帰宅した私は玄関にしゃがみ込んだ。
 まるで尻餅をつきそうな仕草は、どすんと音が鳴りそうだ。その音がなんだか足の痛みを呼び起こすみたい。
 慌ててローファーを脱いでも、なかなか足の痛みは引いてくれなかった。
 困ったように眉を曲げる私の背中に降りかかる声があった。
「足辛そうだな、貼る薬持ってきてやろうか?」
 声の主に向かって私は顔を上げる。そして息をのんだ。
「い、いいわよそんなの! ベッドで寝てれば直るんだから。それより大学はどうしたのよ」
「今日は学科の都合で休みなの」
 そうなんだと私はおざなりに返答すると、慌てて部屋に駆けだしていった。
 勢いよく扉を閉めると、そのまま腰を下ろした。胸の前に手を当てなくても、ドキドキしているのが自分でも分かる。
 心臓の鼓動が部屋中に反響しているみたい。
 ああ、私の心よ静まって......。

 さっき話しかけてきたのは、私の兄だった。
 小さい頃から勉強ができて、それでいてクラスの中でも中心人物だと聞いたことがあった。おまけに背が高い。私とは真逆みたいな存在。
 物心がわかってくる時期にとつぜん兄弟ができるのは子供心にも不思議で、どうすればいいのか分からなかった。
 小学生の頃はそれでも単純だったから宿題を教えてほしいと頼んだり、横に座って一緒にテレビを見たりしていた。いつかそのまま寝てしまい毛布を掛けてくれたことがあったと思う。
 私にできたにぎやかな家族。ずっとそれだけが続けばよかったんだ......。
 いつしか、はじめての感情を知ってしまった。
 兄に、恋をした。
 その想いが、許されない相手になるなんて考えもしなかった。でも、ふとした時に口にしてしまいそうで困るんだ。誰にも言えない秘密を、私はずっとしまい込んでいる。
 これが、遠い高校に行きたい本当の理由。
 
 叔母さんからはどうしてそんな遠いところにするのか、たくさん言われたことがあった。
 そんなこと言ったって、どれくらいの時間が掛かると......。決まったようにここまで矢継ぎ早に問われ、私は決まって人気の私学だからと返答したっけ。
 誰だって周りの影響を受けて生活していく、それでも私は自分の意見を押し通した。おかげで明日香や佐伯くんと出会えて、私は幸せの生活を過ごす――はずだった。
 叔母さんの再婚が決まったのは今年に入ってからのことだった。
 もちろん喜ばしい出来事。そのときばかりは心からの祝福を告げたんだ。
 結婚式はまだこれからだけど、少しずつ結婚後の生活が輪郭を成してくる。新しい"お父さん"の仕事が優先され、引っ越すことになった。
 さすがに隣の県からは高校に通えない。私はひとり暮らししたいとねだったけど、そんな意見は大学生になってからと暖簾に腕押しだった。
 まったく、なんで兄の大学は通いやすくなってしまったのだろうか。
 けっきょく、まだ大人の敷いたレールを歩くだけなんだ。
 もし私が新しい恋でもしたら、複雑な感情を上書きできるんじゃないかと願ってみた。
 足の痛みが治まったかどうか分からなかった。

 ・・・

 それから数日経った日。
 もう来週には学期末を迎えるなあ、なんて考えながら中庭の風景を眺めていた。いつもランチを食べる木陰のベンチに座っているとやんわりと風が吹いているのを感じる。
 手のひらの上にあるメモを開いては眺めて、また折りたたむ。
 理由はよく分からなかった。"放課後、ちょっと待ってて"というメッセージに誘われて私はここにいる。
 これが異性から急に渡されたものだったなら、何かを期待できたのかもしれない。
 でも、私なんかに想いを寄せる人なんていないだろう、きっとそうだ。
 しかしながら、このメモを渡してきたのは明日香だった。丸っこくて小さな筆跡はいつも見ている彼女のもので、この紙はルーズリーフを切っただけみたい。
 そういえば彼女はどうしたんだろう。
 朝、私と会ったときからたどたどしかった。メモを渡してくる仕草はブリキのおもちゃのように鈍く、そしてすでに顔が赤い。
 どこか上の空で、心ここにあらずという表現がぴったり。
 別にチャットアプリで送ればいいのにと思ったのはたった一瞬で、メッセージを軽く見ただけで"じゃあいつものベンチにいるから"と二つ返事で答えたわけだ。
 
 中庭の向こう側に何かが見えた。
 きらりと光るのはアゲハ蝶で、草木の間を縫うようにひらひらと飛んでいる。簡素な中庭を彩る黄色の姿を見つめてみた。
 優雅に舞う姿は美しかった。
 そういえば、特別なお仕事のことをアゲハ嬢と呼んだりするっけ。とく私は興味ないけれど、気合いを入れた衣装に身を包んで仕事をする姿は美しいと思う。
 でも、いつかは私たちも大人にならないといけないんだろうなあ。きちんとした仕事に就いて、家庭を築いて。
 そのためには、何からはじめなきゃいけないんだっけ......。
「ごめんね、待たせちゃった」
 そこに明日香がやってきた。
 私は立ち上がって出迎えようとする。でも、彼女の顔が目に映ると、そこから凝視したまま固まってしまう。
 朗らかな笑顔はいつもと変わらない。
 でも、頬は鮮やかな朱色で彩られている。満面の笑みが明日香の全身を包んでいるみたい。
 こんな彼女を今まで見たことがあっただろうか。
「わ......、わたし」
 明日香は少しずつ口を開こうとする。最後まで言い切るのを待っているけれど、なにを言いたいか、なんとなく分かってしまった。
 だから私は"ゆっくりでいいから、深呼吸しなよ"とすすめるんだ。
 大きく息を吸い込んで、彼女は一気に吐き出すように口にした。
 「わたし、がんばっちゃった!!」
 うん、おめでとう。私は頷いて返事に変えた。
 明日香は告白をしたんだ。大切に思っている誰かに想いを告げたんだ。
「おつかれさま。ちゃんとお返事もらえたんだね」
「うん、そうだよ!」
 ここで驚いた表情を見せたのは彼女の方だった。
「......あれ、だれに告ったかとか聞かないの?」
「うん、聞かないよ。なんだか水を差すみたいだし、それに......」
 ......明日香が幸せならいいんだと思う。それだけだから。
 
 大人の階段を上る彼女が、うらやましかった。