どんなに辛い強制労働を課せられようと、私は死のうとは思わなかった。

収容所では、毎日のようにキツい労働をさせられ、誰もが疲弊していた。

様々な種類の労働があるが、その中でも特に囚人達から敬遠されているキツい仕事は、農作業だった。

農作業と言えば、農作物に水や肥やしをやったり、草取りをしたりといった仕事を思い浮かべるかもしれないが。

この収容所で、農作業というのは、過酷な肉体労働を指す。

荒れた山野を切り開き、木を切り倒して、巨大な岩を退かして運び、氷のように硬い地面を掘り返して、作物を植える。

言葉で言えば簡単だが、この作業は想像以上の重労働である。

朝から晩まで農作業に従事すれば、両手の手のひらは擦りむけ、重いものを運び続けた肩に血が滲み、足も腰も鉛のようになる。

それに、一日の労働が終わっても、充分な休息が得られる訳ではない。

粗末な食事と、僅かな睡眠時間が与えられるだけ。

たったそれだけの休息で、一日の労働で溜まった疲れが取れるはずがない。

収容されたばかりの新入りや、身体の弱った年配者の中には、労働中に意識を失って倒れる者もいた。

疲れ果てて倒れようと、当然病院に連れていってもらえることはなかった。

一応収容所にも、診療所はある。

だが、その実態は「診療所」という看板を掲げただけの、粗末な小屋でしかない。

病人や怪我人は、診療所の床にムシロを敷いただけの「ベッド」に寝かされ、放置されているだけだ。

まともな医療行為など、望むべくもない。

そもそも、薬も注射器もないのだ。

労働中に事故をして、身体から血を流していたとしても…使い古したぼろ布みたいな包帯を巻かれるだけ。

そんな不衛生極まりない診療所に入れられた患者達は、その大半が、生きて出てくることは出来なかった。

だから皆、どんなに疲れても、辛くても、何とか正気を保って労働に従事した。

診療所に送られたら、死んだも同じだから。

それでも農作業の労働を課された囚人達の死亡率は、他の労働を課された囚人達よりも、ずっと高かった。

農作業以外にも、収容所にはたくさんの仕事があった。

私は収容所では古株の方で、基本的には古株になるほど、農作業から外され、もう少し楽な労働をやらされた。

従って私も、収容所の基準で言えば、多少楽な仕事をさせてもらえた。

収容所には様々な種類の労働がある。

収容所の道路を舗装する仕事、囚人の住居となる小屋を建てる仕事、酒や煙草を製造する工場での仕事、食糧庫や備品庫の管理の仕事、収容所の食堂で食事を作る仕事、収容所の農場で収穫した綿花を加工し、綿織物を作る仕事…。

私のような女性は主に、工場での仕事や、食堂での仕事など、食べ物に関わる仕事を任されることが多かった。

または、綿工業の仕事のどちらか。

綿工業の仕事に回されるのは、多少学歴のある女性が多かった。

私のように、まともに学校にも通わず、収容所での生活しか知らない女は、食べ物に関わる仕事をやらされた。

農作業に比べればまだマシではあるが、こちらの作業も大変だった。

収容所では、女性だからと言って、労働が少なくなることはなかった。

聞いたところによると、綿工場で働く者は、5~6人のグループに分けられ、グループごとに毎日過酷なノルマを与えられ、それをクリアするまで、誰も帰らせてもらえないとか。

その為、グループのうち、誰か一人でも足を引っ張る者がいたら、他のメンバーに死ぬほど責められた。

自分がノルマを達成出来ないだけなら、それは自分の責任だ。

しかし、グループの仲間に迷惑をかけると来たら、必死にならざるを得ないという訳だ。