比奈は紅茶にミルクとシュガーをたっぷり入れて、夜空のキャンバスの前に腰掛けた鈴木の猫背に話しかける。

「私が美術部入るって言った時、美月にめちゃくちゃ止められたんだよね。あの子、私の絵が下手くそなこと知ってるから美術部は絶対に止めた方がいいって心配してたの」
『遠近法は使えない、グレースケールは全部同じ濃さになる、人物のデッサンは得体の知れない生物に仕上がる、俺も最初はとんでもない奴が入部してきたなと思ったよ』
「何度も言ってるけど先生に会いたくて美術部に入ったんだ。動機が不純だよねぇ」

 パレットと絵筆を手にした鈴木が一瞬こちらに視線を向けた。瞳の奥に宿る熱情が比奈の熱情と絡み合う。

『……入部の動機は不純でも比奈の絵には不純物がない。作品に対して純粋に向き合っている。最初に比べたら今日のデッサンも一応はアポロンに見えてるし、文化祭に出す絵もいい出来だ。一年でかなり上手くなったな』
「へへっ。先生の指導のおかげかな」

 こうして二人で過ごす時、彼は比奈を苗字では呼ばない。ふたりきりの空間でのみ、比奈を名前で呼んでくれる。

 ここのところ文化祭の準備で美術部員は部活がない曜日も放課後の美術室に入り浸りだった。美術部員の比奈も顧問の鈴木とは作品制作の時間に会えてはいたが、それは美術部顧問と生徒としての対面だ。

 部員達の作品制作も一段落がついた今日の美術準備室には比奈と鈴木しかいない。放課後を二人で過ごす久々の逢瀬の日だった。

 比奈と鈴木が会える場所は放課後の美術準備室に限られる。普通の高校生カップルのように手を繋いで街でデートをしたり、二人でテーマパークに行って遊ぶこともできない。

 周囲に隠し通さなければいけない秘密の恋でも比奈にとっては心の煌《きら》めきのすべてだった。