日はお肉も食べてえらかったね。また行こう?」
義兄がさやかに話す声に先ほどまでの冷たさはどこにもなくて、さやかは戸惑いながら黙ってしまう。
車が走る間、義兄は毛づくろいをするようにさやかの髪を梳いていた。
「大丈夫だよ。また貸し切りにするし、調子が悪くてもお義兄ちゃんは医師免許を持ってるんだから」
小さい頃、母と一緒に義兄と義父の家に初めて入ったさやかは、吸入器が手放せないくらいに喘息がひどかった。学校に上がってからも、調子が悪いとすぐ失禁する癖があって、長いこと学校にも通えなかった。
何かの役に立つわけではなく、足を引っ張るばかりだったさやかと、早くから裏社会で生きるべく育てられた義兄は、全然違う生き物に見えた。
「帰ったら一緒にお風呂、入ろ。洗ってあげる」
でも昔は気が弱かった義兄はさやかをとても可愛がって、さやかの世話を焼くうちに若頭にふさわしい力を身に着けていった。
義兄はふいに仕事で見せるような艶やかな力強さをまとって、さやかに笑う。
「……俺、甘々なお義兄ちゃんになってから、極悪人の若頭が楽しくて仕方ないんだ」
さやかはそんな義兄が今も怖くて、その何倍かのあこがれを感じている。
さやかは義兄の肩に頭を寄せて目を閉じる。
わたしも小鳥になってから、お義兄ちゃんがもっと好きになった。
「一緒に寝よ」
今日も若頭と小鳥は夜の街を滑るように走って、二人の寝床に帰って行く。
さやかはそう噂されているとは知らずに子ども時代を過ごした。
なぜって、金融業を営む義兄が若頭という裏の地位を持っていたことさえ、さやかが一年前、大学に入ってからようやく聞いたことだったから。
義兄とさやかを後部座席に乗せて滑るように走っていた車が、不自然なほど唐突に止まった。
助手席の側近が降りて少し時間があった。まもなく側近は戻って来て義兄に告げる。
「末松組の元若頭が、話だけでも聞いてほしいと言っていますが」
義兄は側近の言葉に面倒そうにまばたきをして、さやかに振り向いた。
「さっちゃん、少し待っててね」
義兄がさやかに告げた声はいつも通り優しかった。
義兄は車の外に出て、仕事の話をしていたようだった。
スモークのかかった窓ごしに見えたのは、すがるように義兄に何かを訴える壮年の男の姿だった。街灯の光もほとんど無い道路の際で、エンジンの吐き出す煙だけが冬の空に広がっていた。
義兄は始終氷のようなまなざしで男を見下ろしていて、まもなく話を打ち切って戻ってきた。
話の結果は、側近が義兄に確かめるまでもないことのようだった。走り出した車の中で、義兄は凍てついた声で側近に命じた。
「奴は車に触ったな。請求しとけ。まだ言葉を話せるんだから、どこを売ればいいかはわかるだろ」
さやかは義兄に気づかれないようにこくんと息を呑んだつもりだったけど、義兄はあやすようにさやかの頭を撫でて言った。
「さっちゃん、今日はお肉も食べてえらかったね。また行こう?」
義兄がさやかに話す声に先ほどまでの冷たさはどこにもなくて、さやかは戸惑いながら黙ってしまう。
車が走る間、義兄は毛づくろいをするようにさやかの髪を梳いていた。
「大丈夫だよ。また貸し切りにするし、調子が悪くてもお義兄ちゃんは医師免許を持ってるんだから」
小さい頃、母と一緒に義兄と義父の家に初めて入ったさやかは、吸入器が手放せないくらいに喘息がひどかった。学校に上がってからも、調子が悪いとすぐ失禁する癖があって、長いこと学校にも通えなかった。
何かの役に立つわけではなく、足を引っ張るばかりだったさやかと、早くから裏社会で生きるべく育てられた義兄は、全然違う生き物に見えた。
「帰ったら一緒にお風呂、入ろ。洗ってあげる」
でも昔は気が弱かった義兄はさやかをとても可愛がって、さやかの世話を焼くうちに若頭にふさわしい力を身に着けていった。
義兄はふいに仕事で見せるような艶やかな力強さをまとって、さやかに笑う。
「……俺、甘々なお義兄ちゃんになってから、極悪人の若頭が楽しくて仕方ないんだ」
さやかはそんな義兄が今も怖くて、その何倍かのあこがれを感じている。
さやかは義兄の肩に頭を寄せて目を閉じる。
わたしも小鳥になってから、お義兄ちゃんがもっと好きになった。
「一緒に寝よ」
今日も若頭と小鳥は夜の街を滑るように走って、二人の寝床に帰って行く。