期末テストの結果に一喜一憂するクラスメイトたち。
私は一番後ろの席からその様子を眺めていた。コツコツと頑張ってきた生徒も一夜漬けで挑んだ生徒も、それぞれいるだろう。お腹をくくってチャレンジした成果が出せただろうか。
全員に答案用紙が返却されたけれど、賑わいを見せる生徒たちはお互いに見せ合っていてなかなか着席しない。そんな中、"なんで勉強するんだろう"という声が聞こえた。
なんで、かあ。実のところ私も見つけられていない。でも、みんなはいつか見つけてほしいと思っている。仲の良いクラスメイトたちと一緒に。
もう教室中の空気は目前に迫った楽しいイベントのことで頭がいっぱい。もう明日には終業式で、あとひとつ寝れば夏休みだ。
「じゃあ宿題を配るわね」
あらかた席に着いたタイミングで先生がプリントを配りだす。すると、今までの空気が一変して静かになった。
その空気の変わりようは、まるで先生の言葉が水を差したみたいだなって思うとなんだかおもしろい。
私を現実に戻したのは、目の前に映る光景だった。
前の席に座っていた女子生徒が、こちらに向けてプリントを手渡している。
なんで受け取らないの? まじまじと自分に向いている瞳は、まるで訴えているみたい。
え、私にも? 意味が分からないまま彼女の瞳を見つめてしまった。
仕方なく受け取る。
瞳を先生の方に泳がすと、こちらに気づいてウインクを返された。
"あなたもこの学校の生徒なんだから当然よ"という意思がテレパシーで伝わった。仕方ない、二学期になる前に提出すればいいのね。心の中でため息をついた。
続けて行われたホームルームはなかなか終わらなかった。
文化祭の出し物を決めるのだ。実際に準備するのは二学期になってからだけど、みんな大好きな話題に生徒たちは皆積極的に意見を出し合っている。
スイーツに、縁日に。どれも楽しそうだなというのが第一印象ではあるけれど、それでも自分には関係ない。
私は机の上で頬をついた。ぼんやりとした視線のまま黒板を見つめる。すると、黒板に文字を書く明日香の姿にフォーカスが合った。
なんだか、彼女が輝いて見えるのは気のせいだろうか。いつもクラスのマスコットで、いつも誰にでも優しく接している。おとなしいという印象なのに悪い雰囲気を与えない。
それが、告白したという日からまるで別人のよう。
恋は心を輝かせるんだなあ。
ここで、一部の生徒が劇をやりたいと言い出した。その意見はなぜか私の耳に残った。
ひとりでキャストを想像してみる。物語のヒロインはやっぱり明日香だろう。どんな役がいいかな、お姫様みたいに可憐なドレスを着たら似合いそうだ。
次はお相手を決めないと。教室の中を眺めていると、ある一点で止まった。
佐伯くんだ。
身長差があるから舞台の上では映えるだろう。それに、あの爽やかな雰囲気はいかにも主人公的なルックスだ。
明日香が左手を胸の前に置いて、右の指先をそろえて差し出す。すると王子様を演じる佐伯くんは彼女の手を取って指輪をはめるんだ。そして誓いの口づけを......。
ああ、まさしくお似合いのカップル。知らない間に、私はよだれを垂らしてしまったのかもしれない。私の想像は止まるところを知らなかった。
そしたら自分は友情出演でもしてメイドのひとりでも演じていればいい。明日香のお手伝いをするなんて今の自分にはぴったりの役どころだし、離れたところから佐伯くんを見ているだけで私は幸せだ。
まあ、私には劇には出られない。そうだとしても、ちょっとはきみと一緒に夢を見てみたい。
・・・
佐伯くんは、私を救ってくれた人。
あの日、ちょっと会話をしただけだった。それだけだったのに高校で再会するなんて。
廊下ですれ違った時のことは、今も昨日のことのように覚えている。私がきみの後ろ姿をしっかりと瞳に焼き付けたから。
それからずっと願っていたんだよ、来年は同じクラスになれますようにって。
きみは私のことなんて覚えていないかもしれない。それでも私は嬉しかった。
