立て続けに両親を失い、収容所に入れられた私に、自分の身を嘆いている暇はなかった。

それよりも、生きていくことに必死だった。

ここでは、最早私を守ってくれる人はいない。

常に一人で、自分の身は自分で守らなければならない。

生きていたいなら、文字通り泥水を啜ってでも生きなければならない。

それが、残された私の運命だった。

収容所に来たばかりの頃、まだ十歳足らずだった私は、収容所の子供が通う学校に行くことを強制された。

とはいえ、学校とは名ばかりで、その実態は洗脳と労働の矯正施設だった。

収容所では子供であっても、労働が課せられる。

子供は子供の仕事がある、という訳だ。

収容所の綿工場で製造した織物を畳んで箱に詰めたり、収容所で使う囚人用の石鹸を作ったり…。

あるいは、学校の周りの畑で、作物を育てたり。

鶏小屋で、鶏の飼育をしたりもした。

子供だからと言って、容赦はなかった。

もしサボったり、鶏の卵を一つでも盗んだりすれば、監督している先生から、死ぬほど殴られた。

先生達のお気に入りの罰は、校庭を何十周も走らせることだった。

疲れ果てて倒れ、意識を失うまで走らせた。

いや、意識を失うくらいで解放してくれるなら、まだ優しい。

意識を失って倒れれば、別の生徒にバケツに水を汲んでこさせ、その水を倒れた生徒の顔にぶちまけて、無理矢理起こして、また倒れるまで走らせて、それを繰り返すという拷問じみた罰を行う先生もいた。

おぞましいとしか言いようがないやり方だが、それを異常と感じたのは、最初だけだった。

あっという間に、私はそれに慣れてしまった。

というのも、学校では労働だけでなく、洗脳教育も行われていたから。

子供に対する洗脳教育は、シェルドニア全土の学校で行われているが。

収容所の学校でのそれは、更に苛烈なものだった。

「お前達には犯罪者の血が流れている」

「お前達は生きる価値のないクズであり、国の恥である」

「それなのに生かしてやっているのだから、心を入れ換えて、罪を償わなくてはならない」

先生達はそんな常套句と共に、私達を虫けらのように扱い、馬馬車のように働かせた。

普通の学校で行われるような教育は、全くと言って良いほど行われなかった。

だから、私は何年も学校に通っていたのに、未だに読み書きすら怪しい。

ここに来るまでは覚えていたはずなのに、収容所での過酷な毎日の中では、文字の読み書きなど何の意味もないから、忘れてしまった。

読み書きなんかよりも、ただ生きていくことの方が余程重要で、そして大変だった。

家族もなく、幼い一人ぼっちの子供であった私が、ここで生きてこられたのは、奇跡に近い。

そして今でも、私はいつ殺されるか怯えながら、同時にいつか釈放される日が来るかもしれないと期待しながら、地獄のような収容所で生きていた。