兄が会ってほしいという人がいる。
ちょっと食事をするタイミングがあったから、せっかくいい機会だからと誘ってくれた形だ。
中原の隣の駅で待ち合わせしている。ここは学校が多い地域なのか分からないけれど、スポーツ系の部活終わりな集団がぞろぞろと歩いていた。あの網の付いた細長いスティックはなんだっけと思って、ラクロス部だと気づき直したところだ。
軽くため息をつきながら、スマートフォンに目をやる。
あらかじめお店の情報は教えておいてくれた。ちょっと洒落たイタリアンのお店。こんなところ疎いから、衣装を指定されちゃうんじゃないだろうか。
「だから普段着でいいって言ったのに」
背中から声をかけられた。慌てて振り返ると、そこには兄と女性が一人立っていた。
ブラウスとスカート姿の私に兄が小言を漏らす。ちょっとしたお洒落のつもりだったのに。見ると、女性の方もくすくすと笑っていた。
「あのう。ふたりは......付き合っているのですか?」
お店に移って、飲み物を頼んだばかりなのに注文する。ちなみに私はノンアルコールだ。
そんな質問を最初からと兄に注意されるも、私がしてしまったものは仕方ないだろう。顔色変えず話を継いでくれたのは女性の方だった。
「付き合ってほしい、って言った覚えはないかなあ。いつの間にか私たちでいたんだよ」
肩にかかるくらいの髪をした女性が告げる。
ボブヘアーにうっすらとしたお化粧がとてもマッチしていて、どことなく上品でありながらも誠実な印象が伝わってきそうだ。彼女も似たようなブラウスとスカートなのに、何かが違う。アクセサリーのせいか?
お互いに大学のゼミで出会ったのがきっかけで、それでいてサークルには入っていないという。たまに食事やお酒を楽しむのが、ふたりならではの粋らしい。
付き合っているといってもどちらから告白したかは彼女が言った通り、あやふやだろう。そんなお付き合いの形があるかと、私は目を丸くしているところだ。
「この子、最初は教科書もノートも持ってないのにゼミを受けに来て、一番後ろに座ってたんだから。だから私、気づいたら隣に座って、ノートを見せてあげたんだよ」
「あの教授の話なんていつも退屈じゃない。それにノート取らなくてもテストの点数取れるの」
彼女さんが茶化している。兄にこんな一面があるなんて思いもしなかった。おそらく何かが彼女の心配しい一面を刺激したのだろう。
なんだか楽しく会話しているふたりを見ていると、私は蚊帳の外みたいだ。
私は話に適度に混ざりながら、ちらっと窓の方に視線を寄せた。そして心の中でため息をつく。
兄が誰かと付き合っていても別に不思議じゃなかった。私がお祭りに行くのを茶化した時点で、自分にはそういう相手がいるんだと示しているようなものだから。
誰にだってお似合いの相手がいるんだ。きっとそうなんだ。
その相手は逆立ちしたって、私じゃない。だって、私たちはそもそも遠い親戚なのだから。そんな相手に恋をするなんて我ながら馬鹿げているのに、なぜ気づかなかったんだろう。どうして、何年も想ってしまったんだろう。
自分ながらにその考えを打ち消したかった。私が誰かに恋をすれば、新しい恋に上書きされて、自然と兄への想いは消えていくはずだった。
それを花くんに求めていたんだ。感謝を告げるだけで良かったのに、いつか彼を想うようになって、いつまでもいつまでも一緒に居たかった。いつしか恋に溺れた私は、明日香から奪うことも厭わなかった。
兄は彼女を送って行くからと、私一人で帰宅することになった。
誰もいない駅のベンチに腰掛けて、夜空を覗き込む。
あのふたりはとても似合っているような雰囲気を感じていた。まるでいつの日か結婚してしまいそう......。女のカンが、そう告げていた。
いつの間にか、兄への恋心も消えてしまっていた。
私にはもう時間が残されていなかった。
最後の買い出しも終えてしまって、もう数日後にはこの地を去ってしまう。告白の返事はまだもらっていない。とはいえ、聞く必要なんてあるのだろうか。
ああ、きみの声が聴きたい。
もし付き合うことになったら、私は嬉しいかもしれない。でも、明日香が傷つくのは目に見えている。もう彼女には泣いてほしくない。
