最後に夫のルークと手を繋いだのはいつだろう──

 
 今から半年前。
 騎士団長をつとめる背の高い夫と並んで歩きながら、ふと思った。夜会でのエスコートは完璧、ドレス選びも一緒に考えてくれて、夜の営みもちゃんとある。私たちは不仲ではないと思う。
 
 貴族学園を卒業して五歳離れた夫と結婚、すぐに子宝に恵まれて三人の子どもを授かった。
 子どもが小さかった頃、私の両手は子ども達のものだったし、鍛えている夫は三人同時に抱っこをする子煩悩っぷり。私たちの間にはいつも子ども達がいて、それは幸せな時間で不満はなかったのだけど──長男、次男、最後に末っ子が学園寮に入り、もう何年も夫と手を繋いでいないことに気づいてしまった。

 

 気づいてしまえば気になるもので──。

 夫から郊外にある有名な紅葉庭園が見頃だから行こうと誘われた。コーキアという丸々した可愛らしい形の草が丘いっぱいに植えてあり、丘を真っ赤に染め上げる様は絶景らしい。
 広い庭園、知り合いのいない郊外、もしかしたら今日は手を繋げるかもしれないと期待を胸に出掛けた。
 

「長男のアースは、剣術大会で優秀な成績をおさめましたね。あなたに似たのかしら?」
「そうだな、アースは幼い頃から剣が好きだったからこのまま鍛錬すれば騎士団に入れるかもしれないな」
「次男のイースは、魔術に興味があるみたいね」
「そうか、魔術はこれからもっと生活に寄り添って必要になる。イースの好きなことを伸ばせばいい」
「末っ子のキースは、ちゃんとやってますかね? 一番甘えん坊だったので心配ですけど……」
「大丈夫だ。キースは一番まわりが見えているし、きちんと努力できる子だよ」

 向かいあった馬車の中。口をひらけば学園寮にいる子ども達のことばかり。昔は馬車も横に並んでいたけれど、子ども達が生まれてから向かいあうようになった。ここに子ども達はいないのに習慣とは恐ろしい。
 
 子どもが生まれてから変化した習慣。
 今まで子育てに必死で考えることもなかったけれど、それだけ子どもが成長し、私たちの手を離れているということだろう。嬉しくもあり、寂しくもある。

 そんなことを考えていたら、馬車は目的地の庭園に到着した。
 少し歩くと、コーキアの丘が見えてくる。

「まあ、すごく綺麗ですね……っ!」

 コーキアの赤い草は丸くて、ふわふわと柔らかそうな見た目をしている。風が吹き、丸っこい草が一斉に揺れるのは愛らしい。日当たりによって赤みが少しずつ違うのも楽しくて、コーキアの丘を半分まで夢中で登ってから、夫を見上げた。

「アン、もう少しで丘の上だよ」
「っ、……はい」

 ゆっくり伸びてきた夫の腕に胸が高鳴る。



 こ、これは、もしかして手を繋がれる……?

 昔のように手を繋いでもらえるかもしれないとドキドキしていたら、夫の腕は更に伸びて私の腰に手を置いた。

「ここから少し傾斜があるかな。押してあげれば、あっという間に着くかな」
「……あ、ありがとう」

 逞しい腕に支えられるように押されれば、自分で歩くよりも遥かに楽に登れる。密着するような体勢は夫のコロンがふわりと漂い、男らしい仕草に胸がキュンとしてしまう。いつまで経っても夫は格好いい。夫との距離と自分の勘違いに頬が熱くなった。

「上から眺める景色は絶景ですね! ほら、下のコーキアはあんなにも小さく見えます……っ」

 丘の頂上から眺めるコーキアは感動するくらい綺麗で子どものようにはしゃいでしまう。

「アンが喜んでくれてよかった」

 目を細めて笑う夫の大きな手のひらが伸びてきて、頭をポンポンと撫でられた。子どもみたいな扱いだと思うけど、子どものようなふるまいをしたことを思い出して、また顔が熱を帯びていく。
 のんびり散策していると日が西へ傾いて、あたりが暗くなりはじめる。夕暮れからライトアップの始まったコーキアを少し見て、夫の予約してくれたレストランで舌鼓を打った。


