水平線が似合う君



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朔夜side



朝の8時。
コンコン、と部屋のドアがノックされた。



「はーい」



そう言うと、こちらが開ける前に向こうがドアを開けた。
そこには、いつも通り笑顔の、唯鈴がいた。



「ねぇ朔くんっ。このお洋服、目に焼き付けておいてね?これと〜……」



途中で言葉を切っていなくなったかと思えば、数分後また部屋を訪ねてきて、



「こっちのお洋服!どっちがいいと思う?」



なるほど。
2種類のコーデの善し悪しを聞きたいらしい。
最初の服は、ジーンズのロングスカートに、フレア袖の白いブラウス。
2つ目は、白いシャーリングシャツワンピースだった。



俺は……



「2つ目かな、ふわふわしてんの可愛いし」
「なん……っ」
「それにロングスカートだと濡れるかもだろ?」



唯鈴は1度部屋から出て、ひょこっと顔を覗かせる。
恥ずかしくて親の後ろに隠れる子供みたいだ。



「……朔くんそれ天然なの?」
「何が。てかなんで顔赤いんだよ?」
「赤くないもん!朔くんの天然!」



怒られてしまった……のか?



とりあえず唯鈴の機嫌を取ろうと、ワンピースに合わせるバッグや靴を一緒に選ぶ。



「じゃあ、このサンダルとバッグだな」
「うんっ!ふふっ、楽しみだなぁ〜」
「そんなオシャレするほど楽しみなのか?」
「もう!朔くんは自分の絵の価値感を分かってない!」



今日は、4月1日から2週間が経った土曜日。
春休みを終え高校2年生になった俺たちは、これから海へ出かける。
なぜなら、唯鈴の絵を描くためだ。
結局、唯鈴の絵を描くと言った日から一年以上が経ってしまったが、あの約束は守れそうだ。



「じゃあ行くか?あ、お弁当」
「リビングのテーブルに置いてるよ!」
「ん、分かった」



絵を描くのには時間がかかる。
きっと昼を過ぎるから、と唯鈴がお弁当を作ってくれたのだ。
そのお弁当を取りに、俺は階段を下りる。
誰もいないリビングは物静かだが、朝の時間のゆったりとした空気は好きだ。
自分の足音を聞きながら、ダイニングテーブルの上のお弁当を手に取る。
そして保冷バッグの中に入れ、飲み物も用意して準備完了。
ちなみに今、俺の左手には大きなエコバッグがある。
その中に、今日使うアクリル絵の具や筆、パレットなどが入っている。



絵を描くのも、いつぶりだろうな。
ネットの事があったり唯鈴の事があったりで、中々書けなかったからな。



唯鈴は俺に絵を描いてもらうことをとても楽しみにしているが、実は、内心俺もワクワクしている。
久しぶりに描くからというのもあるが、俺のキャンバスに唯鈴を描けることが、嬉しいのだ。
父さんが母さんの絵を描いていたように、愛する人の絵を。
高校に行くのがひたすら嫌で、色を使わず描いたあのカラスの絵とは違い、綺麗な思いが込められた鮮やかな絵になるだろう。



そう自分に期待しながら、中々下りてこない唯鈴を呼ぶ。



「唯鈴〜!早くしないと置いてくぞ〜」



すると、バタバタと階段を駆け下りてくる足音が聞こえる。



「お、来た来た」
「も〜朔くんのイジワル!置いていくなんて!」
「まだ置いてってないだろ?ほら、行くぞ」
「そーだけどさぁ〜」



唯鈴は文句を言いながらも、やっぱり楽しみにしているからか垣間見える笑顔が隠せていない。



そこまで楽しみにされると、少しプレッシャーだな。
ま、期待に応えてやるとするか。



そして、俺たちは家を出た。
2人で並んで、いつもの海へ向う。



「私、朔くんに絵を描いてもらうことは無理だと思ってたから、ほんとに嬉しいなっ」
「………」



唯鈴と付き合ったあの後、唯鈴の体には何も異常が見られなかったため、朝になって俺たちは病院を出た。
その時に気がついたのは、母さんが病院の駐車場でずっと待っていてくれたことだ。
車は、一度家に帰って乗って来てくれたらしい。
理由を尋ねると、



