元々身体の弱かったお母さんは、深刻な栄養不足のせいで病気を発症した。

そして、充分な看病も出来ず、お母さんはあっさりと亡くなった。

私は泣いた。でも、それ以上にお父さんの方がたくさん泣いていた。

お父さんが泣くところを、私はそのとき初めて見た。

お父さんは、私を愛してくれているのと同じくらい、お母さんのことを愛していたから。

愛する妻の為に、何もしてやることが出来なかった。

きっと、その無力感に苛まれていたのだろう。

死の間際、お母さんはお父さんに、「どうか娘の命だけは守って欲しい」と、息も絶え絶えに訴えた。

お父さんは、何度も何度も頷いて、お母さんに誓った。

娘の命だけは…私のことだけは…何をしてでも守る、と。

そして、それが間違いだった。

お母さんが亡くなってから、どんどん悪化していく状況の中で、お父さんはついに、絶対にやってはいけない禁忌を犯した。

政府の所有する食糧庫に忍び込み、食べ物を盗んだのである。

そしてシェルドニアでは、政府所有の物資に手を出すということは、国に対する反逆とされていた。

お父さんだって、それがとんでもない罪であることを知らなかった訳ではない。

シェルドニアに生きている国民なら、三歳の子供でも知っていることだ。

政府の持ち物に手を出せば、ただでは済まないと。

でも、お父さんは手を出してしまった。

多分、私を助けたくて必死だったのだ。

お母さんが死んだ今、私だけは絶対に守らなければならない。

娘を守るには、例え危険でも、もうこうでもするしか方法がない。

だから、罪を犯した。

後になって聞いたところによると、お父さんは二度、政府の食糧庫に忍び込んだらしい。

ということは、一度目は成功したのだろう。

私も覚えている。

毎日飢えていたのに、ある日突然、お父さんは何処からか、両手に食べ物を一杯抱えて帰ってきた。

私は目を丸くして、これはどうしたの、と聞いた。

お父さんは答えなくて、ただお腹一杯私に食べさせてくれた。

だけどそんな食べ物は、砂漠の中でコップ一杯の水を得たに過ぎない。

程なくしてまた食糧が底を突き、お父さんは危険を覚悟で、また政府の食糧庫に忍び込んだ。

そして、二度目は成功しなかった。

それ以来、私はお父さんの生きた姿を見ることはなかった。

多分、最初に忍び込んだ時点で、お父さんは目をつけられていたのだと思う。

食糧泥棒として引っ立てられたお父さんは、私に会わせることもなく、拷問されて殺された。

私は当然父の死に目にも会えなかったし、最後に言葉を交わすことも出来なかった。

それどころか、私も犯罪者の家族として、一人で収容所に入れられた。

幼い子供であっても、容赦はなかった。

恐らく、見せしめの意味も含まれていたのだろう。

政府に楯突けばこうなるから、お前達、よく見ておけ…と。

こうして私は一人ぼっちになり、収容所に入ることになった。