耳に届く音は絵筆とキャンバスが触れ合う音と彼と彼女の息遣い。漏れ聴こえるブラスバンド部の演奏にはグラウンドにいる運動部の掛け声が重なって、まるで甲子園みたいだ。

 美術準備室で飲むミルクティーはどこまでも甘い。ゆっくり、ゆったり、穏やかに刻まれる時間の流れ。
 甘いミルクティーの湯気越しに、一心不乱に絵筆を動かす彼の猫背が左右に揺れる。

 窓から眺めた数分前の夕焼けはもういない。彼が絵筆を動かすたびにキャンバスの夜空には青が増え、同時に外の世界もまた一歩、夜に近づいていた。

「来月は文化祭かぁ。私が当たり前にここに居られるのもあと一年なんだね。美術部を引退した後は地獄の受験があって、そうしてるとあっと言う間に卒業になっちゃう」

 ニ年生の比奈が当然のように美術準備室に出入りできるのも次の文化祭まで。
 美術部の見せ場は十一月にある文化祭の展覧会だ。展覧会に出展する作品を最後に三年生は部活を引退する。

 美術大学やデザイン学校への進学を選ぶ先輩もいれば、美術部の引退後は芸術と無縁の生活を送りそうな先輩もいた。

 キャビンアテンダントを目指す比奈も高校卒業後は絵の具と触れ合う機会は減るだろう。しかし、晴れてキャビンアテンダントとなった暁には世界中を飛び回って、海外の美術館で古今東西の様々な芸術品を鑑賞したいと思っている。

 ゴッホのローヌ川の星月夜の所蔵はパリのオルセー美術館、星月夜はニューヨーク近代美術館が所蔵する。パリとニューヨークは比奈が死ぬまでに行きたい場所リストの常連である。

『卒業すれば俺のことは忘れるよ』
「忘れないよ。私、先生のことずっと好きでいられる自信あるもん」
『はぁ……。その自信はどこから来るんだ。俺のどこがそんなにいいの?』
「わかんない。忘れちゃった」

 これは大嘘だ。本当は好きなところがあり過ぎて上手く答えられないだけ。

(力強く筆を走らせる時の筋肉質な腕も素敵だし、いつの間にか絵の具だらけになる指は細くて長くて、でも男らしくて。先生のかっこいいところは私だけが知っていればいい)