車をしばらく走らせた先生は、ポインセチアが見られるという花卉栽培施設にやってきた。クリスマスが近いこの季節、今見るならポインセチア一択だと、先生は小さく呟いたのだ。
車を降りて施設に向かう。その背中を一生懸命に追い掛けていると、優しい笑顔で振り返った先生にそっと手を差し伸べられた。
「森野、大丈夫?」
「……大丈夫です」
だけど、ありがとうございます。そう呟いて、その手を握り返す。初めて触れる他人の肌に、ふと涙が込み上げて来た。
施設に入って早々ベンチに座り、遠くに咲いている花を眺める。静かに流れる空気の中で、先生は小さく溜息をついた。
結局、先生はどうしたのだろうか。それを不思議に思い言葉を発しようとすると、先生が先に口を開いた。
「ねぇ、森野。この前さ、死ぬ時は一緒に死のうって言ったじゃん」
「……」
「……俺さ。9月に受けた健康診断でさ。白血球数が高くて引っかかったんだ」
「……」
「それで、ずっと川内総合病院にかかっていた」
その話の流れに、なんとなく嫌な気配を感じた。
寒さが原因ではない震え。それを抑えられずに正面を向いたまま、呆然と遠くを眺める。
先生も、正面を向いていた。
そちらの方を見ることもできず、ただただ静かに先生の言葉に耳を傾ける。
胸が痛くて、苦しくて。どうしようもなかった。
「ずっと、検査をしていたんだけど。今日やっと、正式に病名が下されたよ」
「もしかしてそれって、き、記憶能力……」
「…………そう、森野。お前と同じ、“記憶能力欠乏症”だってよ。後天性のな」
「……」
病名を言った佐藤先生の表情は、何だか憑き物が取れたかのようにスッキリとしていた。多分、誰かに病気のことを話したくて仕方が無かったのだろう。それを今私に言ったことで、先生の中で引っかかっていたものがスッと取れた。何だか、そんな気がした。
静かな花卉栽培施設。寒い時期にわざわざお花を見に来る人もいないようで、人の数は本当に少ない。
私と先生だけの時間。同じ病名を共有したばかりの私たちの間には、何とも言えない空気が漂っていた。
「後天性は、進行が早い」
「……つまり」
「俺はあと、1年も無い」
「……」
抑えきれない感情が涙となって零れ落ちる。神様は意地悪だ。佐藤先生にまで、“記憶能力欠乏症”にする必要なんてないのに。
散々憎いと思っていたこの病気が、今日は更に憎く感じる。悔しくて、辛くて。どうしてそれが佐藤先生なのか。もう何一つ理解できなくて、只々悲しかった。
「森野……泣くなよ。同じ病気だろ」
「……同じとか、そうじゃないとか。そんなの一切関係無いです。私の大嫌いな病気に、佐藤先生までかかっているなんて。耐えられません」
ふいに、ナベの友達『戸野さん』が過ぎった。
あの人も後天性の“記憶能力欠乏症”で、あっという間に亡くなったと聞いている。
その事実を思い出し、また涙が込み上げた。
余計に悔しいし……何だかとてもやるせない。
先生は瞳を潤ませたまま考え事をしていた。その間に一筋流れ落ちた涙を手の甲で拭い、「よしっ」と声を上げる。
「……森野。ポインセチア、見に行こう」
「……」
「それがここに来た目的だろ」
ベンチから立ち上がった先生は私の手を取り、そっと立たせてくれた。そして優しく手を握って、ポインセチアが飾られているという場所へ向かう。
そこまでの道中、先生は何も言わなかった。
ただ真っ直ぐ前を見て、目的地に向かう先生。