――だって、これが私たちのストーリー。
同じクラスになって、いつでもきみのことを見ていられる。あの日の感謝を告げるには緊張するけれど、いつか心の底から言葉を告げられたらいいなと思っていた。
その安堵は、たった一日で崩れ去ってしまう。叔母さんがすべてを決めてしまうから。彼女を責めるのは筋違いだってわかってる。でもいまだに腑に落ちなくて仕方がなかった。
まるで、別れるために出逢うなんて思ってしまうのも無理はない。
せめて、何かひとことでも告げたい。その猶予はもう無いに等しかった。
もうどうすればいいんだろう。
チャットアプリを開いて、"伝えたいことがあります、明日お時間をください"みたいなことを言えればどんなにかっこいいか。
家に帰った私は、スマートフォンとにらめっこを続けていた。
勇気と恥ずかしさがせめぎ合って、送りたいメッセージを考えるたびに打ち込んでは消していく。ああ、こんなに緊張しちゃうなんて。私はどうしたんだろう。
少し休憩しようか。そう決めて、アプリを閉じる。そのまま何気に手に持ったまま立ち上がった。すると、急にスマートフォンが震え出した。
慌てて落としそうになった。
私の緊張を打ち破ったのは、あるひとつのメッセージだった。
【明日、最後だからお出かけしよう! 放課後に一緒に行こうよ!!】
まさか、佐伯くんから! と錯覚したけれど、これは明日香が送ってきてくれたものだった。
転校する私を気遣ってのことだろう。彼女はスイーツが好きだから、どんなお店に連れて行ってくれるのだろうか。
てっきりふたりだけで行くものだと思っていた。でも、このお誘いが私の背中を押してくれるとは思いもしなかった。
どこかで幸せの鐘の音が鳴っていた。
・・・
終業式の日になった。
滞りなく式は進み、最後のホームルームがはじまる。もしかしたら先生が私のことを伝えるんじゃないかと思ったけど、実際はそんなことなかった。
先生は通知表を手渡しながら、私にウインクをする。ああ、秘密にしてくれるんだ。そう心で理解した。
先生が生徒たちに向けて語り掛けている。
バイトをしないように。遅くまで出かけないように。
わかりきっている夏休みの生活態度の話題なんて、だれが真剣に耳を傾けるだろうか。そんなことを思っていたら、まさか粋な一言を言うとは思わなかった。
「いいえ、節度を守ってしっかりと遊びなさい。この夏休みは、今回しかないんだから」
歓声とともにみんなの顔に喜びが浮かぶ。
......その時だった。なぜだか心の灯りが沈んだ気がした。ふいに悲しみが押し寄せる。
ああ、涙が出そうだ。しかも理由が分からない。
仕方なく、窓の方に顔を向ける。しばらくそのまま自分だけの世界に入っていく。
それからどれくらい経ったんだろう。やっと気づいたのは、ホームルームが解散して皆が帰りだすところだった。
いざ今日という日を迎えてみるとやはり寂しいんだ。
とびきり可愛い制服も。
みんなにおはようって言っていた朝も。
「......みんなっ!」
私は慌てて立ち上がった。やっぱり言わなきゃ。
でも、もう帰りだしている生徒たちは、私の様子を気にかけることなくまたねと手を振るだけだった。もう遅かったんだ......。
この子たちにはいつも通りの日常が流れていく。
私ひとりを残して。
そこに、職員室から明日香が戻ってきた。
「ほら、リコさん行こうよ」
はやく行かなきゃ混んじゃうよ! 手を掴まれ、慌てて教室を飛び出す。そのまま小走りで廊下を走る。どこに行くんだろう? よく分からないまま彼女についていくしかなかった。
すると、下駄箱で待っていた人物に、私は目を大きく見開いた。
「待たせちゃった! リコさんも一緒だよ」
明日香が声をかけたのは、――佐伯くんだった。
「さ、佐伯くん......なんでここに居るの?」
「深見に誘われたんだよ。もしかして女子同士の方が良かったりする?」
ううん、そんなことはない。慌てて首を横に振った。音を立てそうなほどの勢いで私は少し早口で告げる。
