「お嬢様、遠くに離れすぎでございます」
「あ!」

 家令のメイソンに抱き上げられると手の中にあったぺんぺん草が地面に落ちる。
 メイソンが辺りを見渡し、声を少し上げる。

「バネッサ! どこですか!」
「申し訳ございません!」

 木陰から急いでこちらに走ってきた顔色の悪いバネッサをメイソンが叱る。

「バネッサも気分が悪いならきちんとそう伝えなさい」
「申し訳ございません」

 メイソンはバネッサ同様、辺境へとついてきてくれた家令だ。
 メイソンは三十代半ば、金色交じりの黄褐色の髪に深緑の瞳で普段は物腰が柔らかいけれど、怒るととても怖い家令だ。以前雇っていたメイドがサボっているのを叱っている場面にたまたま出くわしたことがあったけれど……本当に怖かった。メイソンは怒らせないのが一番だ。
 メイソンはどこかの貴族の三男坊で、継げる爵位がなかったため平民になったところを父に雇われたと聞いた。

「お嬢様も勝手に遠くに行ってはなりません。旦那様に心配を掛けたくないでしょう?」
「はい」

 メイソンにこれ以上怒られたくないので素直に返事をする。
 それから馬車に乗り再び出発、草が生い茂る道はやがて山道へと変わった。
 山道が悪く、大きな岩や倒木の障害物のせいでゆっくり進んでいると、急にジェイクが馬の前で止まった。

「急にどうしたのだ?」

 御者席にいたメイソンが尋ねると、ジェイクが唇に指を当て小声で尋ねる。

「聞こえないか?」

 その言葉に私も耳を澄ましてみたが、馬車の外からは何も聞こえない――あ、何かが走る振動がする。
 振動の感覚が徐々に狭くなると、突如雄叫(おたけ)びが聞こえた。

(いのしし)の魔物だ。こっちへ向かっています! ロン、馬を守りなさい」

 ジェイクの号令でロンが剣を構えると、父も馬車を降りる準備をした。
 ま、魔物! 魔物の存在は知っていたけれど、実際に見たことはなかった。急に怖くなり馬車を降りる父を追いかける。

「お父さ――」
「ルシア、大丈夫だから。バネッサ、ルシアを頼む」
「はい、旦那様」

 父にしがみ付く私をバネッサが引き離すと、父は馬車の扉を閉めた。
 ジェイクとロンの怒鳴り声と父の魔法の詠唱が響き渡る中、何もできず馬車の中でバネッサにしがみ付いた。
 父、無事でいて!
 辺りが静かになると馬車のドアが開き、笑顔の父が立っていた。
 父に飛びつく。

「お父しゃま!」
「おお、ルシア。私は大丈夫だよ」

 馬車の外には大きな猪の魔物が数匹横たわっていた。魔物と言っても頭に黒い角が生えている以外は普通の猪にしか見えなかった。
 父の風魔法の威力で猪の周りの木々も突風に()ぎ倒されるように倒れていた。父、凄い。
 ジェイクが猪を確認しながら言う。

「子爵、この魔物ども何かおかしいです」

 ジェイクが指摘した猪の背中を見れば、不自然な矢が刺さっていた。私たちの中で矢を使う者はいない。
 父が矢を抜き確認する。

「狩人に傷付けられて興奮していたのかな」
「いや、この矢……。興奮剤が塗られています」

 ジェイクが矢の匂いを嗅ぎながら言う。
 興奮剤? そんな矢がなんでこの山の中にいる猪に刺さっていたのだろうか?

「どの猪の魔物もずいぶん痩せているな。何日も飲まず食わずで走っていたのか?」

 ロンが猪の魔物の足を持ち上げ確認しながら言う。
 父が猪に刺さっていた矢を回収する。魔物は動物と同じで食料になるというが重量があるし、興奮剤以外の毒を含んでいるかもしれないので肉はそのまま置いていく他なかった。

「猪肉……もったいないなぁ」

 ここ数日まともなお肉を口にしていなかったので、猪が魔物であろうとご馳走(ちそう)にしか見えない。でも、食用不可なら仕方がない。お腹がキュルッと鳴るのを我慢して地面を見ていると、何か馬車の下から違和感がした。
 うまく説明できないけれど、全身の毛が馬車の下の何かに引っ張られるような感覚に陥った。
 (かが)みながら馬車の下を覗くと、底の部分に何かキラリと光る。