「ほんと、私何やってたんだろう」
乾いた笑いが腹の底から出てくる。一筋の涙が零れ落ちた。
もう、これで良かったんだ。あの告白は、振られるためでよかった。花くんは元ある場所に帰るために私が仕向けたようなものだ。
抱きしめたい愛はそこにはなかったのだから。
構内放送が流れて、電車がホームに滑り込んでくる。
私はふいに立ち上がって、黄色い線のぎりぎりのところまで歩いて行く。警笛が鳴るのも気に留めなかった。
私がひとり呟いた言葉は、電車の音にかき消された。
「......私は、炎を見たくなった」
・・・
夏休み最後の週になった。
この制服に袖を通すのは何日ぶりだろう。赤いリボンに赤い袖口。入学した当初は可愛いと思っていたデザインも、今見ると何にも愛着を感じない。
今日は学校に宿題を提出しに行くのだ。なんで私にも出されていたのだろうか、本当によく分からない。
担任の先生からは今日なら何時でも良いよと言っていた。だから各駅停車にでも乗って、のんびり学校に向かおう。
いつもは快速電車に乗って、一分でも一秒でも早く学校に行きたかった。そこに明日香が、花くんが待っているから。せわしない心を体現しているような景色だった。
今日見える街並みは、のんびりと流れていた。まるで別世界のよう。
あ、あんなところにDVD屋の看板が見える。こんな小さな気づきは新鮮だけど、今日で見納めだと思うと、なんだか可笑しく思えてしまう。
学校に着くと、担任の先生は職員室にはいなかった。
あれ? と思ったのもつかの間、私のことを見かけた職員が校庭にいると教えてくれた。
「先生!」
「高瀬さん! ごめんね、こっちに来てもらっちゃって!」
私が手を振って挨拶すると、先生は手を広げて反応してくれた。陸上部の顧問を務める彼女は、今日はジャージ姿だった。
「ちょっと席外れるわ。皆さぼらないで自主トレしてるのよー」
「はーい!」
先生の問いかけに、生徒から活力あふれる返事が返ってきた。みんな元気そうでいいな。とは言え、だれも練習をさぼる生徒なんていない。ずっと籍を置いていた私も良く分かっている。
職員室に戻ると、先生は頭を下げた。
「本当に悪かったわね。あなた一人転校という形だから、学年の先生たちも頭を抱えちゃって......」
なるほど、不公平にならないために私にも宿題が出されていたわけか。
事前に言っておいてほしいものだ。私はビジネススマイルを作って、全然いいですよーなんて返事をする。
「はい、もちろん全教科分ありますよ」
私はクリップとクリアファイルに包まれた宿題の束を鞄から出した。その姿を見て、先生が答えてくれた。
「こんなファイルなんかに入れなくていいのよ。本当にマメね、高瀬さんは」
こんな細かいところまで見てくれるなんて、つい私の心がくすぐったくなる。ああ、こんな素敵な大人になってみたいものだ。
「でもあなた、本当に細かいところまで気の利く生徒だったわね。いつも授業の準備をするところで、手伝いますよなんて声をかけてくれて嬉しかったわ」
「そんなことないですって」
「優等生って、成績がいいだけの子じゃなれないの、絶対にそう思っているわ」
そこから色んな思い出話を広げていった。
私の謙遜も潜り抜ける先生の優しさを、楽しかった出来事を、ずっと抱きしめていたい。
どれくらい話していただろうか。もう夕方だ。
腕時計をちらりと見た私がご飯に間に合わない! とこぼすと、それを合図と見たのか、先生が最後の挨拶をしてくれた。
「じゃあ、次の学校でも楽しくすごすのよ。新しいお友達を作ってね」
「はい!」
そして、握手を交わす。
「また向こうでも陸上するのかしら?」
「ええ、すると思います」
その返事が合図となったのか、握る手に力がこもる。
「いつか貴女と大会で再会できるのを楽しみにしているわ。そして、私たちがひねりつぶして優勝するから」
「いいえ、それは私のセリフですよ」
自然とお互いを睨みつける。まるでコントみたいな楽しくも心が震える宣言を交わして、別れていった。
校舎を出ると、午前中には吹いていない風が生まれていた。
もうこの高校に来ることはない。私は、風と共に去っていくんだ。