「い、いや......嬉しいよ。せっかくだから一緒に......行きたい!」
どうしてもたどたどしくなってしまう。私は一緒に居て嬉しいけれど、ちゃんと佐伯くんに伝わっただろうか? きみの返答に見向きもせずに、緊張のままひとりで靴に履き替えようとしてしまった。
「あ。リコさん、待って!」
明日香の呼びかけに我に返った。待っている私にふたりも靴を履いてくれた。そうだね、みんなで一緒に歩いていこう。
明日香に案内されたのは、駅前から路地に入ったところにあるパンケーキ屋だった。
しかしながら、裏通りに曲がれ右したところで明日香が声をあげる。
「あ!」
明らかな行列ができていた。列の先頭では、女子高生のグループがメニューを見ながら談笑している。そこに店員が現れて注文を聞いていた。
長蛇の列を作っているのは同年代の女子ばかり。終業式の日だから、みんな考えることは同じなのかもしれない。
仕方なく最後尾に並ぶ。それにしても、動くことのない列はいつ進むのだろうか。
次第に会話がなくなっていく。もう床に落ちてしまいそうな会話の切れ端を受け取ったのは佐伯くんだった。
「このお店ってどういうメニューが有名なの?」
「えっとね、ベリー系のソースがたくさんあって美味しいよ」
気の利いた佐伯くんの問いに、明日香も顔を喜ばせて答える。これからまた会話が広がりつつあった。でも、私は自分のことを、転校することを告げることはできなかった。
私の前に座る明日香と佐伯くんは、なんだか楽しそうに見える。
別にお互いにパンケーキを食べさせあったりしているわけではないけど、まるで教室の中では見られない雰囲気がふたりを包んでいた。
文化祭のキャストを想像したときと同じ、まさしくお似合いの感じさえしていた。
――ふたりの関係はなんだろう?
つい不思議な面持ちで見つめてしまった。
佐伯くんのことを直視できないのはいつものことだけど、なんだか明日香も今までの彼女のようには思えなかった。
店内にはどことなく甘い香りが泳いでいたのに、なぜかそれは微妙な味がした。
・・・
空の色はいつの間にか赤かった。
私たちはどれくらい話していただろう。
話の中心になったのはほとんど明日香のことだった。これから祖母の誕生日を祝うために帰省するという。親戚そろって楽しいひと時を過ごしてほしいと思う。そんな関係が、うらやましかった。
視線を前を歩くふたりから見上げてみる。
赤い空はこれからどんどん変わっていくだろうな。次第に黒くなって夜を迎える。そうしたら私は帰宅するだけなんだ。ただただひとりで、誰にも言うことができなくて。
もう、私の願いはタイムリミット。
これから、心の鐘を鳴らす出来事があるなんて思いもしなかった。
改札を抜けた明日香が、私こっちだからと声をかけてくれた。
あ、そうだ。私と明日香は逆方向から登校しているんだった。自然と別れる明日香に手を振る。
......あれ、何かがおかしい。
私は隣に立つ人物を見た。佐伯くんは帰宅しないのだろうか。
「僕、こっちだから。もしかして高瀬もなの?」
佐伯くんが歩く方向を指さす。明日香とは逆の方角に向かって。
ええっ、私は心の中で悲鳴を上げた。佐伯くんとふたりきりで帰るなんて想像していなかった。これは僥倖だ。しかしながら緊張だ。
ああ、明日香も一緒に帰ってほしい。心の中で勝手にテレパシーを送ってみるけれど、もちろん明日香が受信することなかった。
私たちは仕方なく歩き出した。
電車はすでに行ってしまったので、しばらく並んで待つしかなかった。
お互いに無言なのがつらい。クラスメイトや明日香の前ではあんなに話す佐伯くんも、何も言わなかった。たぶん、話題を探しているのだろう。
彼からしたら、私とは接点がなかったんだから。
わずかな風が私の髪をなでる。
「高瀬って、夏休み何するの?」
いいね、こういう質問。やっぱり学生の話題はこうでないと。でも、私にはどんな回答も持ち合わせていなかった。