 
「アン、気をつけて」

 食事を終え、帰りの馬車へのエスコートを受けながら、今日も手を繋ぎ損ねてしまったなと思う。
 でも、子どもが生まれて習慣が変わるのは仕方ないのかもしれない。ほんの少し残念に思いながら、夫といつも通り馬車で向かいあう。


 ゆっくり走りはじめた馬車に身を委ねた。
 個室だったとはいえ、公爵家の人間である以上恥ずかしくない振る舞いを心がけている。二人きりになり、馬車の揺れでアルコールがまわっていく。
 
 目の前にいるのは、若い頃と変わらず眉目秀麗な夫。いや、むしろ年齢を重ね、騎士団長としての貫禄や大人の余裕と色気が増している。
 改めて見ても私の夫はとても格好いいと思う。隣に座らなくても、美丈夫な(かんばせ)を見放題な正面も悪くない。そう思うと、うふふ、と頬が緩んでしまう。

「……アン、酔ってる? そんなに飲んでなかったよね」
「甘いワインを一杯、かな? んっ、とね、酔ってません……よ」
「うん、酔ってるね──公爵邸に着くまで少しかかるから寝るといいよ」
「ふふ、ありがと……」

 お酒を飲んでふわふわした頭に、夫の低音な声が心地いい。笑顔で素直に頷いた。
 
「アン、肩を貸すね」
「ん〜?」

 肩を貸すの意味を理解するより先に、夫が隣に移動してきて腰掛ける。
 
「もたれていいよ」
「んふふ〜ルークだあ、あったかい〜」

 夫が隣にいることが嬉しくて太い腕に「ありがとう」と言いながら頭を預ける。鍛えている夫は私の体重を易々と受け止めてくれるから、やっぱりときめいてしまう。本当に夫は出会ってから今日までずっと格好いい。

「ねーえ、ふわふわで可愛かった、ね?」
「コーキアのこと? うん、そうだね。アンが気に入ったなら、また来年も一緒に行こうか」
「うん。レストランのディナーも美味しかったし、ふふっ、いつもありがとう」

 少し肌寒くなってきた秋の夜は、体温の高い夫で暖をとるのが好き。頭はこてりと乗せたまま、筋肉質な夫の腕に自分の腕を絡ませる。もちろん隙間がないくらいぴったり張りついた。

「甘えん坊だねアンは」

 返事もしないで腕に頭をこすりつければ、やわらかな手つきで頭を撫ではじめてくれる。宝物みたいな扱いに頬がふにゃふにゃと緩み、一定のリズムで撫でられると眠気に誘われていく。でも、もう少し夫に甘えたくて閉じそうになるまぶたを薄くひらけば、目の前には夫の手。
 吸い寄せられるように指を伸ばし、夫の手の甲にそっと触れる。前みたいに手を繋げるだろうか……?
 

「可愛いね、俺のアンは──」
「っ、ん、んぅ……っ」

 手を繋ぐ前に、甘やかな感触に身体が震えた。
 頭を撫でていた夫の手に顎をとらえられ、唇を奪われる。ふわふわとした頭は突然の甘い嵐に成す術もなくあっという間に蕩けていく。
 



「本当にアンは可愛いね」

 私の弱いところを知り過ぎている夫に敵うはずもない。
 馬車から寝室に運ばれて、手を繋ぐことは叶わないまま、いつもより仲良しな甘い夜を過ごした──。


 ◇

 
 手を繋げないまま紅葉は終わり、冬の足音が聞こえてきた。

 朝の支度を終えた夫の騎士服にいつものように見惚れる。結婚して何年経っても騎士服を着る夫の姿は格好いいから、毎日夫に恋をしてしまう。
 
「アンはお昼からお友達に会うんだよね。ゆっくり楽しんでおいで」
「ええ、ありがとう。いつものお店でランチの予約をしてあるから、お土産にルークの好きなレモンケーキを買ってくるわね」
「それは楽しみだな」

 嬉しそうに目を細めた夫の手が伸びてきて、頭を優しく撫でられる。夫は季節限定のレモンケーキに目がない。

「アン、行ってくるね」

 夫の手が下りてきて頬に添えられる。上を向かされれば、何度か甘い音を鳴らして唇を啄み、それから角度も甘さも深いものに変わっていく。
 私の口からこぼれるのは甘い吐息だけ。優しいけどやきもち焼きの夫は、私が外出する日は口づけが長くて甘い。安心してほしくて、首に腕をまわして夫に応えた。
 


