外はまだ雨が降り続いていた。書斎には雨音だけが聴こえ、静かな時が流れている。
机に向かっていた浅丘美月はシャープペンシルを置いて、天井に向けて思い切り両腕を伸ばした。

「はぁー! 終わったぁ」
『お疲れさん』

 佐藤瞬はかけていた眼鏡を外した。普段は裸眼で過ごしている佐藤はパソコン作業や文字を書く時のみ、眼鏡を着用していた。

「佐藤さん、教えてくれてありがとうございました!」

机の上には美月の夏休みの課題が積まれている。佐藤に教わりながら答えを埋めた数学の問題集は最後のページまで終えた。
達成感で笑顔になる美月に対して佐藤は無言だ。

「佐藤さん? どうしたの?」
『あ……ごめんね。少し考え事をしていたから』

ぼんやりしていた佐藤はとっさに笑顔を取り繕うが、その表情は冴えない。

「ごめんなさい。佐藤さんも疲れているのに宿題手伝ってもらったり……。お仕事のことで沢山考えなくちゃいけないことありますよね」

 連続殺人事件や佐々木里奈の自殺未遂騒ぎ、そして美月が行方不明になった時も佐藤は炎天下の中で美月を捜し回ってくれたと聞いている。
気疲れや身体の疲れがあって当然の彼の貴重な休息時間を奪ってしまったことに責任を感じた。

 佐藤は優しく微笑み、美月の頭の上に手を置いた。ゆっくり髪を撫でられて、その手つきが気恥ずかしい。

『気にしなくていいんだよ。俺はこうして美月ちゃんといる時間が好きなんだ。考え事と言うのは仕事のことじゃなくてね……』

彼はその先を言い淀む。静寂の書斎の中で雨音と時計の針の音が大きく聞こえた。

『美月ちゃんは木村くんのことどう思ってる?』
「木村さんのこと?」
『うん。見ていて仲良いなぁと思ってね。この猫も木村くんになついていたよね』

書斎の机の下では白猫のリンが冷たい床に寝そべって眠っている。美月は足元で伸びているリンを見て笑った。

「リンは木村さんがお気に入りになっちゃったんです。あの人って猫にもモテるのかも」
『美月ちゃんはどう?』
「うーん……木村さんのことは最初は女たらしの嫌な人としか思えませんでした。でもよく話してみると、面倒見のいいヤンチャなお兄さんみたいで。私はお兄ちゃんいないから、お兄ちゃんがいればあんな感じなのかなって思います」

 隼人とは先ほど携帯電話の連絡先を交換した。お互いに会いたいと思えば会えると彼は言ってくれた。
隼人とも佐藤とも、明日でサヨナラしてもう二度と会えなくなってしまうのは悲しい、寂しい。

『そうか。お兄ちゃん……ね』

ひとりごちる佐藤の様子を盗み見た。佐藤の表情からは彼の気持ちを窺い知ることはできない。

(やっぱり佐藤さんが好き。佐藤さんはどうなんだろう? 私と木村さんの関係を気にしたりして、期待していいの?)

 期待と不安で鼓動がどんどん速くなっていく。佐藤の肩に美月は頭を預けた。彼から香るウッディ調の穏やかな香りを濃く感じ、その香りを吸い込んだ。

『美月ちゃん?』
「……佐藤さんは犯人じゃないよね?」
『急にどうしたんだい?』

 佐藤の手が躊躇いがちに美月の肩に触れ、彼女は彼に抱き寄せられる。広い胸板から聞こえる彼の心臓の音は、美月の心の音と同じ速さ。

「怖いの。私……」
『大丈夫だよ。俺がいる。俺が守るから。ずっと美月ちゃんの側にいるよ』

佐藤から注がれるキスは優しくて甘い。ずっと触れていたくなる甘い唇だ。

 それまで床に寝そべっていたリンが机の下から顔を覗かせる。雌猫は片目を細くして敬愛する主の恋模様を眺めていた。