――サイレンが、聞こえる。
「……あのね、いい加減にしなよ、君。名前、本当はなんて言うの」
「……幕張匠」
「だから、高祢中学にそんな生徒はいないんだよ。別の中学かな?」
「……高祢中学の幕張匠です」
「……君、別に万引きとかしたわけじゃないんだから、そう怖がらなくていいんだよ? 深夜に出歩くのは危ないって連絡を入れるだけだから、本当の名前教えてよ」
その人の口は、困ったように繰り返す。
「幕張匠なんて、いないってことは分かってるんだから」
「あのさー、匠って名前の由来、何なの?」
煙草代わりにココアシガレットを食べていた親友が、幾度となく繰り返した質問をまた繰り返す。
「……さあ」
「偽名使いたいなら苗字も変えればいいのにさ。だから幕張亜季には生き別れの兄がいるなんて噂が立つんだよ」
「…………」
「ま、いま一番みんなが信じてる噂は、幕張匠は本名を隠したくて、でも亜季の彼氏だから亜季の苗字を騙ってるんだってことだけどね」
カリッ、と白い棒が、口先一センチで折れる。
「幕張匠が亜季の彼氏ってことは、みんな結構信じてるらしいよ。幕張匠の恰好で家に帰ってんだから、そりゃそーだねって感じだけど。で、幕張匠は彼女と同じ苗字を名乗って結婚の想像をしたがる少女趣味ってわけだ。複雑な噂考えるヤツがいたもんだね」
「……で?」
「怒るなよ。俺は何も言ってないって。匠と違って俺はちゃんと顔隠してるから、学校にいたって『幕張匠の相棒だろ!』なーんて言われないし」
親友は、もう一本ココアシガレットを取り出す。また煙草のように咥えて、未成年喫煙者気取りを楽しんでいる。
「だから、純粋に疑問なんだって。男の恰好してんのは分かるよ、女だとナメられるっていうか、別の意味で襲われるっていうか、そんなのあるし。でもだったら名前もすっかり変えちまえばよかったのにさ。なんでそんな中途半端なことしてんの?」
「……幕張匠が存在するって、気付いてもらうため」
「……どういう意味?」
馬鹿な俺にも分かるように教えてちょ、なんておどけてみせられても、それ以上の説明なんてない。
「……幕張匠は、本当はいたはずなんだって、あの人に分からせるためだよ」

文化祭が終わって、一週間が経った。
「松隆くーん! おっはよー!」
「あっ、遼くーん、カップケーキ作ったんだけどどう?」
「月影せんぱあい、こっち向いてくださ――い!」
きゃあきゃあと悲鳴のような歓声で埋め尽くされる廊下の中心を、三人はモーゼのように歩いてくる。ギャラリーに顔も視線も向けず、一人は片手に旅行雑誌みたいなものを持って、一人はそれを覗き込んで、一人はそれにすら興味なさそうにスマホを見て。
「三日? 長い。勉強に支障を来すから却下だ」
「三日くらい勉強しなくてもお前なら大丈夫だよ。いんじゃね、海行って釣りして祭すりゃ三日だ」
「日焼けしたくないから海はなしだなあ。早起き面倒だから釣りもダメ、人混み無理だから祭も却下」
「避暑に誘っておきながら何だその却下の連続は。家で寝てたらどうだ」
「家にいると父さんが面倒だからな。兄さんも帰ってくるし」
「ああ、俺も兄貴帰って来るだろーな。行かないことになっても鍵くれ、暫く住むから」
「食事はどうする」
「お手伝いさん一人来てもらえばなんとかなるだろ」
「飯くらい自分で作れよ」
全ての声を無視して (おそらく)夏休みの計画を立てていた三人が、私に気付いて足を止めた。じろじろと私を見ながら真っ先に口を開いたのは月影くんだ。
「BCCでは見違えたと思ったが……やはり十人並みの素は変わらないな」
「失礼だなツッキーは! なんでそれでモテるの? 絶対嘘だよね!」
「あとはそのダサいニックネームをやめろ。名前で呼ばれたほうがまだマシだ」
「駿哉くんは名前で呼ばれるほうが好きなんですか?」
「呼ばないのが一番良いからその口を縫い合わせてからもう一度来い」
