この短い時間で彼に笑われてばかりの彼女は少しだけ口を尖らせる。

「そんなに笑わなくても……」
『ごめんごめん。面白い新入生が入ってきたなぁと思って。君がテレビで観た絵はゴッホの星月夜?』
「題名までは覚えていません。青色の夜空に黄色い星がキラキラしていて、川も描かれていました」
『ああ、じゃあローヌ川の星月夜かな。テレビでそっちを取り上げるのは珍しい』

 ローヌ川や星月夜とか、ゴッホの絵の種類については彼女はまるで無知だった。しかし話が通じたようで安堵する。

「先生……ですよね?」
『生徒には見えないだろう? 君もどう見たってピカピカの一年生だ』

 真新しい制服に身を包む彼女の上履きの色も今年度の一年生の学年色。姿を見れば新入生だと一目瞭然だ。

『名前は?』
「一年三組の石川比奈《ひな》です」
『三組の石川さんね。そのうち授業で会うと思うから、最初に顔と名前が一致した新入生ってことで記念に覚えておくよ』
「先生の担当教科は……」
『バッハかゴッホならゴッホの方。偉人の名前は間違えるなよ』

 ふわりと笑ったボサボサ頭の男は、去り際も自分の名を名乗らなかった。
 遠ざかる猫背の背中に向けて「もう少し話をしてみたかった」と呟いた心の声が、この甘酸っぱい感情のはじまりだった。