「何もしないよ。叔母さんどこにも連れて行ってくれないし。明日香ちゃんみたいに帰省する親戚もいないし」
「そうなんだね」
彼は話を合わせてくれた。否定しないでくれるところはやっぱり好感が持てる。その感情に引っ張られたのかつい本音が漏れてしまった。
「本当は遊びに行きたいけどね。不真面目なことしたいわけじゃないけど、そりゃ少しはね」
彼は微笑んでくれた。
「そういえば、高瀬ってどこまで行くの?」
次は当たり障りのない質問。それでもうれしい。
「中原、だよ」
「けっこう遠いんだね、ほとんど終点じゃん」
「うん。ここの学校は制服がかわいいからね」
嘘だ。嘘を言っちゃった。せっかくきみが会話を広げてくれたのに、私がダメにしてしまいそう。
私はついにこりと笑った。それはどう考えても愛想笑いだけど、もう自分で自分を止められそうになかった。最後の日にきみと話せた、もうそれだけで嬉しいんだから。
すると、佐伯くんが心の鐘を鳴らすとは思っていなかった。
「高瀬が笑うのって、似合ってるね」
......え、今なんて? 似合うってどうこうことだろう。つい彼の顔をまじまじと見つめてしまった。
佐伯くんは慌ててそっぽを向いた。
「ほら、......教室の中で笑ったの見たことないから。素敵だなって思って......」
言っちゃったなどと小言を漏らしている。もう耳まで赤かった。
ここで、電車が来るという放送が聞こえる。シルバーにピンクと紫のラインをした車体がホームに入ってくる。
もう時間がなかった。こんなんじゃだめなんだ、ただの会話なんてしたくない。
明日には明日の風が吹くという。でも、私には今日ですべてが終わってしまうから。
ちゃんと、自分のことを告げよう。
決意は一気にすべりだした。
ドキドキした心は落ち着いてくれない。なんだか構内放送なんかより大きく聞こえてきそう。
私は顔を向けたまま、大きな声で話しかけた。
「......佐伯くん!」
きみがこちらを向く。
私は鞄からヘアゴムを取り出すと、急いでポニーテールをつくる。そして一気に深呼吸をして、きちんとしっかりと口にした。
「ずっと言いたかったことがあるんだけど......」
私たちの姿を電車のヘッドライトが照らした。
私は一番後ろの席からその様子を眺めていた。コツコツと頑張ってきた生徒も一夜漬けで挑んだ生徒も、それぞれいるだろう。お腹をくくってチャレンジした成果が出せただろうか。
全員に答案用紙が返却されたけれど、賑わいを見せる生徒たちはお互いに見せ合っていてなかなか着席しない。そんな中、"なんで勉強するんだろう"という声が聞こえた。
なんで、かあ。実のところ私も見つけられていない。でも、みんなはいつか見つけてほしいと思っている。仲の良いクラスメイトたちと一緒に。
もう教室中の空気は目前に迫った楽しいイベントのことで頭がいっぱい。もう明日には終業式で、あとひとつ寝れば夏休みだ。
「じゃあ宿題を配るわね」
あらかた席に着いたタイミングで先生がプリントを配りだす。すると、今までの空気が一変して静かになった。
その空気の変わりようは、まるで先生の言葉が水を差したみたいだなって思うとなんだかおもしろい。
私を現実に戻したのは、目の前に映る光景だった。
前の席に座っていた女子生徒が、こちらに向けてプリントを手渡している。
なんで受け取らないの? まじまじと自分に向いている瞳は、まるで訴えているみたい。
え、私にも? 意味が分からないまま彼女の瞳を見つめてしまった。
仕方なく受け取る。
瞳を先生の方に泳がすと、こちらに気づいてウインクを返された。
"あなたもこの学校の生徒なんだから当然よ"という意思がテレパシーで伝わった。仕方ない、二学期になる前に提出すればいいのね。心の中でため息をついた。
続けて行われたホームルームはなかなか終わらなかった。
文化祭の出し物を決めるのだ。実際に準備するのは二学期になってからだけど、みんな大好きな話題に生徒たちは皆積極的に意見を出し合っている。