「……アン、ごめん」

 くたりと腰の力が抜けた私を支えながら、耳たぶに唇を当てて囁くから身体が震える。とても仕事前とは思えないキスをしてきた夫を涙目でにらんだのに、夫は上機嫌で仕事に出掛けて行った──。
 

 
 なんとかお昼に間に合うように支度を終えて、約束のレストランにたどり着く。学園時代の気の置けない友人三人と会うのを楽しみにしていた。
 友人達も子どもがいるから、夫と手を繋いでいるか聞いてみてもいいかもしれないと思っていたけれど──驚きの発言が落とされた。

 
「聞いて……! 旦那が浮気してるの……っ」
「「えっ? ハロルド伯爵が!?」」

 幼馴染で相思相愛を絵に描いたような二人を見てきた私たちは驚いて顔を見合わす。若い女性と会員制倶楽部へ入るところを見かけたという友人を必死で慰めた。
 とても夫と手を繋いでいるかなんて聞ける雰囲気ではなくて、どんよりした気分のまま帰宅。レモンケーキを買うのを忘れてしまった。



 

「アン、今日は楽しくなかったの?」

 湯浴みを終えてうっすら髪の濡れた夫に尋ねられ、返事をする前にため息がこぼれる。
 
「……それが、ハロルド夫人から旦那様が浮気してるかもしれないと相談されてしまったの……」
「それは心配だね。詳しく教えてくれる?」

 少し迷ったけれど、夫は仕事柄とても口が固い。友人の旦那様が若い女性と会っていることを話した。話していると涙を浮かべた友人の顔を思い出して胸が痛む。

「なるほど、それでアンが元気なかったんだね」
「なにか力になれたらいいんだけど……」
「アンは優しいね」
「そんなことない……なにもできないもの」

 私にできることなんて話を聞くくらいしか思いつかなくて項垂れてしまう。ふわりと宙に浮く感覚がして、いつものように膝の上に乗せられた私と夫の顔が近くなった。
 
「ハロルド伯爵が浮気するのは想像できないね──調べてあげるよ」
「えっ?」
「情報は力だよ、アン。最近は投資も詐欺も巧妙になっていて、伯爵が事件に巻き込まれている可能性もあるからね」
「そ、そんな……っ!」
「あくまで可能性の話だよ。ハロルド夫人の誤解だといいけどね──俺に任せてくれないかな?」

 こつん、と額が合わさり、私の瞳を心配そうにのぞかれる。いつも困っていると手を差し伸べてくれる優しい夫に「お願いします」と頼んだ。

「アンの頼みならなんでもするからね。他に心配なことはない?」

 夫の大きな身体に包まれていると、知らずに気を張っていた身体の力が抜けていく。ゆっくり首を横に振れば、「よかった」と優しい声音が静かな寝室に響いた。

「俺はアン一筋だからね」
「ふふ、それは知ってます」
「ねえアン──不安や不満なことがあったら必ず言うんだよ」
「あっ、わかりました」

 あまりにまっすぐに見つめられていたから、手を繋ぎたいは不満に含まれるかどうかが頭をよぎり、返事が遅れたのかもしれない。
 夫の柔らかな空気が一変した。腰にゆったり回されていた腕がしっかり巻かれ、夫の瞳に射抜かれる。

 



「──アン、夫婦で隠しごとはよくないよね?」
「っ、……!」

 騎士団長の夫に嘘は通じなくて、すぐに見破られてしまう。些細な悩みだけど、つまびらかにするには私が話す必要がある。それは想像するだけで恥ずかしくて目に涙が浮かぶ。

「アン、俺に教えてくれるよね」

 痛いくらい熱をもった顔を勢いよく横に振る。

「それなら、お仕置きかな」
「っ、ち、違うの、大したことじゃないの。あ、あの、恥ずかしいから……恥ずかしいから言いたくないの……っ!」
「でも、夫婦で隠しごとはだめだよね? 隠されたら寂しいよ」
「そ、そうなんだけど……恥ずかしいから…………」