罵り合った後の私と月影くんとの間にはバチバチと火花が散る。理由は待ち構える期末試験だ。月影くんとしては一科目でも私に負けるわけにはいかないらしい。文化祭が終わってから何かと視線が痛いので私も反抗的な目を向けざるを得ない。ただ、松隆くんと桐椰くんにとってはどうでもいいことなので、松隆くんの手にある雑誌を見ながら「あ、花火できんじゃん」「片づけが面倒」なんて話している。松隆くんはさっきから夏の風物詩を否定してばかりだ。
「ねぇ、さっきから見てるの何?」
「夏休みに行く避暑地のパンフ。桜坂も行くだろ?」
「え、なんですかそのさも当然のような聞き方は」
何も聞かされていないのに私が行くことが決まっている……。松隆くんは親切なんじゃなくて強引なのがたまたま親切な方向に転がっているだけのような気がしてきた。差し出されたページには海辺が映っていた。
「何これ?」
「海」
「それは分かるけど」
ニヤッと松隆くんが笑った。文化祭が終わって以来、松隆くんの腹黒さはよく表に出て来る。
「うちの別荘があるんだよ、この近くに」
「うへぇ、さすが松隆グループ」
避暑地に別荘の一つや二つ、持っていないわけがないということか。覗き込んだ雑誌にある写真はいかにもなリゾート地だ。
「……まさかプライベートビーチまで持ってないよね?」
「まさか、持ってないわけないよね」
「……お金持ち怖い」
ああ、私には分からない話だ……。桐椰くんは「松隆のおじさん、人混み嫌いだもんな」なんて的外れなコメントをしている。カツアゲされたときに庶民だって言ってたくせに。
「まー、狭いもんだけどね。せいぜい家族で使う程度だと思ったみたいだから。近くのホテルで宿とるほうがいいかもしれないけど、ホテル嫌いなんだよな」
「お前場所変わると寝れないよな」
「二、三日寝ればちゃんと慣れるんだよ」
「子供みたいだね松隆くん」
「未成年だからね」
「さっきから揚げ足ばっかりとって酷くない?」
「ま、そういうわけだから。下手に夏休みに予定入れないでね」
にっこり王子様みたいな笑顔を残してくれるも、私は行くなんて一言も言ってない。欠片もときめかないイケメンスマイルだ。白い目を向けるけれど、松隆くんは知らんぷり。
「……それにしても、凄い人気だねぇ」
「ん?」
「御三家の人気。みんなもう生徒会怖くないのかな?」
きょろ、と見回す廊下には、遠巻きにきゃあきゃあ騒ぐ女子ばかり。三人は意にも介してないけれど、そんなクールなところがまたいいとか言われてるのを私は知っている。お高く留まっていてなによりだ。
「さあ……。それは俺達の知ったことじゃないけど」
「文化祭で多少助けてやったのが効いたんじゃね。コイツ以外でも助けてもらえるだろって思ってんだろ」
「やっぱ助けなきゃよかったかなあ」
「そう言わないで、松隆くん。一般生徒を助けたからこそあの票があるんだよ」
「まあそれは確かに」
その代償と思えば安いものか、なんて鬱陶しそうにギャラリーを見回す。
「とはいえ、生徒会の権力がどうなったわけでもないけどね。俺達が覇権を奪い取ったわけじゃないし、奪う気もないし」
「ないの?」
「ないね」
きっぱりと、まるで興味なさそうにリーダーは答えた。隣の桐椰くんも、雑誌を受け取ってぺらぺらと捲りながら頷く。
「こんなところで上に立ってどーすんだって話だしな。生徒会は学校運営に携わるから覇権握ってりゃ便利なことあるだろうけど、俺らには得ねーよ」
「いいじゃん、お山の大将も楽しいかもしれな痛いっ」
猿呼ばわりしたことが気に食わなかったのか、桐椰くんに雑誌で頭を叩かれた。すぐに暴力に訴えるんだから。
「まあでも、生徒会との対立関係がなくなったわけじゃないしね。俺達御三家は御三家で好きにやらせてもらうよ」
