翌日、ナベに呼ばれて病院側に向かった。

 東棟の6階、625号室。
 ここが佐藤先生の病室らしい。

 【脳神経内科 佐藤未来(みき)】と書かれている部屋の前に立ち、小さく深呼吸。扉の取っ手を掴むも……開く勇気が出ない。意識が無かったらどうしよう。病気が更に悪化していたらどうしよう。考えても仕方ないことを永遠と考え立ち尽くしていると、背後から声がかかった。

未来(みく)?」
「……え、せ……先生!!」
「未来~!! 元気か、おはよう!」
「お、おはようございます!?」

 振り向くと、薄い青色の病院着を着ている佐藤先生が立っていた。無邪気な笑顔を浮かべて「朝早いな!」と声を上げた先生は、ゆっくりと扉を開いて「まぁ、入れば?」と私の肩を叩いた。

「……てか、え?」

 私の想像を遥かに超える先生の姿。
 昨日の苦しそうで辛そうだった先生はどこへ行ったのか。青白かった肌にも血色が戻っており、仄かに頬が赤らんでいた。
 昨日は夢だったのか。そう思うくらい、先生は生き生きとしてきた。

「未来、座りなよ」
「……先生、元気になったのですか」
「俺はいつも元気だよ。っていうかさ、さっきから気になっているんだけどさ」
「ん?」
「俺のことを“先生”って呼ぶの、何で? 俺、医者か教師だったっけ?」
「………………え?」

 記憶欠乏……その言葉が真っ先に思い浮かんだ。それと同時に、無邪気な笑顔の先生の様子に涙が滲む。私のことは覚えているようだけど、教師だった自分自身のことは忘れているような様子だった。
 体が震えるのを抑えられない。小刻みに震える手を握りしめていると、不思議そうな表情をした先生が首を傾げながら私の元に近付いて来た。

「未来? どうしたの」
「あっ……いや」

 溢れるように涙が零れた。元気いっぱいの先生の様子が嬉しい反面、昨日とはまるで違う状況が猛烈に悲しい。「未来?」と優しく名前を呼んでくれる先生だったが、先生と私がどこで出会ったのか、それは分からないみたいだった。教師という仕事に紐づく記憶の殆どが無くなっているのかもしれない。


 先生と雑談をしていると、様子を見に来たというナベが部屋に入ってきた。「渡邊先生、おはようございます」と姿勢良く頭を下げた佐藤先生。容体を確認したナベは「体は昨日よりマシだね」と小さく呟いていた。
 
 ナベによると、やっぱり“記憶能力欠乏症”の悪化らしい。
 昨日意識が消失したことが原因となり、佐藤先生の中にあった記憶が一気に欠乏していった。

 両親のこと。友達のこと。
 学校のこと。同僚、上司のこと。生徒たちのこと。
 そして、ナベのことも。

 佐藤先生の場合、とにかく人のことを忘れていたみたい。
 意識が戻った時の第一声が「未来……未来、どこ!?」だったみたいで、それを聞いて記憶は大丈夫かと安心したのも束の間。私以外の人のことが一切分からなかったのだ。
 沢山の人を忘れているのに、佐藤先生の中に唯一残る私の存在。それが今後のキーポイントとなるはずだと呟いたナベは、何故か少しだけ複雑そうだった。


「佐藤さん、今日は昼から脳の検査をしますから」
「分かりました」

 すっかりナベに対して丸くなった先生。
 ペコッと頭を下げる様子が新鮮だったけれど、それ以上に悲しさが勝る。


 その後、ナベは佐藤先生に関する現状を教えてくれた。
 今の先生は“記憶能力欠乏症”の症状を抑える薬を飲んでいるらしい。この薬は身体的な体調不良を改善するものであって、病気の進行を止めるとか、記憶欠乏を改善するとか、そう言った効能は一切無い。
 失った記憶を取り戻すことはできないし、体力の低下も抑えられないけれど。薬さえ飲んでおけば、最低限元気よく過ごせるはずだと、ナベは呟くように言った。


「————じゃあ、佐藤さん。お昼過ぎにまた来ますから。ここでゆっくり過ごしておいてください。未来ちゃんも、お昼ご飯が配膳されるまでに、わかば園に戻ってね」
「……はーい」

 小さく頷き、去っていくナベ。
 急に訪れた静けさの中、先生と私は2人で椅子に座って窓の外を眺めた。

 雲1つ無い青空。名前の分からない鳥が飛び交う様子を黙って眺めていると「……違和感なんだ」と、先生は突然呟いてそのまま顔を伏せた。

「未来。本当に違和感なんだよ。さっき渡邊先生も言っていたけれど、俺は未来とどうやって出会ったのか、今まで何をして過ごしていたのか。正直な話、ここ20数年の記憶が一切無い。……ていうか、俺って一体何歳だっけ。それすら、分からない」

 先程まで笑顔だったのに、急に真顔になり頭を抱える先生。

 椅子から立ち上がった私は、先生の背後に回ってそっと抱きしめる。そうして不安そうな様子の先生の腕を優しく撫でながら「……大丈夫です。大丈夫」と、一切根拠のない言葉を繰り返し先生に聞かせた……。