「まさか静麗(ジンリー)まで亡くなるとは……、これで三人目ですか」

 後宮で、寝ている女性がそのまま亡くなってしまう事案が連続して発生します。しかし、事件性が無く、毒を使われた形跡もありませんでした。

 後宮の管理を任されている桜綾(ヨウリン)がシェンリュの元へ相談に来ました。ヨウリンは先代の皇帝が健在だった時代からずっとこの後宮にいます。歳はすでに四十を超えており、本来であれば子供のいないヨウリンは後宮から去らなければならないところを、トウミ宰相の一存で残り、後宮の管理を任されていました。

「後宮の女性たちの間では、彼女たちは呪いによって殺されたのではないかと噂になっています。実は、ジンリーを確認するために彼女の部屋に入った女性も意識を失ってしまったのです。このままでは、私たちは呪いに怯えて暮らすことになってしまいます。そこで、シェンリュ先生に調査をお願いしたいのです」

「彼女を確認するために部屋に入った女性も意識を失ったのですか?」

「ええ、幸い、意識を失った女性は入口のすぐ近くで倒れたため、すぐにもう一人の女性に助け出されて意識を取り戻し、大事には至りませんでしたが――」

 シェンリュはそこに違和感を感じています。そして、呪いではなく、意識を失わせるなんらかの現象が、その部屋に起きていたのだろうと考えていました。

「わかりました。まずは亡くなったジンリーの身体を調べさせてもらいます。いいですね?」

「もちろんです。ここだけの話ですが、亡くなっている女性たちは、最近ズーハオ将軍から懇意にされていて、彼と関係を持ったと噂されていたのです。将軍と何か関係があるのでしょうか?」

「さあ? 私は宦官ですので、そういうことには疎いので。すいません」

 シェンリュは、ヨウリンがトウミ宰相と親密に繋がっていることを知っていたので、彼女に余計なことを言わないように、適当に誤魔化して返答しました。

 ジンリーの遺体は、すでに彼女の部屋から運び出されて別の場所に安置されていました。シェンリュはヨウリンとその場所に行き、ジンリーの遺体を調べ始めます。

 ジンリーは二十代後半の女性でした。後宮に入るには年齢が高いのですが、これは、すでに結婚していたジンリーを気に入ったズーハオ将軍が彼女を無理矢理後宮に連れ込んでしまったからです。

(なるほど、歳の割には顔が幼いな。それでいて、背が高く、胸も大きい。ズーハオに気に入られるわけだ)

 ジンリーはこの国の人としては珍しく背が高い女性で、ふくよかな身体つきをしています。すでに亡くなっているにも関わらず、宦官であるシェンリュの目にも、その裸体は魅力的に映ります。シェンリュは彼女の身体を一通り確認したが、傷などは特に見当たりませんでした。

(これは――。なるほど、そういうことか)

「ヨウリンさん、ジンリーさんの身体に傷などはありませんでした。ただ……」

「ただ? 何か気になることがあるのですか?」
 
「ええ。呪いのせいかどうかはわかりませんが、彼女は呼吸が苦しくなって死んだようです」

「つまり、息が出来なくなったと?」

「そのようです。ジンリーさんの指先を見てください」

 シェンリュは、ジンリーの指を手で持ち上げてヨウリンに見せます。

「指の先が膨れていますね」
 
「ええ、指が太鼓のバチのようになっています。これはバチ指といって、息が出来なくなった人間に特有に現れる症状なのです。彼女は何らかの原因で呼吸が出来なくなったのだと思います」

 シェンリュはジンリーの遺体を調べていくうちに、腫れた指先を見て、彼女が酸欠で無くなっていることに気づきました。

(間違いなく彼女の死因は酸素欠乏によるものだ。そして、ジンリーを確認しに行った女性が意識を失ったことを考えると、何らかの原因で部屋が酸欠の状態になっていた可能性が高い)