「唯鈴ちゃんは絶対目を覚ましてくれるって信じてたから。お家に帰るには、車が必要でしょっ?」



と睡眠不足ながら笑って答えてくれた。



そんなこんなで唯鈴が助かって一安心だが、失ったものは大きい。
母さんは父さんがいなくなって、仕事に就かなければならなくなった。
だから今日も近くのスーパーで働いている。
俺からしたら、まだ休んでいて欲しいが。
母さんへの負担を少しでも減らそうとアルバイトをしようとも思ったが、母さんに相談するとそんなことしなくていいと言われてしまった。
母さんは優しくて、強い人だ。
それに父さんがいなくなったあの日から、昴たちは俺たちの家によく遊びにきてくれるようになった。
きっと、俺たちを心配してのことだろう。
本当にいいヤツらばかりで、リビングの賑やかさに母さんも笑顔を浮かべていた。



「おい朔夜!真琴が強すぎるんだけど!?」
「俺に言われても……てかほんとなんでそんなに上手いんだよ」
「さぁ?」
「あー!真琴に落とされてゲームオーバーになったんだけど!」



なんて言いながらバカ騒ぎするのも、たまにはいいかもしれない。



唯鈴は葉月さんのことで暫く悲しみに暮れていたが、俺が1週間前「絵を描きに行こう」と提案した日から、笑顔が戻ってきている。
俺の絵で唯鈴を元気づけることが出来るなら、喜んで描く。
そう強く思いながら、昨日の夜に絵のセットを準備した。



唯鈴が助かってなかったら、こうして絵を描くことなんてなかったんだよな。
……本当に、良かった。



その思いを胸に、唯鈴の隣を歩く。
もちろん、車道側を歩くのは俺だ。



「何回でも描いてやるよ」



そう、この先ずっと、何度でも。



「ありがとう、朔くんっ!」



この笑顔を、隣で見ていたいから。



そして他愛のない会話を続けること約20分。
色々な事があったお馴染みの海へ到着した。
今日は雲一つない快晴だ。
かと言って暑すぎるわけでも寒すぎるわけでもないから、これ以上ない完璧な天気だろう。



「よし、じゃあ早速……」
「あ、待って朔くん」



絵を描き始めようとしたら、唯鈴に止められてしまう。
それに、いつもならすぐ海へ走っていきそうなのに。
そう唯鈴に違和感を感じた時、唯鈴は真剣な顔をして。



「あのね朔くん。私、お母さんに手紙もらったでしょ?」
「ああ、うん」
「あれね、まだ読めてないの」
「そうなのか?」
「うん」



もう2週間経ったし、1人で読み終えたかと思っていたが、そうではなかったらしい。
まぁ、書いてあることは嬉しいことばかりじゃないだろうし、読むには勇気がいるか。



「だからね、私、今ここで知りたいの。お母さんや捧げる側の者について。きっと読み終えたら、心がスッキリすると思うんだ。せっかくだから、朔くんには心から笑えてる姿を描いて欲しいなって……」



唯鈴は何故か、申し訳なさそうに言う。



すぐに絵を描き始めることが出来なくて、俺が残念がるとでも思ったのか?
そんなわけないのに。



唯鈴を安心させるために、俺は唯鈴の頭を撫でる。



「そんな顔するな。俺はずっと、隣にいてやるから。そんで最高の絵を描いてやる」
「っ……ありがとう」
「ん。じゃあどこか座って読むか」
「うん!」



朝の風に頬を撫でられながら、持ってきていたレジャーシートを広げる。
靴を脱ぎ荷物を置き、腰を下ろす。
そして唯鈴は、涼しさを感じるかごバッグから、あの日の手紙を取り出した。
そして大きく深呼吸。



「……開けるよ?」
「ははっ、緊張しすぎ」
「だって〜」



そう言いながら、唯鈴は封筒から中身を取り出した。
唯鈴が書いたあの手紙に負けないくらい、結構な枚数のメッセージカードがある。
一番最初には、『唯鈴ちゃん・朔夜くんへ』と書いてある。
繊細な字が唯鈴とそっくりだ。
……って、それよりも。



「え、俺も?」
「そうだね。でも確かに、お母さんは朔くんに伝えたいことがたくさんあると思うよ」
「えぇ……?何、俺怒られんのかな……もしかしたら、娘には手を出すなとか書かれてるんじゃ……」