そうか……。透冶くんが死んだ理由が分かったとはいえ、透冶くんが生徒会役員辞任後に生徒会から虐められていたのは事実。御三家の三人も同じく。だとしたら真実が分かったところで生徒会と仲良くする義理も、仲良くできる理由もない。
文化祭が終わった次の日、片付け終了直後に、松隆くん達は牟田という三年生を筆頭とした数人を雨の降る中庭に呼び出した。全部で八人、透冶くんが会計の仕事をしていたときに粉飾決算をするように脅した人、誤魔化して溢れた生徒会費で遊んだ人、その後透冶くんを責めたてた人……と、透冶くんの事件に関わっていた人達だった。松隆くん達は私に声をかけなかったから、私がそれを知ったのは偶然だった。校舎の中から中庭を見て、不穏な空気に慌てて飛び出してみれば、松隆くん達が八人の前で佇んでいるところだった。
『俺達に何か言いたいことはあるか』
凍えるような声で、松隆くんはそう言った。観念したのか反省したのか、よく分からない様子の八人は口々に悪かったと謝ったけれど、松隆くん達は何も返事をせず。鹿島くんが話した通り、「死ぬなんて思ってなかった」「遊びのつもりだった」「本気じゃなかった」と弁解した。それが松隆くんの逆鱗に触れたのは当然だった。
『それだけか?』
訊ねながら、松隆くんの腕は、一番近くで頭を下げていた牟田先輩の傘を払い飛ばした。桐椰くんに (鹿島くん曰く)半殺しにされた牟田先輩は、崩れ落ちるように泥まみれの地面に土下座した。まだ完治しない右腕を庇いながら、額を地に擦りつけて。
『……悪かった』
項垂れた数人が、牟田先輩と同じように、のろのろと地面に膝をついた。雨の音にかき消されてしまうような小さな呟きがたくさん聞こえた。松隆くん達が表情を変えることはなく、返事をすることもやっぱりなく。
『……俺はもういい』
ややあって、桐椰くんはそう言って踵を返した。頭を下げる以上のことはしない数人を一瞥して、仕方なさそうに目を逸らして。
『……迎合したところで、誠意がないなら同じことだ』
月影くんは、牟田先輩に釣られて土下座しただけのような数人に、一言そう吐き捨てて、桐椰くんの後に続いた。松隆くんだけが最後まで残って、じっと牟田先輩を見下ろしていた。
『……どうして、透冶にあんなことをさせたんだ。真面目な透冶が狼狽えるのが、楽しかったか?』
『…………』
『金が欲しかったわけでもないのに、何故だ?』
『……だから……、あれは……』
『遊びだった、って言ったな。そのくだらない遊びに透冶を付き合わせた理由は何だった?』
『…………』
『どうせ、透冶を付き合わせることまで含めて遊びだったって言うんだろ』
何も答えない牟田先輩に、松隆くんが手を挙げることはなかった。降り続く雨に濡れて沈んでいく牟田先輩達の手を見た瞳は、その手を踏みつけたいのを堪えているようで。
『……誠実なヤツほど謝るのが下手で、不誠実なヤツほど謝るのが上手だなんて、この世の中はクソみたいに理不尽だな』
小さな声でそう呟き、何も答えることのない牟田先輩達を置き去りに、松隆くんも踵を返した。数歩進んでから気付いたように振り返り、傍観者さながら立ち尽くしていた私を見て、自嘲気味に笑った。
『何してんの、そんなところで』
『……えっと、』
『四月の遼みたいにコイツらを半殺しにすると思った? そんなことしないよ。……そんなことしても、もう透冶は怒ってくれないんだから』
文化祭前に桐椰くんが言っていた。喧嘩なのか何だったのかまでは知らないけれど、松隆くんと〝結構ヤバいことやらかした〟ときに透冶くんに怒られたのだと。そのことなんだろう。哀しそうだったけれど、どこか諦めたような顔をして、松隆くんは立ち去った。かけるべき言葉など一語すら思い浮かばず、暫くその場に立ち尽くしてから帰宅した。文化祭最終日は夜も遅くなったから桐椰くんが送ってくれたけれど、そうでなければ一人で帰る。恋人ごっこは終わったし、幸か不幸か、蝶乃さんのお陰でふりを続ける必要もなくなったから。