 ぶわりと身体中に熱が駆け回り、オウムのように同じ言葉を繰り返す。夫と手を繋ぎたい、デートで手を繋ぎたいけど半年間言い出せなかったことを告げるなんて、羞恥でおかしくなりそう。
 諦めてくれないだろうかと夫を窺えば、絶対聞くまで引かないという顔をしている。長い結婚生活の経験から私の考えていたことを告げるのは確定したことを悟った。せめて顔を見られないように話すしかないと決めて、胸元に抱きついて顔を伏せる。
 
 


 
「────、手、をね」
「うん?」
「子供が生まれてからね、二人で手を繋がなくなったでしょう……?」
「? ああ、うん。そうだね」
「だけどね、末っ子のキースも入寮して、あなたも私もね、手が空いてるけど繋がなくなったなって気づいて……」
「確かに」
「それが半年前なんだけど……寂しいなって。でも、ずっと繋いでなかったのに、手を繋ぎたいってずっと言い出せなくて──」
「アンの気持ちに気づかなくてごめんね」
「ううん、いいの──あのね、エスコートじゃなくて、その夜の、あの、ほら、仲良くしてる時でもなくてね、二人でデートしてる時に繋ぎたいなって…………思って、ます」

 話しながらどんどん恥ずかしくなっていって声が小さくなる。全部ようやく言い終わり、夫にぎゅうと抱きついて顔を埋め込む。

「アン、話してくれてありがとう。今ので全部?」


「…………ん。ぜんぶ」

 顔が尋常ではないくらい熱くて、消えちゃいたいくらいに恥ずかしい。羞恥で頭が沸騰しそうなので今日は別々に寝たい。今、顔を見られたら恥ずかしくて爆発する。見られなくても爆発すると思う。
 とにかく今すぐ夫から離れて一人になりたい──。
 
 

「アン、なにしてるの?」
「恥ずかしいから今日は自分の部屋で寝ます……っ」
「それは駄目だよ」
「や、やだ……っ! 恥ずかしいから!」
「恥ずかしくないよ、可愛いだけ──ほら」

 じたばた夫の膝の上で暴れるのに、ちっとも抜けれそうにない。顔を見られないように背けていたら、手を差し出された。大きくて、ずっと繋ぎたかった手だけど。

「っ、そ、外でデートして繋ぎたいんです……っ!!」
「ああ、もう! 本当にアンは可愛いね。こんな可愛いこと言われたら、俺は今すぐに繋ぎたいんだけど──駄目?」

 顔を背けていたのに逆側から覗き込まれたと思ったら、あっという間に私の手は捕えられて恋人繋ぎにされてしまう。

「っ、ルーク、答える前に繋いでる〜〜〜っ!」
「ごめん、我慢できなかった。離したほうがいい?」
「〜〜〜だめっ!」

 見せつけるように繋いだ手にキスを落としてから、私の目を見つめる。ゆっくり離そうとする手を慌ててギュッと握りこむ。
 にこにこ笑う夫は絶対この状況を楽しんでいる。なんだか腹立たしくて、子どもが生まれてから太ってしまった全体重で夫に勢いよくもたれた。夫は嬉しそうに目を細めるだけで、ちっともダメージを与えていないのが悔しい。
 


「アン、今度の休みは二人で手繋ぎデートしようね」

 もうどうにでもなれと思って大きく頷いてから顔を上げると、青い瞳がとろりと甘い。ああ、もう。夫はいつもこうやって受け止めてくれるからずるい。また好きになってしまう。
 甘やかな予感にまぶたを閉じれば、いつもより仲良しな長い夜がはじまった──。








 
 あれから夫はいつでも手を繋ごうとして、学園寮から帰省した子どもたちに生温い目を向けられてしまった。
 ハロルド伯爵は浮気ではなく新興詐欺に引っかかるところだったと発覚。ハロルド伯爵を騙そうとしていた詐欺グループを一網打尽にできたと騎士団長の夫は喜んでいた。友人夫妻にも笑顔が戻って本当に良かったと思っている。

 あの日、食べれなかった季節限定のレモンケーキも夫から顛末を聞いてから、笑顔で一緒に食べることができた。その夜にしたキスは、初恋みたいなレモン味だったのは二人だけの秘密。
 


 

「アン、サークラを見に行こう」

 差し出された大きな手に私の手を重ねれば、いつものように恋人繋ぎになった。ピンク色に染まる満開のサークラを見上げながら、私はしあわせのため息をこぼした──。






 おしまい