本気で不安になる俺を見て、唯鈴は笑ってくる。



「そんなわけ無いでしょ?もう、私より朔くんの方が緊張してるんじゃない?」
「っそーかもな!もういいから、読むぞ!」
「はーい、ふふっ」



どうやら、沈んだ空気で手紙を読み始めることは避けれたようだ。



口を閉じて、聞こえてくるのは波の音。
視線は海ではなく文字に注がれた。



『まず、今まで唯鈴のそばにいてあげられなくて、ごめんなさい。
でもどうか、その理由を聞いて欲しいの。
私と、あなたのお父さん、遠永晴人(はると)とは、17年前に結婚したの。
その1年後に唯鈴ちゃんが生まれて、とても嬉しかったわ。
でも、私にはあなたも知っている通り特殊な力があった。
血が繋がっているわけゃなかったから、お父さんにはなかったけどね。
その力は、一族の間で代々受け継がれていくの。
神社にはその“名前”は書いてなかったわよね。
その一族の名前を、捧げ人(ささげびと)と言うの。
だから唯鈴ちゃんも捧げ人になったのだけど、私はそれが嫌だった。
自分の子供がある日消えてなくなるなんて、耐えられるはずが無いもの。
だから私は、唯鈴ちゃんに捧げ人のことを教えないまま育てると決めた。
でもあなたは結局、ある日突然いなくなってしまったわ。』



唯鈴が俺を助けた日のことだ。
自分の娘がいなくなるなんて、驚くどころじゃないだろう。



『突然言ってしまうことになるけど、唯鈴ちゃんのお父さんは、唯鈴ちゃんが4歳の時に事故で亡くなってしまったの。
私がその時近くにいたら、助けることが出来たんだけど、もう連絡が入った時には手遅れだった。』



その一文に、俺は反射的に唯鈴の顔を見る。



母親だけじゃなく、父親はももういないなんて。
きっとショック……



「大丈夫だよ、朔くん」



だと思ったが、唯鈴はとても落ち着いていて。



「だって、何も覚えてないんだもん。お母さんと違って、最近会ったわけでもないし」



確かに、覚えていなければ悲しくないかもしない。
そうなると、唯鈴の父親が気の毒だが。



続きの文からは、その時の葉月さんの気持ちが痛いほど伝わってきた。



『だから唯鈴ちゃんは絶対に守らなくちゃって思って、仕事もこれまで以上に頑張ってたの。
でも、春休みの間は幼稚園が無いから、唯鈴ちゃんは家で1人だったの。
だから寂しかったのね。
中から自分で鍵を開けて、海へ遊びに行ってしまったのだと思うわ。
その日は唯鈴ちゃんの誕生日だったから、ケーキを買って帰ったのだけど、玄関のドアが開いていて。
その前から違和感は感じていたの。
鍵はちゃんと開いていないのに、唯鈴ちゃんの服が少し砂で汚れていたから。
唯鈴ちゃんはそのことに対して何も言ってこなかったから、聞いて欲しくないのだと思って聞かなかったけど、それが間違っていたわ。』



幼い子供は何をするか分からないから怖い。
無邪気に海へ走っていった、あの日の俺のように。



『嫌な予感がして唯鈴ちゃんの名前を呼んだけど、中から唯鈴ちゃんの声は聞こえてこなかった。
唯鈴ちゃんがいなくなってしまったと、すぐに分かったわ。
警察に連絡して探してもらったけど、何も手がかりはなくて。
子供を1人にしてしまった自分を責めたわ。
唯鈴ちゃんのために頑張っていたのに、唯鈴ちゃんはもういない。
この力は何のためにあるんだって、しばらく何も出来なくて。
そんな時、仲の良かった友達が訪ねてきてくれて、たくさんの言葉をもらったわ。
唯鈴ちゃんはまだいなくなったとは限らない、行方不明なだけで、見つかるかもしれないって。
その小さな希望を胸に、今まで看護師を続けてきた。
そして10年が経った時、奇跡が起こったのよ。
意識は無かったけれど、大きくなった唯鈴ちゃんが、男の子に抱えられてやってきたの。
私、涙が出てしまって。
平気なフリをするのが大変だったわ。』