ちょっと食事をするタイミングがあったから、せっかくいい機会だからと誘ってくれた形だ。
中原の隣の駅で待ち合わせしている。ここは学校が多い地域なのか分からないけれど、スポーツ系の部活終わりな集団がぞろぞろと歩いていた。あの網の付いた細長いスティックはなんだっけと思って、ラクロス部だと気づき直したところだ。
軽くため息をつきながら、スマートフォンに目をやる。
あらかじめお店の情報は教えておいてくれた。ちょっと洒落たイタリアンのお店。こんなところ疎いから、衣装を指定されちゃうんじゃないだろうか。
「だから普段着でいいって言ったのに」
背中から声をかけられた。慌てて振り返ると、そこには兄と女性が一人立っていた。
ブラウスとスカート姿の私に兄が小言を漏らす。ちょっとしたお洒落のつもりだったのに。見ると、女性の方もくすくすと笑っていた。
「あのう。ふたりは......付き合っているのですか?」
お店に移って、飲み物を頼んだばかりなのに注文する。ちなみに私はノンアルコールだ。
そんな質問を最初からと兄に注意されるも、私がしてしまったものは仕方ないだろう。顔色変えず話を継いでくれたのは女性の方だった。
「付き合ってほしい、って言った覚えはないかなあ。いつの間にか私たちでいたんだよ」
肩にかかるくらいの髪をした女性が告げる。
ボブヘアーにうっすらとしたお化粧がとてもマッチしていて、どことなく上品でありながらも誠実な印象が伝わってきそうだ。彼女も似たようなブラウスとスカートなのに、何かが違う。アクセサリーのせいか?
お互いに大学のゼミで出会ったのがきっかけで、それでいてサークルには入っていないという。たまに食事やお酒を楽しむのが、ふたりならではの粋らしい。
付き合っているといってもどちらから告白したかは彼女が言った通り、あやふやだろう。そんなお付き合いの形があるかと、私は目を丸くしているところだ。
「この子、最初は教科書もノートも持ってないのにゼミを受けに来て、一番後ろに座ってたんだから。だから私、気づいたら隣に座って、ノートを見せてあげたんだよ」
「あの教授の話なんていつも退屈じゃない。それにノート取らなくてもテストの点数取れるの」
彼女さんが茶化している。兄にこんな一面があるなんて思いもしなかった。おそらく何かが彼女の心配しい一面を刺激したのだろう。
なんだか楽しく会話しているふたりを見ていると、私は蚊帳の外みたいだ。
私は話に適度に混ざりながら、ちらっと窓の方に視線を寄せた。そして心の中でため息をつく。
兄が誰かと付き合っていても別に不思議じゃなかった。私がお祭りに行くのを茶化した時点で、自分にはそういう相手がいるんだと示しているようなものだから。
誰にだってお似合いの相手がいるんだ。きっとそうなんだ。
その相手は逆立ちしたって、私じゃない。だって、私たちはそもそも遠い親戚なのだから。そんな相手に恋をするなんて我ながら馬鹿げているのに、なぜ気づかなかったんだろう。どうして、何年も想ってしまったんだろう。
自分ながらにその考えを打ち消したかった。私が誰かに恋をすれば、新しい恋に上書きされて、自然と兄への想いは消えていくはずだった。
それを花くんに求めていたんだ。感謝を告げるだけで良かったのに、いつか彼を想うようになって、いつまでもいつまでも一緒に居たかった。いつしか恋に溺れた私は、明日香から奪うことも厭わなかった。
兄は彼女を送って行くからと、私一人で帰宅することになった。
誰もいない駅のベンチに腰掛けて、夜空を覗き込む。
あのふたりはとても似合っているような雰囲気を感じていた。まるでいつの日か結婚してしまいそう......。女のカンが、そう告げていた。
いつの間にか、兄への恋心も消えてしまっていた。
私にはもう時間が残されていなかった。
最後の買い出しも終えてしまって、もう数日後にはこの地を去ってしまう。告白の返事はまだもらっていない。とはいえ、聞く必要なんてあるのだろうか。
ああ、きみの声が聴きたい。
もし付き合うことになったら、私は嬉しいかもしれない。でも、明日香が傷つくのは目に見えている。もう彼女には泣いてほしくない。