その日以来、松隆くん達が牟田先輩達について何かを言うことはない。松隆くん達の目の届かない場所で、御三家が一部の元生徒会役員をシメたという噂が流れているのは聞いた。ついでに、牟田先輩は雨に打たれて風邪を引いたとかで学校を休んでいる。このまま転校するんじゃないかと誰かが考察しているのも聞いた。
ほんの、一週間前の出来事。思い出しながらじっと松隆くんを見ていると「そういえば」なんて言いながら、鞄から何かを取り出して差し出す。二〇センチ程度の高さの、小さな黒い袋だ。
「これ、吉野から。少しは身だしなみを整えろだって」
「お化粧道具……」
袋の中には白いポーチが入っていて、その中にはBCC最終日に使った化粧品の一部が入っていた。ファンデーションとチークとアイシャドウとリップグロス。他にも沢山持っていたけど、それは要らないのだろうか。
「手先不器用でアイラインは引けないだろうし、引けないと分かればしないだろうし、ビューラー使えば目蓋挟むだろうし、マスカラ塗ればパンダになるだろうし、とか思って厳選したらしいよ」
「ものすごく失礼な気遣いありがとうございますって伝えといて」
的を射すぎて言い返せない。どうりで少ないわけだ。私の、文字通り目の前で素早く丁寧に動いていたよしりんさんの手の動きを私が真似できるとは到底思えない。げんなりと袋の中を見つめる私を桐椰くんは鼻で笑う。
「お前の顔、落差すげーもんな。BCC終わってもお前が話題にならないのも納得だ」
「そうだねー。桐椰くんが顔を真っ赤にしながら私を褒めてくれたのもBCCのときだけだったもんねー」
顔を真っ赤に、という部分を強調すると桐椰くんの口の端がぴくぴくと痙攣した。これは殴りたいのを我慢してる顔だ。その手にある雑誌がグシャッと握りしめられている。月影くんが「すぐに言い負かされて情けない」と冷ややかな目を向ける隣で、松隆くんは私に冷たい目を向けた。
「話は戻るけど、桜坂、もうそのむざ……手抜きした状態でいる必要はないよ?」
「いま無惨って言おうとしたよね?」
「あの恰好を強制してたのはBCCで観客に驚きを与えるためだったし。もちろん、そのままでいたい理由があるなら別だけど」
華麗なるスルーを決め込んだ松隆くんの目はどう考えても馬鹿にしたように笑っている。原因はぼさぼさに伸びっぱなしの髪とすっぴん眼鏡にあるんだろう。制服はよしりんさんに破られてしまったので、文化祭前と違ってちゃんと体に合ったサイズだ。スタイル良かったんだね、と何人かの女の子に言われた。
「うーん、理由っていうか、ほら、面倒くさいし……」
「髪結ぶくらいしろよ、二秒で済むことだろ」
「でもなあ。暑くなってきたら結ぶかもしれないけど」
梅雨入りした今、じめじめと雨が降り続くとはいえ、まだ耐えられない暑さはない。とはいえ、湿気のせいでやや爆発している髪は見るに堪えないと感じているのは私自身も同じだ。どんだけものぐさなんだよ、と桐椰くんの白い目が向けられている。
「じゃあ……軽くまとめるくらいはします……」
「そうしたほうがいい。貧相な顔が更に貧相に見える」
「ねぇツッキーは私に何の恨みがあるの? 数学?」
「じゃあまたな」
図星をつかれた月影くんは氷のような睥睨を残して先に行ってしまった。一人歩き出した月影くんを女子の一部が追いかけているけれど、やはり無視。
「ねー、桐椰くん達もあんな風に女の子に追いかけられてるの?」
「ああ、そうだね。生徒会に勝ったせいであからさまになったよ。あとは遼が甘いもの好きってバレたからお菓子の貢物は増えたなあ」
「コイツ本当に余計なことばっかり言いやがったよな」
「だって他に桐椰くんの良いところ見つからなかったんだもん」
「甘いもの好きって別に良し悪しじゃないんじゃない?」
そうは言われましても、女子の好感度を上げるという意味では同じことなのですよ。