気付いていたのにそのまま寝たフリを続ける隼人はやはり意地が悪い。悔しくなった麻衣子は憮然として答える。

「それは……あんまり気持ち良さそうに寝てるから顔にラクガキでもしてやろうかと思って」
『ふーん。俺はてっきりお前がキスでもしてくるのかと思ってた』
「どうして私が隼人に……キスしようとするのよ?」

 もう心臓がもたない。隼人は麻衣子をからかって面白がっている。

(キスって私が隼人に? それは私からキスしてもいいってこと?)

『あの状況じゃそれがお約束だろ?』

 タンスから新しいタンクトップを出した隼人はようやく露出した上半身を服で覆った。そしてもう何事もなかったかのようにローテーブルを挟んだ麻衣子の向かいに座って夏休みの宿題の問題集を開いている。

 人の気持ちを乱すだけ乱しておいて、自分は平然と勉強を始めている。

こんな奴のどこがモテるの?
こんな奴のどこが王子様?
隼人は絶対に悪の帝王だ。

 コンポの電源が切られた室内では麻衣子と隼人の息遣いと問題集や辞書のページをめくる音だけが響く。

たまにわからない問題を隼人に教えてもらいながら宿題を進める。隼人の頭の構造はどうなっているのか、彼は文系も理系も難なくこなしてしまう。
今解いている英語の問題も彼の英文を訳す速さにはいつも驚かされる。

 シャープペンシルを握る隼人の手は大きくて男らしい。彼の手はこんなに大きかったかな?
隼人が麻衣子の知らない隼人になっていく。
どんどん手の届かない存在になっていく。
麻衣子の知らない隼人が増える。

 小学生時代は隼人のことなら何でも知っていた。好きな食べ物、テストの点数、先生や親に内緒にしているイタズラの事、サッカーの試合で負けた時の隼人の悔し涙……。
隼人のことを一番知っているのは自分だと思っていた。だが中学生になってからは少しずつ麻衣子の知らない隼人が増えてきた。

サッカー部の朝練や放課後の部活がある隼人とは中学生になってからはほとんど一緒に登下校したことがない。それはバスケ部にいるもうひとりの幼なじみの渡辺亮も同じ。

 小学生の時は幼なじみ三人一緒に並んで歩いていた通学路を今は麻衣子ひとりで歩いている。

 学校でも隼人と渡辺とはクラスが違い、用事がない限りは校内で彼らと話をする機会も滅多にない。

 隼人とは学校内で話しにくい理由があった。たまに廊下で隼人とすれ違って立ち話をするだけで麻衣子は他の女子生徒の反感を買ってしまう。
隼人を好きな女の子はたくさんいる。彼女たちにとって幼なじみとして当たり前に隼人の側にいる麻衣子は目障りな存在だろう。