あの時、看護師の目が赤く見えたのは、そういう理由だったのだ。
深く考えないで他人事だと思っていた俺を、過去に戻って殴ってやりたいくらいだ。



愛する娘と10年越しの再会。
どれだけ胸が熱くなるのか、俺には想像も出来ない。



『そして、10年も行方不明だったのに、こんなに健康な体で見つかったということは、捧げ人のことが関係しているとすぐに分かった。
それから、唯鈴ちゃんが朔夜くんに恋をしていることも、母親の私からしたら一目瞭然だったわ。
その時、私は以前母と訪れた神社のことを思い出して、唯鈴ちゃんはこの男の子に命を捧げて、でも一年命が残ってしまったのだと推測したの。
だから、唯鈴ちゃんにあなたは捧げ人だと知ってもらうために、大昔に捧げ人が建てたと言われている神社のことを朔夜くんに伝えたの。』



「えっ、そうだったの?」



唯鈴は、驚いた顔をして尋ねてくる。
確かに、唯鈴はこの話を初めて知っただろう。



「ああ。俺が風邪引いた時に、病院でオススメされて」
「あー!確かに病院だったら違和感なく伝えられるよね!」



唯鈴はうんうん、と頷いている。
その時、俺が葉月さんに相談をしたことは、唯鈴には黙っておこう。



『その時ね、朔夜くんが言ってくれたの。
大切な人との時間を、その人と同じくらい大切にしたいって。
だから私、安心したわ。
ああ、唯鈴は大丈夫だって。』



黙っておこうと思ったけど、葉月さんにバラされてしまった。
案の定、唯鈴はニヤニヤしている。



ほらこうなるから……っ



「へぇ〜?そうなの朔くん?」
「……そうだけど」
「っ……そ、そっか」



その自分から仕掛けといて結局返り討ちにされるの、唯鈴っぽいよな。



なんて微笑ましく思いながら、思った以上の量がある手紙を、スラスラと読んでいく。



『唯鈴ちゃんには大切な人が出来て、居場所があって。
だから、唯鈴ちゃんには会いに行くべきではないと思ったの。
今行っても困惑させてしまうだけだから、自分が消えてしまう予定の日に、私が唯鈴ちゃんを助けて大切人との時間を守ってあげようって。
その日に、全部伝えようって。
この一年、唯鈴ちゃんに会いに行かなかった理由はそれよ。
でも、どんな理由があったって、あなたに会いに行かなかったことは許されないわ。
本当にごめんなさい。』



葉月さんも、唯鈴には会いに行きたかったはずだ。
でもそれを我慢したのは、他の誰でもない唯鈴の幸せのため。
唯鈴は、それを理解できないほど心の狭い人間じゃない。



だから案の定、唯鈴は俺の隣で笑みを浮かべている。



「お母さんは優しすぎるよ……」



本当にそうだ。
そしてそれは唯鈴にも当てはまる。



『こんなお母さんだけど、唯鈴ちゃんを愛することは許して欲しいわ。
そしてこの手紙で、唯鈴ちゃんに伝えたいことがあったの。
それは、唯鈴ちゃんの名前の由来についてよ。』



その文に、唯鈴は目を輝かせる。



「ふっ、唯鈴ほんと分かりやすいな」
「だってだって!まさか知れるとは思ってなかったんだもん!」
「そうだな」



唯鈴の反応を楽しみながら、俺も唯鈴の名前の由来を見る。



『まず、唯という漢字は、誰かにとっての唯一の存在になって欲しかったからなの。
そしてその相手はきっと、朔夜くんのことね。』



父さんが考えてくれた、俺の名前の意味。
月に照らされる存在、と言っていた。
その月というのはきっと、唯鈴のことだと思う。
つまり、葉月さんの言う通り、俺にとって唯鈴は唯一の存在なんだ。
唯鈴が暗い夜道を照らしてくれるから、俺は自殺しないで今も生きれている。



唯鈴と顔を見合わせて、2人とも少し照れくさそうにする。



『それと鈴は、恥かしい話だけど、あなたのお父さんがね。
私に似た綺麗な子に育って欲しいって言ってつけたのよ。
あなたのお父さんはとても素直だから、そういうことを恥ずかしげもなく言う人で。
当時は照れくさくて仕方がなかったけど、大きくなったあなたを見て、間違いじゃなかったと思ったわ。
立派にありがとうございますが言えるようになって、大切な人を思えるようになって、心の綺麗な子に育ってくれて、本当に嬉しいわ。』



