ああ、やだやだ。本当にやだ。
そんな言葉を心の中で繰り返しながら仕事でのストレスを流し込むようにお酒をあおる。
人々の話声でざわざわと騒がしい居酒屋の隅っこ。時折、どっと盛り上がって笑い声が聞こえるグループの方にちらりと視線を向けてから、私はテーブルに突っ伏した。
長年働いていた会社に対する不満が爆発してしまって、勢いのまま辞表を叩きつけて辞めてきてやった。後悔はしていないけどなんだかもやもやしてしまって、会社帰りの足のまま目に付いた居酒屋に飛び込んで今に至る。
ああ、やだやだ。なんであんな会社に入っちゃったんだろう。
これからどうやって生活して行こう。新しい仕事を探さなくちゃ。でもしばらく何もしたくない。でも働かないと生きていけない。

「うううもう、誰か養ってくれ」

涙声で漏らした声がテーブルに跳ね返って、余計に切なくなった。
いいや。今は忘れて飲もう。飲んで忘れてすっきりしよう。タッチパネルを操作して、追加のお酒を注文するのだった。
それからどれくらいの時間飲んでいたか、気づけばテーブルにほっぺたをつけたまま眠っていた。
あ、いけない。こんなところで寝ちゃだめだ。むにゃむにゃなんて唇を動かし、ぼうっとする頭を起こしたら――目の前に超絶イケメンなお兄さんが座っていた。
清潔感のある黒髪の短髪。切れ長の目元に、通った鼻筋。綺麗な形をした唇。雪のように白い肌。身体は均整の取れたすらりとした長身。
男性ですら見惚れてしまいそうな容姿を持つ彼の瞳としっかり視線が交錯して、私が目をぱちくりさせる一方、彼はにこりと目元を細め柔らかに微笑む。

「おはよ」
「お、はよう、ございましゅ」

動揺のあまり語尾が変になってしまった。
お兄さんは私の顔を見て、ふふっと優しく声を出して笑った。何、笑い声までイケメンなんだけど何事なの。

「ほっぺ、寝ていた痕がついちゃってる」
「え、あ、う」

慌てて頬に触れたんだけど寝ていた痕など今はどうでもいい。私は一人で居酒屋に入って一人でお酒を飲んでいたはずなのに、ちょっと眠っていた間に見知らぬイケメンお兄さんが同じテーブルに座っていて微笑みかけている。これなんていう状況なの。

「ほら、ちゃんとお水を飲んで」

手渡されたのはつやつやに輝く氷が入ったお水のグラスだ。知らない人から差し出されたお水なんて危なすぎて普段なら飲まないのに、そのときの私はパニックになりすぎてとりあえず飲んでしまった。それこそぐびぐびと温泉あがりの牛乳を一気飲みするかの如くだ。
お水を飲んだだけなのに、彼は「うん、良い子だ」なんてとろとろに甘い微笑みを向け褒めてくれる。不覚にもときめいてしまった。こんなことで良い子だなんて言われたことないから変な動悸が襲ってくる。

「頭は痛くない? 気持ち悪いとかは?」
「な、ないです」
「そっか、良かった。じゃあ帰ろうか、立てる?」

あれ、私、彼と知り合いだったのかな? なんて思うくらい親しげで、親身にお世話をしてくれている。私の傍まで近づいた彼は手を差し出して立ち上がる手助けをしてくれて、触れた手のひらがくすぐられたわけでもないのにくすぐったい。

「あ、お会計……」
「ああ、もう俺が払っておいたから大丈夫だよ」
「え!?」
「さ、行こう。足元ふらつきそうだったら俺につかまってね?」

そう言って彼が私の手を引いていく。居酒屋の店員さんたちの元気な「ありやとございしたァ!」なんていう、もはや勢いのあまり言葉が変わっているぞという挨拶を聞きながらお店を出る。夜風が冷たい。冷たいという感覚はわかるんだけど、いまだにこれが夢か現実なのかふわふわと曖昧だ。
いや、絶対夢を見ている。酔っぱらったあまりに見ている夢だ。
だって、こんなに超絶イケメンお兄さんが知り合いみたいに接してくれて、酔っぱらった私のお世話をしてくれて、歩調を合わせて歩いてくれているなんて。
そうか、なーんだ夢だ。だったら思いっきり楽しもう。こんなこと夢じゃないと体験できないだろう。
お兄さんに手を引かれるままに連れてきてくれたコインパーキングには、夜の闇でもわかるくらいつやつやとした車が止まっていた。助手席のドアを開けてくれて「どうぞ」って微笑んでくれる。私はにこにこ笑顔で車に乗り込んで、きちんとシートベルトを締めた。
やけにリアルな夢だなぁ。お酒の力だな。
お兄さんが運転席に座り、私の前髪に指先を伸ばすとさらりと触れてふわりと微笑む。