スイーツに、縁日に。どれも楽しそうだなというのが第一印象ではあるけれど、それでも自分には関係ない。
私は机の上で頬をついた。ぼんやりとした視線のまま黒板を見つめる。すると、黒板に文字を書く明日香の姿にフォーカスが合った。
なんだか、彼女が輝いて見えるのは気のせいだろうか。いつもクラスのマスコットで、いつも誰にでも優しく接している。おとなしいという印象なのに悪い雰囲気を与えない。
それが、告白したという日からまるで別人のよう。
恋は心を輝かせるんだなあ。
ここで、一部の生徒が劇をやりたいと言い出した。その意見はなぜか私の耳に残った。
ひとりでキャストを想像してみる。物語のヒロインはやっぱり明日香だろう。どんな役がいいかな、お姫様みたいに可憐なドレスを着たら似合いそうだ。
次はお相手を決めないと。教室の中を眺めていると、ある一点で止まった。
佐伯くんだ。
身長差があるから舞台の上では映えるだろう。それに、あの爽やかな雰囲気はいかにも主人公的なルックスだ。
明日香が左手を胸の前に置いて、右の指先をそろえて差し出す。すると王子様を演じる佐伯くんは彼女の手を取って指輪をはめるんだ。そして誓いの口づけを......。
ああ、まさしくお似合いのカップル。知らない間に、私はよだれを垂らしてしまったのかもしれない。私の想像は止まるところを知らなかった。
そしたら自分は友情出演でもしてメイドのひとりでも演じていればいい。明日香のお手伝いをするなんて今の自分にはぴったりの役どころだし、離れたところから佐伯くんを見ているだけで私は幸せだ。
まあ、私には劇には出られない。そうだとしても、ちょっとはきみと一緒に夢を見てみたい。
・・・
佐伯くんは、私を救ってくれた人。
あの日、ちょっと会話をしただけだった。それだけだったのに高校で再会するなんて。
廊下ですれ違った時のことは、今も昨日のことのように覚えている。私がきみの後ろ姿をしっかりと瞳に焼き付けたから。
それからずっと願っていたんだよ、来年は同じクラスになれますようにって。
きみは私のことなんて覚えていないかもしれない。それでも私は嬉しかった。
――だって、これが私たちのストーリー。
同じクラスになって、いつでもきみのことを見ていられる。あの日の感謝を告げるには緊張するけれど、いつか心の底から言葉を告げられたらいいなと思っていた。
その安堵は、たった一日で崩れ去ってしまう。叔母さんがすべてを決めてしまうから。彼女を責めるのは筋違いだってわかってる。でもいまだに腑に落ちなくて仕方がなかった。
まるで、別れるために出逢うなんて思ってしまうのも無理はない。
せめて、何かひとことでも告げたい。その猶予はもう無いに等しかった。
もうどうすればいいんだろう。
チャットアプリを開いて、"伝えたいことがあります、明日お時間をください"みたいなことを言えればどんなにかっこいいか。
家に帰った私は、スマートフォンとにらめっこを続けていた。
勇気と恥ずかしさがせめぎ合って、送りたいメッセージを考えるたびに打ち込んでは消していく。ああ、こんなに緊張しちゃうなんて。私はどうしたんだろう。
少し休憩しようか。そう決めて、アプリを閉じる。そのまま何気に手に持ったまま立ち上がった。すると、急にスマートフォンが震え出した。
慌てて落としそうになった。
私の緊張を打ち破ったのは、あるひとつのメッセージだった。
【明日、最後だからお出かけしよう! 放課後に一緒に行こうよ!!】
まさか、佐伯くんから! と錯覚したけれど、これは明日香が送ってきてくれたものだった。
転校する私を気遣ってのことだろう。彼女はスイーツが好きだから、どんなお店に連れて行ってくれるのだろうか。
てっきりふたりだけで行くものだと思っていた。でも、このお誘いが私の背中を押してくれるとは思いもしなかった。
どこかで幸せの鐘の音が鳴っていた。
・・・
終業式の日になった。
