『悪い。待たせたな』

 後方から物腰の穏やかな男性が歩いてきた。俺や彼女よりも少し年上に見える、この人が結恵の……。

「パパー!」

少女が滑り台の上から男性に手を振っている。彼はにこやかに少女に手を振り返した。

『疲れてないか? 座って休む?』
「そうね……」
『あ、あの、よろしければここにどうぞ』

俺はベンチに置いた自分の荷物を持って立ち上がる。

「すみません。ありがとうございます」

夫に支えられて彼女は今まで俺が座っていた場所に腰を降ろした。

『ありがとうございます。妻は妊娠しているのであまり無理をさせられなくて』

 彼女の夫が慇懃な態度で礼を述べる。彼女が妊娠していることは明らかだった。

わずかな時間を過ごしたあの時とは違い、今の彼女は下腹部がふっくらとしている。初夏には少女の弟か妹が誕生するのかもしれない。

「パパー! こっちきて、いっしょにあそぼー!」
『わかったよー。美月の相手してくる』
「ええ。いってらっしゃい」

 男性は遊具で遊ぶ娘の元へ走り、娘のブランコを押し始めた。“みつき”と呼ばれた少女は父親にブランコを押してもらって笑い声をあげて喜んでいる。

ベンチの横に立ち尽くす俺は手持ち無沙汰なまま、ここを去ることもできなかった。

『娘さん、みつきちゃんと仰るんですね』
「はい。美しい月と書いて美月です」
『美しい月かぁ。いい名前ですね』

当たり障りのない会話でもせめてもう少し彼女と一緒にいたい。

「あの子が産まれた夜は綺麗な満月だったんです。それで主人が美月と名付けました。私の名前とお揃いにもなるからって」
『お揃い?』
「私も月に関係する名前なので」

彼女が微笑んだ。その微笑みは紛れもなく……結恵。微笑む彼女の視線が俺を捉える。澄んだ瞳は美月と名付けられたあの少女と同じもの。

『どうかしましたか?』
「ごめんなさい。なんだかあなたが知り合いに似ていた気がして」

俺だよ、俺なんだよ結恵……。
でもどうしてもその言葉が言えない。
彼女は俺に気づいているのだろうか。