「あ、何かある」

 忙しい父たちを横目に馬車の下へ潜り、光っていたものを確認する。魔石だ。
 魔石が埋め込まれた木造の円盤、こんなのは知らない。円盤は無理やり馬車のくぼみに押し込まれていて、なんだか嫌な感じがする。これって、魔道具だよね? 馬車に魔道具など付いていないはずだ。怪しい……。
 こっそりと調べるために円盤を力を込めて引っ張ると、抜けたとたん勢い余って地面を転がってしまう。
 コロコロと回転しながら馬車の下から出ると、父たちに見つかってしまう。

「ルシア、こんなところで遊ぶと危ないよ」
「お父しゃま、馬車の下のこれを抜いていました!」

 泥だらけになりながらも高々と手を上げ、父に見つけた円盤の魔道具を見せる。

「子爵、これは……」

 ジェイクが神妙な顔で父に耳打ちをする。やはり、どうやらこれは怪しい魔道具のようだ。魔道具をジェイクに渡すと、機能を停止させるためにすぐに魔石を取り外した。
 馬車に乗るとバネッサに鬼の形相で全身をフキフキされた。

 その後、行程は進んだが日が落ち始めたので山の中で一泊をした。
 夜中、何か話し声が聞こえ目覚める。父、ジェイク、それからロンが外で話をしていたのでそっと窓に耳を当てる。
 なんの話をしているんだろう?
 ジェイクが声を抑えながら、私が見つけた円盤を父に見せる。

「子爵、間違いありません。ルシア嬢が見つけたこれは、魔物を引き寄せる魔道具のようです」
「いつの間にそのようなものが……」
「出発時に確認しましたが、このようなものは馬車には付いておりませんでしたので、道中で仕込まれたのでしょう。倒木や岩も何か人為的なものを感じました。これは殿下に報告するべきかと」
「うーん。そうだね。領地に着いたら、殿下に一報を入れるとしよう。君たちを付けてくれた殿下に感謝しなければ。本当にありがとう」
「私どもは殿下の御心のままに動いているだけです」
「それでも感謝するよ」

 え? これは……。
 ジェイクとロンは第一王子の送り込んだ護衛だったということなのかな? でも、それより気になるのは……岩や倒木も誰かの仕業のようで猪に至っては、あの円盤の魔道具のせいで襲ってきたってことだ。何、その物騒な話は。
 それから寝付けず、悶々(もんもん)としながら馬車の天井を見つめていたらいつの間にか眠っていた。
 次の日、昨夜の話でまだモヤモヤする中、馬車に揺られること数時間、ようやく昼前に領の中心部の町が見える崖に到着した。

「ルシア、おいで。あれが私たちが今日から住むサンゲル領パスコの町だよ」

 父に抱っこされながらパスコの街を見下ろす。
 パスコの町は山に囲まれた平原に位置しており、ポツポツと大小の家が見える奥には壁で囲まれた集落があった。
 うーん。街というかあれは規模的には町……か村のような気がする……。
 資料には領民は五十人程度と記されていた。他の領の規模を知らないけれど、小規模な領地なのだと思う。
 遠目には、町は長閑(のどか)な感じがする。前世の田舎より大自然に囲まれた場所にあるけれど、こんな雰囲気ならやっていけると思う。

「早く町に向かいたいです!」

 馬車の旅もこれで終わりだ! 今はもう馬小屋でもなんでもいいので横になりたい気分だ。
 小さなため息を吐いた私に父が尋ねる。

「ルシア、まだ気分が悪いのか?」

 昨日、三人の物騒な話を聞いた後だったから私は朝から口数が少なかった。父は馬車の移動でまた体調を崩しているのだと心配しているけれど。
 そんな父に笑顔で言う。

「ううん。でも、ちょっと眠たくて……それから、お腹が空いたの」
「じゃあ、町に着いたら今日は温かいものを食べてぐっすりと寝よう」
「うん!」