滞りなく式は進み、最後のホームルームがはじまる。もしかしたら先生が私のことを伝えるんじゃないかと思ったけど、実際はそんなことなかった。
先生は通知表を手渡しながら、私にウインクをする。ああ、秘密にしてくれるんだ。そう心で理解した。
先生が生徒たちに向けて語り掛けている。
バイトをしないように。遅くまで出かけないように。
わかりきっている夏休みの生活態度の話題なんて、だれが真剣に耳を傾けるだろうか。そんなことを思っていたら、まさか粋な一言を言うとは思わなかった。
「いいえ、節度を守ってしっかりと遊びなさい。この夏休みは、今回しかないんだから」
歓声とともにみんなの顔に喜びが浮かぶ。
......その時だった。なぜだか心の灯りが沈んだ気がした。ふいに悲しみが押し寄せる。
ああ、涙が出そうだ。しかも理由が分からない。
仕方なく、窓の方に顔を向ける。しばらくそのまま自分だけの世界に入っていく。
それからどれくらい経ったんだろう。やっと気づいたのは、ホームルームが解散して皆が帰りだすところだった。
いざ今日という日を迎えてみるとやはり寂しいんだ。
とびきり可愛い制服も。
みんなにおはようって言っていた朝も。
「......みんなっ!」
私は慌てて立ち上がった。やっぱり言わなきゃ。
でも、もう帰りだしている生徒たちは、私の様子を気にかけることなくまたねと手を振るだけだった。もう遅かったんだ......。
この子たちにはいつも通りの日常が流れていく。
私ひとりを残して。
そこに、職員室から明日香が戻ってきた。
「ほら、リコさん行こうよ」
はやく行かなきゃ混んじゃうよ! 手を掴まれ、慌てて教室を飛び出す。そのまま小走りで廊下を走る。どこに行くんだろう? よく分からないまま彼女についていくしかなかった。
すると、下駄箱で待っていた人物に、私は目を大きく見開いた。
「待たせちゃった! リコさんも一緒だよ」
明日香が声をかけたのは、――佐伯くんだった。
「さ、佐伯くん......なんでここに居るの?」
「深見に誘われたんだよ。もしかして女子同士の方が良かったりする?」
ううん、そんなことはない。慌てて首を横に振った。音を立てそうなほどの勢いで私は少し早口で告げる。
「い、いや......嬉しいよ。せっかくだから一緒に......行きたい!」
どうしてもたどたどしくなってしまう。私は一緒に居て嬉しいけれど、ちゃんと佐伯くんに伝わっただろうか? きみの返答に見向きもせずに、緊張のままひとりで靴に履き替えようとしてしまった。
「あ。リコさん、待って!」
明日香の呼びかけに我に返った。待っている私にふたりも靴を履いてくれた。そうだね、みんなで一緒に歩いていこう。
明日香に案内されたのは、駅前から路地に入ったところにあるパンケーキ屋だった。
しかしながら、裏通りに曲がれ右したところで明日香が声をあげる。
「あ!」
明らかな行列ができていた。列の先頭では、女子高生のグループがメニューを見ながら談笑している。そこに店員が現れて注文を聞いていた。
長蛇の列を作っているのは同年代の女子ばかり。終業式の日だから、みんな考えることは同じなのかもしれない。
仕方なく最後尾に並ぶ。それにしても、動くことのない列はいつ進むのだろうか。
次第に会話がなくなっていく。もう床に落ちてしまいそうな会話の切れ端を受け取ったのは佐伯くんだった。
「このお店ってどういうメニューが有名なの?」
「えっとね、ベリー系のソースがたくさんあって美味しいよ」
気の利いた佐伯くんの問いに、明日香も顔を喜ばせて答える。これからまた会話が広がりつつあった。でも、私は自分のことを、転校することを告げることはできなかった。
私の前に座る明日香と佐伯くんは、なんだか楽しそうに見える。
別にお互いにパンケーキを食べさせあったりしているわけではないけど、まるで教室の中では見られない雰囲気がふたりを包んでいた。
文化祭のキャストを想像したときと同じ、まさしくお似合いの感じさえしていた。
――ふたりの関係はなんだろう?