「眠ってていいよ。着いたら起こしてあげるから」
「は、ぁい」

なんだもう、幸せな夢過ぎて目覚めたくないなぁ。
まるでいざなわれるかのように眠りの世界に旅立って、しばらく経った頃、とんとんと肩を優しくたたかれて意識が少し浮上する。
「着いたよ」っていうお兄さんの声が聞こえたんだけど、眠ったことで酔いが回っちゃったのか体がだるくて起きるのが億劫になってしまった。
んー、なんて唸っていると身体がふわりと持ち上がる感覚がする。うっすらと開けた瞼の向こうに見えた景色が少し高い位置だったから、きっとお姫様抱っこされているんだろう。お姫様抱っこ。生まれて初めてされた。やっぱり嬉しいものだな。しかもこんな格好良いお兄さんになんて……。
ふうっと意識が沈んで、持ち上がったときにはふかふかで良い香りのするベッドに寝かされていた。

「今日はゆっくり休んでね。おやすみ」
「……おや、しみ」

お酒でべろべろだったせいもあるんだろう。呂律も回らず、欲望のまま深い深い眠りについて――朝に目を覚ました私は絶句した。
私の隣に、昨日夢に出てきたお兄さんがすやすやと眠っている。しかも、ちょっとお布団をめくったら上半身裸だった。あまりにも美しい眼福すぎる身体つきだったので五分くらい見つめてしまったがそれどころじゃない。
ここはどこ。私の部屋じゃない。というか私の家ですらない。明らかに男性の部屋のインテリア。ひ、広い。寝室だよね? 私のマンションの部屋が丸ごと寝室になっているくらいの広さだ。
一方、私はお仕事のときに着ていたシャツ一枚と言う姿。下着は装着している。大丈夫。いや、大丈夫じゃない。
昨日のあれは夢じゃなかったの? どういうこと? 私こんなイケメンのお兄さんと知り合いじゃない! でもものすごく親しくお世話してくれた! 本当は知り合いだったとか? 私が覚えてないだけ?

「あ、あの……あの、起きて」

ちょんちょんと肩をつついて起こしてみれば「ん」なんていう掠れた甘い声が放たれて、文字にすれば一文字なのに爆弾が落とされたみたいな衝撃が走る。
瞼を持ち上げた彼の黒曜石のような色の瞳がゆっくり私に向いて、少し気だるげにしつつも、ふっと微笑む。ずぎゅん。今、私の胸から変な音が聞こえてきた気がする。

「おはよ」
「お、おはようございま、す。あの、あの」

彼は私の頬を包むように左手を伸ばして親指でそこをすりすりと撫でてくる。く、くすぐったい! 何この甘い行為!

「しんどくない? 平気? 昨日はたくさんお酒飲んだんだよね?」
「だ、だいじょうぶ、ですけど。あの、私、あなたとお知り合いでしたでしょうか全く記憶になくて」

ゆっくりまばたきをした彼が身体を起こして前髪をかき上げる。ふう、なんて息を吐き出し、流し目でわたしを見つめると、誘惑するかのようにとろりと色を宿して口元を歪めた。

「俺は君の旦那さんだ」
「は、はい?」
「正確にはレンタルダーリンかな。自己紹介がまだだったね。今日から期間限定で君の旦那さんになる桐生 葵(きりゅう あおい)だ」

れんたるだーりん? 期間限定の私の旦那さん?
確かに居酒屋で「誰か養ってくれ」って零したけど、何この状況……何この状況!

「よろしくね。俺の奥さん」

――いっぱい愛してあげるから。
語尾にハートマークがついているんじゃないかってくらいの声色で言われた。
あたたかな光を宿して優しく微笑まれた瞬間、ぎゅうううん! なんて心臓が唸ってベッドに仰向けに倒れ込んだのだった。
案外、私はちょろい奴なんだなと気づいた十二月の朝だった。
一体、私はいくら払ってレンタルダーリンなんて頼んだんだろう。酔っぱらいって怖い。全然覚えてない。