家族はいない、仲間もいない。わたしはいずれ消えてゆく運命。
 わたしは、この森で最後の──

 
 戦火を抜け、少女はオレンジに染まった大地を高台から見下ろした。
 火の粉が舞い飛ぶ空、燃え落ちる木々と家。自分が育った森が燃えている。
 
 棲み家を追われ、気づけばここまで来た。
 だが逃げて来たのではない、ただ生き残っただけだ。
 ほおには荊で切った傷、手には火傷の跡もある。
 
 それでも、これまでに受けた仕打ちに比べればましだった。

(まき)ひろいにいつまでかかっている!」
 思い出すのは、自分に向けられる罵声ばかりだ。
 カバノキの枝鞭で打たれた背中の皮膚が裂け、集めた割木が床に散らばる。

「夕食に間にあわないだろ!」
 少女は黙って立ち上がり、窯に焚き木を放り込み、形成しておいたパンを並べた。

「つまみ食いするんじゃないよ」
「そんなこと……」
「どうだか。お前の母親は森の民でありながら、村の男に手を出した卑しい女だ」
「違います、母さまは──」
 
 言い終えないうちに、今度は太い平手が飛んで来る。
「何が違うって? その結果お前が生まれているじゃないか、穢らわしい! 我らの誇りに泥を塗りおって」
 
 (まき)に生木が混じっていたらしい。煙がしみて涙が出た。
 女中頭は少女がべそをかいたと思ったようで、フンと鼻を鳴らし台所を去って行く。
 
 少女は、泣いたことがなかった。
 
 表情の読めない瞳はいつも乾ききっており、かわいげがないとみな嘲笑った。
 端的な言葉遣いは強がりと見なされ、なおさらまわりを苛立たせた。
 
 両親はとうにいない。
 母親が彼女に残したものは、くるみの木で作ったスプーン一本だった。
 
 森の民と呼ばれる種族の序例は血統で決まる。
 しかし少女は二つの血を引く忌み子であり、雇われていた家では下僕のように虐げられていた。
 混ざりものの血は不吉だと疎まれ、顔を上げれば生意気だと鞭打たれる。
 
 誰も味方はいなかった。
 少女は常に傷だらけで、首や背中の皮膚は醜く引き攣れていた。
 
 あの大切にしていたスプーンさえ、今はない。
 それからどうしたのだっけ、それから……?
 
 そんな生い立ちが過ぎった一寸、突如一本の火矢が背後の木に刺さった。
 となりあう火は輪のようにつながって、あっという間に少女を囲む。

(ここで終わりなんだ)
 
 もとより、生への執着もなかった。
 まだ十六年しか生きていないのに、老年のようにひどく疲れていた。
 それでも、

(ひとりで死ぬのは怖い──)
 
 そんな恐怖が身を走ったとき、炎の向こうから声がした。
 白い修道服の女性が、荊の茂みから手をさしのべている。
 
 少女はついに天使が迎えに来たと思ったが、女性は煤に汚れた顔で笑って言った。
「大丈夫、こんな茶番はじき終わるわ」

 
 彼女の言った通り、それから日をおかず戦いは終結した。
 長きにわたる征服戦争は、いくつもの森が蹂躙され、侵略者が勝利を収めた。
 
 女性はある古い教会の女司教でリリウムといった。
 容姿は美しくおおらかで、村人に聖女と呼ばれ敬われていた。

「死後の世界に地獄はありません」
 そうやさしく説く彼女の声は子守唄のようで、ミサはいつも満員だった。
 
 リリウムに引き取られ寝食をともにすることとなり、少女の生活は一転した。
 
 その頃村では、猟奇殺人という不穏な事件が囁かれていたが、同族にすら家畜のように扱われていた以前と比べれば、少女にとってはおだやかな日々だった。
 
 清貧を戒律とする教会の質素な暮らしでも、初めてお腹いっぱい食事をし、初めて安心して眠ることができたため、髪や肌は少女本来の生気が甦り、ひび割れていたくちびるにもさくらんぼのようなつやがもどった。 
 ふし目がちな瞳はまっすぐ見つめれば大きくて、翠玉(エメラルド)の輝きを放った。

「これを使いなさいな」
 少女はリリウムから髪と同じ色の緋色のヴェールをもらい、自分も修道女として働いた。
 読み書きを教わり、ときには聖書の教義についても勉強した。
 
 仕事は教会の掃除や(まき)割り、飼っている山羊の世話などが主だったが、完璧にこなせなくても、今までのように怒鳴られることはなかった。
 なんの干渉もなく自由にさせてもらったので、少女は裏の小さな畑を使い、農作物や草花を育てるのに勤しんだ。
 とりわけ森でもなじみだった薬草作りは楽しく、毎日はこの上なく満たされていた。
 