つい不思議な面持ちで見つめてしまった。
佐伯くんのことを直視できないのはいつものことだけど、なんだか明日香も今までの彼女のようには思えなかった。
店内にはどことなく甘い香りが泳いでいたのに、なぜかそれは微妙な味がした。
・・・
空の色はいつの間にか赤かった。
私たちはどれくらい話していただろう。
話の中心になったのはほとんど明日香のことだった。これから祖母の誕生日を祝うために帰省するという。親戚そろって楽しいひと時を過ごしてほしいと思う。そんな関係が、うらやましかった。
視線を前を歩くふたりから見上げてみる。
赤い空はこれからどんどん変わっていくだろうな。次第に黒くなって夜を迎える。そうしたら私は帰宅するだけなんだ。ただただひとりで、誰にも言うことができなくて。
もう、私の願いはタイムリミット。
これから、心の鐘を鳴らす出来事があるなんて思いもしなかった。
改札を抜けた明日香が、私こっちだからと声をかけてくれた。
あ、そうだ。私と明日香は逆方向から登校しているんだった。自然と別れる明日香に手を振る。
......あれ、何かがおかしい。
私は隣に立つ人物を見た。佐伯くんは帰宅しないのだろうか。
「僕、こっちだから。もしかして高瀬もなの?」
佐伯くんが歩く方向を指さす。明日香とは逆の方角に向かって。
ええっ、私は心の中で悲鳴を上げた。佐伯くんとふたりきりで帰るなんて想像していなかった。これは僥倖だ。しかしながら緊張だ。
ああ、明日香も一緒に帰ってほしい。心の中で勝手にテレパシーを送ってみるけれど、もちろん明日香が受信することなかった。
私たちは仕方なく歩き出した。
電車はすでに行ってしまったので、しばらく並んで待つしかなかった。
お互いに無言なのがつらい。クラスメイトや明日香の前ではあんなに話す佐伯くんも、何も言わなかった。たぶん、話題を探しているのだろう。
彼からしたら、私とは接点がなかったんだから。
わずかな風が私の髪をなでる。
「高瀬って、夏休み何するの?」
いいね、こういう質問。やっぱり学生の話題はこうでないと。でも、私にはどんな回答も持ち合わせていなかった。
「何もしないよ。叔母さんどこにも連れて行ってくれないし。明日香ちゃんみたいに帰省する親戚もいないし」
「そうなんだね」
彼は話を合わせてくれた。否定しないでくれるところはやっぱり好感が持てる。その感情に引っ張られたのかつい本音が漏れてしまった。
「本当は遊びに行きたいけどね。不真面目なことしたいわけじゃないけど、そりゃ少しはね」
彼は微笑んでくれた。
「そういえば、高瀬ってどこまで行くの?」
次は当たり障りのない質問。それでもうれしい。
「中原、だよ」
「けっこう遠いんだね、ほとんど終点じゃん」
「うん。ここの学校は制服がかわいいからね」
嘘だ。嘘を言っちゃった。せっかくきみが会話を広げてくれたのに、私がダメにしてしまいそう。
私はついにこりと笑った。それはどう考えても愛想笑いだけど、もう自分で自分を止められそうになかった。最後の日にきみと話せた、もうそれだけで嬉しいんだから。
すると、佐伯くんが心の鐘を鳴らすとは思っていなかった。
「高瀬が笑うのって、似合ってるね」
......え、今なんて? 似合うってどうこうことだろう。つい彼の顔をまじまじと見つめてしまった。
佐伯くんは慌ててそっぽを向いた。
「ほら、......教室の中で笑ったの見たことないから。素敵だなって思って......」
言っちゃったなどと小言を漏らしている。もう耳まで赤かった。
ここで、電車が来るという放送が聞こえる。シルバーにピンクと紫のラインをした車体がホームに入ってくる。
もう時間がなかった。こんなんじゃだめなんだ、ただの会話なんてしたくない。
明日には明日の風が吹くという。でも、私には今日ですべてが終わってしまうから。
ちゃんと、自分のことを告げよう。
決意は一気にすべりだした。
ドキドキした心は落ち着いてくれない。なんだか構内放送なんかより大きく聞こえてきそう。
私は顔を向けたまま、大きな声で話しかけた。
「......佐伯くん!」
きみがこちらを向く。
私は鞄からヘアゴムを取り出すと、急いでポニーテールをつくる。そして一気に深呼吸をして、きちんとしっかりと口にした。
「ずっと言いたかったことがあるんだけど......」
私たちの姿を電車のヘッドライトが照らした。