唯鈴も嬉しそうにする。



名前の由来が、こんなにも愛されたものだったと知れたからだろう。



そう思ったが、それだけでは無いようで。
唯鈴は手紙を愛おしそうに見つめながら、呟いた。



「お母さんとお父さんって、お互いを愛してたんだね」
「!ああ、そうみたいだな」



でも唯鈴。
一番愛されてるのは唯鈴自身だ。
そのことをいつか伝える日には、俺はどうなっているだろう。



そう思いながら、久しぶりに海を見る。
すると、もう手紙も最後の1枚となった。



『ここまで長々とごめんなさい。
最後に朔夜くん、唯鈴のことをよろしくお願いします。
あなたが唯鈴のことを愛してくれて、自分の事のように幸せだわ。
この広い世界から唯鈴を見つけてくれて、ありがとう。


そして唯鈴。
愛してるわ。
この一言じゃ表せないほど、心から。
そしてこのメッセージカードの裏には、あなたが昔好きだった子守唄の歌詞を書いておいたわ。
これであなたが少しでも私とお父さんのことを思い出してくれたら、もっと幸せね。
そばにいてあげられなくて申し訳ないけれど、遠くから、そしてすぐ近くで見守っているから。
安心して、あなたはひとりじゃない。
これからもっと、幸せになるのよ。
ありがとう、さようなら。



あなたたちを愛する者より』



そしてそれ以上、愛の言葉が続くことはなかった。
けれど、心はとても温かい。



唯鈴は無言でメッセージカードを裏返し、その歌詞に目を通す。
そして数十秒後。
読み終えたのか、唯鈴はメッセージカードから目を離して、涙を流した。



「お、おかあ、さんっ……おとう、さん……っ」



記憶が戻ったのだろうか。
今までとは確実に何かが違う思いをのせて、唯鈴の口から発せられた愛する人を呼ぶ声。



何も知らずに、ただただ幸せだったあの頃。
その温かい記憶は、涙とともに流れていった。



俺が隣にいて、1人で泣かせることにならなくて、本当に良かった。
気が済むまで泣けばいい。
俺はずっと、ここにいる。







「きゃっ、やっぱりまだちょっと冷たいね」
「えっ、何か言ったか〜?」
「なんでもな〜い!」



9時過ぎ。
たくさん泣いた後、唯鈴はパッと笑顔になって海へと駆けて行った。
そして俺は絵の具を用意し、キャンバスを取り出し、筆を握った。



青系は使うな……白と、それとグレーも混ぜて……



快晴の下にある、海とじゃれ合う少女と、白を塗りつぶしていく少年の世界。
この空間を表すために、キャンバスから分かる雰囲気を重視して描きあげていく。



今までの唯鈴の人生、唯鈴の価値観、唯鈴の気持ちまで全てが伝わるように、様々な太さの筆と絵の具を使い分ける。



あれ……絵を描くのって、こんなに楽しかったっけ……
早く、早く早く。
あんなにも綺麗に生きるあの子を、一刻も早く目の前の四角に残したい。



その絵が完成するまで、筆が止まることは一度もなかった。



もう何度目か分からないお腹の音を無視して、自分で描きあげた世界を眺める。



風の流れ、潮の香り、波の音、飛び跳ねる海水、青く澄んだ水平線。
波打ち際を煌めく貝殻と砂。
これでもかと世界を照らす午前の太陽。
そしてスポットライトの真ん中で舞う、1人の女の子。



全てが、この1枚から感じ取れる。



「……出来た」
「朔く〜ん、何か言った〜?」
「唯鈴!絵、出来た!」



少し興奮気味に言う。
その声に唯鈴は、「ほんと!?」と目を輝かせながらやってくる。
もう時刻は17時30分。
溜まりに溜まりきった期待が、やっと開放される。
唯鈴は俺の隣にしゃがんで、絵をまじまじと見つめる。



「え……これ、本当に朔くんが描いたの?すっごく、綺麗……ありがとう、朔くん。ありがとう……っ」



そう言った唯鈴の瞳には、涙が浮かんでいた。
でもそれは、感動故の嬉し涙だ。
そして何故か俺も泣きながら、自分の絵を目に焼き付ける。
そして心の底から思う。



この絵を完成させることが出来て、良かった……っ



そして気がつく。
自分が泣いているのは、今までの全ての苦しみが、この絵に慰められているような気がしたからだ。



ああ、“俺を生きてきてよかった”……と。










少女はその日、今までこぼれ落ちてしまっていた愛を拾うように、とある手紙から溢れるほどたくさんの愛を言葉としてもらった。
そんな少女はキャンバスの中で、水平線を背に両手を広げ、空に向かって今までで一番輝かしい笑顔を浮かべていた──。