 リリウムは鷹揚にやさしく、何もがまんすることも無理をすることもないと少女に言い聞かせ、かわいがってくれた。
 
 ただ二つ、人前では決してヴェールを取らぬよう、地下の酒蔵(カーヴ)はノミの巣のため入らぬよう言いわたされていた。
 
 そんな、ある夜のこと──
 司祭館の一階で眠る少女は、小さな物音で目を覚ました。
 早朝の祈り(プライム)にはまだ早いが、信者が教会へ来たのかもしれないと、急いでヴェールをかぶる。
 
 ろうそくを灯すと、ベッドわきに影をゆらめかせ女司教が立っていた。
「びっくりした……リリウムさま」
「ごめんなさい、起こしちゃったのね」
 
 申しわけなさそうに笑うリリウムは、何も、夜着も下着すらも身につけていなかった。
 こんな時間に沐浴でもするのだろうか。

「ど、どうされたのですか、その格好……」
「どうせ汚れちゃうと思って」
 うふっと意味ありげに微笑むと、リリウムは少女のほおにそっとふれた。
 右手には、なぜか(まき)割り用の斧が鈍い光を放っている。

「若い子はやっぱりきれい。肌も、きっと中身も……」
「……リリウムさま?」
「眠っていれば、怖い夢を見ずにすんだのに」
 何を言っているのかよくわからない。
 
 だが、女司教の目が熾火のように熱を持ち斧が高く上がったとき、少女は村で聞いた事件を思い出した。

「死後に地獄がないっていうのはね──」
(まさか──)
「この世が地獄だからよ!」
「!」
 
 少女の顔に血しぶきが降る。
 
 が、白い胸を朱く散らせたのは、リリウムのほうだった。
 
 背後から己を貫く剣先に、彼女は剣の持ち主を驚きと怒りの形相で見返る。
 戸口に立つのは、黒いフードに黒いマントの男。
 全身黒ずくめで、剣が大鎌なら死神のようだ。
 
 男は剣を引き抜き、リリウムの躰を容赦なく蹴り飛ばした。
 大量の血がほとばしる裸身のまま、彼女は斧をふりかぶる。

「──おのれェ!」
「やはり既存の武器では効かぬか」
 
 リリウムの一撃を剣で受けながら、男はマントの内側から何かを取り出し投げつけた。
「イノンド!」
 ぱさり、と草束はリリウムに当たって落ちる。
 何も起きない。

「イラクサ! ハシバミ! オトギリソウ!」
 続けて手当たり次第に放るが、やはり相手は無反応だ。

「なんだ、書物にあったのと違うな」
 つまらなそうにつぶやく男に、この状況下で何がしたいんだと、少女は恐怖で青ざめながらも怪訝に男を見た。

「からかってるのか、貴様!」
 もはや聖職者とは思えぬ雑言を吐き、リリウムは男目がけて突進して来た。
 
 鈍い音を立てて近接戦が始まった。
 一回り以上体格差のある男の剣も、彼女は重量のある斧で受け流す。
 もう常人でないのは明らかだ。
 
 いつからこうなったのか。
 それとも、もともとヒトではなかったのか。
 
 間断ない斧撃に見舞わられ、男も苦戦していた。
 激しくぶつかりあう二つの刃、重い衝撃に床に軋む長靴(ブーツ)
 
 少女には何が起きているのかわからなかったが、この男が倒れたとき、自分もあの斧の餌食になることだけは理解できた。
 ふたりのわきを四つん這いですり抜けて、司祭館裏の畑へ走る。
 作業小屋から曇りガラスの小壜(フラスコ)を取って来ると蓋を開け、力いっぱいリリウムへふった。

「──ぎゃあああっ!」
 薄黄色の液体を頭からかぶり、司教は苦鳴をあげた。
 しゅうしゅうと気体の立つ顔を覆った手のすき間から、赫い眼がのぞき少女は慄く。

「おのれ、助けてやった恩を忘れたか!」
「それを殺めるとは論理の破綻だ──月下聖剣(ソードオブルーナ)!」

 破門宣告のように剣はふり下ろされる。
 短い叫びとともに(やいば)が肩から中枢に届いたとき、その瞳孔は白く濁り、ようやく彼女は地に伏した。 
 
 少女はしばらく惚けてすわり込み声も出なかったが、 
「大丈夫か」
 派手に返り血を浴びた男に起こされたとたん、さらなる恐怖に相手を突き飛ばし、男が壁で頭を打ったごんという鈍い音で我に返った。