「ほんと、私何やってたんだろう」
乾いた笑いが腹の底から出てくる。一筋の涙が零れ落ちた。
もう、これで良かったんだ。あの告白は、振られるためでよかった。花くんは元ある場所に帰るために私が仕向けたようなものだ。
抱きしめたい愛はそこにはなかったのだから。
構内放送が流れて、電車がホームに滑り込んでくる。
私はふいに立ち上がって、黄色い線のぎりぎりのところまで歩いて行く。警笛が鳴るのも気に留めなかった。
私がひとり呟いた言葉は、電車の音にかき消された。
「......私は、炎を見たくなった」
・・・
夏休み最後の週になった。
この制服に袖を通すのは何日ぶりだろう。赤いリボンに赤い袖口。入学した当初は可愛いと思っていたデザインも、今見ると何にも愛着を感じない。
今日は学校に宿題を提出しに行くのだ。なんで私にも出されていたのだろうか、本当によく分からない。
担任の先生からは今日なら何時でも良いよと言っていた。だから各駅停車にでも乗って、のんびり学校に向かおう。
いつもは快速電車に乗って、一分でも一秒でも早く学校に行きたかった。そこに明日香が、花くんが待っているから。せわしない心を体現しているような景色だった。
今日見える街並みは、のんびりと流れていた。まるで別世界のよう。
あ、あんなところにDVD屋の看板が見える。こんな小さな気づきは新鮮だけど、今日で見納めだと思うと、なんだか可笑しく思えてしまう。
学校に着くと、担任の先生は職員室にはいなかった。
あれ? と思ったのもつかの間、私のことを見かけた職員が校庭にいると教えてくれた。
「先生!」
「高瀬さん! ごめんね、こっちに来てもらっちゃって!」
私が手を振って挨拶すると、先生は手を広げて反応してくれた。陸上部の顧問を務める彼女は、今日はジャージ姿だった。
「ちょっと席外れるわ。皆さぼらないで自主トレしてるのよー」
「はーい!」
先生の問いかけに、生徒から活力あふれる返事が返ってきた。みんな元気そうでいいな。とは言え、だれも練習をさぼる生徒なんていない。ずっと籍を置いていた私も良く分かっている。
職員室に戻ると、先生は頭を下げた。
「本当に悪かったわね。あなた一人転校という形だから、学年の先生たちも頭を抱えちゃって......」
なるほど、不公平にならないために私にも宿題が出されていたわけか。
事前に言っておいてほしいものだ。私はビジネススマイルを作って、全然いいですよーなんて返事をする。
「はい、もちろん全教科分ありますよ」
私はクリップとクリアファイルに包まれた宿題の束を鞄から出した。その姿を見て、先生が答えてくれた。
「こんなファイルなんかに入れなくていいのよ。本当にマメね、高瀬さんは」
こんな細かいところまで見てくれるなんて、つい私の心がくすぐったくなる。ああ、こんな素敵な大人になってみたいものだ。
「でもあなた、本当に細かいところまで気の利く生徒だったわね。いつも授業の準備をするところで、手伝いますよなんて声をかけてくれて嬉しかったわ」
「そんなことないですって」
「優等生って、成績がいいだけの子じゃなれないの、絶対にそう思っているわ」
そこから色んな思い出話を広げていった。
私の謙遜も潜り抜ける先生の優しさを、楽しかった出来事を、ずっと抱きしめていたい。
どれくらい話していただろうか。もう夕方だ。
腕時計をちらりと見た私がご飯に間に合わない! とこぼすと、それを合図と見たのか、先生が最後の挨拶をしてくれた。
「じゃあ、次の学校でも楽しくすごすのよ。新しいお友達を作ってね」
「はい!」
そして、握手を交わす。
「また向こうでも陸上するのかしら?」
「ええ、すると思います」
その返事が合図となったのか、握る手に力がこもる。
「いつか貴女と大会で再会できるのを楽しみにしているわ。そして、私たちがひねりつぶして優勝するから」
「いいえ、それは私のセリフですよ」
自然とお互いを睨みつける。まるでコントみたいな楽しくも心が震える宣言を交わして、別れていった。
校舎を出ると、午前中には吹いていない風が生まれていた。
もうこの高校に来ることはない。私は、風と共に去っていくんだ。