「ヨウリンさん、一度ジンリーさんの部屋を詳しく確認させてもらってもよろしいでしょうか? 何かわかるかもしれません」

「私は構いませんが、気をつけてくださいよ。あなたまで呪われてしまったら、この後宮は大変なことになってしまいますから」

「ご心配ありがとうございます。気をつけて調べることにします」

 診療所へと戻ったシェンリュは、見習いのメイリンを呼び出します。

「メイリン、仕事ですよ。今から私と一緒にジンリーさんの部屋を調べに行きましょう」

「はーい。今出かける準備をします」

 メイリンは身体を洗っていたようで、麻の布で身体を拭きながらシェンリュの元へやってきたので、彼は目のやり場に困ってしまいました。

「メイリン、あなたは女の子なんですから、もっと恥じらいを持ちなさい」

「先生になら、見られても全然大丈夫です。むしろ、見て……」

「駄目です、メイリン!」

 シェンリュは珍しく、強い口調でメイリンを叱りつけます。

「はい先生、気をつけます!」

 メイリンは、慌てて服を着始めました。

(先生、なんであんなに怒ったんだろう? 私の身体なんて子供みたいで、なんの魅力もないのに……)

 メイリンは、シェンリュが怒った理由が理解できませんでした。

 シェンリュは、メイリンと一緒にジンリーの部屋を調べることにしました。彼女の部屋は、普段シェンリュたちがいる西宮ではなく、北宮にあります。

「私たちのいる西宮とは違って北宮は内装が豪華ですね。高貴な雰囲気がします」

「北宮は本来は皇帝の妃となった女性が暮らす場所ですからね。今はまだ皇帝が若いので、妃以外の女性が暮らしていますけど」

「ミオンはこの北宮に住んでいるんです。うらやましいなあ」

「仕方ありません。私たちはこの後宮では裏方の存在なんですから」

 話をしていた二人は、ジンリーの部屋の入口で立ち止まりました。

「ここがジンリーさんの部屋です。入口の扉が開いているので大丈夫だと思いますが、念のため、部屋に入る前に安全かどうか確認しますよ」

 シェンリュは、駆除するために後宮内で捕まえていたネズミを籠から取り出して、部屋の中に静かに放ちました。

 ネズミは、部屋の中を元気に駆けずり回っています。

「どうやら、大丈夫なようですね。それでは中に入りましょうか」

 ジンリーの部屋はシェンリュの診療所よりも広く、木製の豪華な家具が並んでいます。

「へえ、こんなにすごい細工が施されている家具があるなんて。やっぱり先生の診療所とは大違いですね」

「私は物にこだわりが無いんです。こんな細工が無くても、実用性があればそれで十分なんですよ」

「わかっています。私は、そんな先生が大好きです」

 メイリンはシェンリュの方を振り向くと、にっこりと微笑みました。

「あれ、何かが落ちてる。先生、これ、なんですか?」

 メイリンは化粧台の下に落ちていた白い石のかけらを拾って、シェンリュに見せました。

「これは……。お手柄ですメイリン。あなたのおかげで、この呪いの正体がわかりました」

「本当ですか、先生?」

「ええ、今からヨウリンさんにお願いして、後宮内の全ての部屋を確認させてもらいましょう。特に、次に狙われる可能性の高い女性たちのいる北宮は念入りに調査しましょう。次の犠牲者が出る前に、事件を解決しないといけませんからね」

 シェンリュはヨウリンの許可を得て、後宮内の全ての部屋を調査することにしました。二人はまず、北宮の部屋の内部を、一部屋ずつ確認していきます。

「先生、これ……」

「ええ、ジンリーさんの部屋に落ちていたものと同じ、石灰岩という白い石の塊です。やはり人間の仕業でしたね」

 二人は、藍華(ランファ)という女性の部屋の化粧台の下に、ジンリーの部屋に落ちていた石灰岩のかけらと同じような白い岩石が隠されているのを発見しました。

「メイリン、次に狙われるのはこの部屋のランファさんで間違いないです。ヨウリンさんの許可をもらって、今晩、彼女の部屋の前で張り込みをしましょう。必ず犯人はここを訪れるはずですからね」

 深夜、シェンリュとメイリンは、ランファの部屋の入口近くに身を潜めて、張り込みをしています。二人が隠れている廊下には、ひんやりとした風が流れていました。

「ううー、先生、さすがに夜は冷えますねー」

「上着を着なさい、メイリン。風邪を引きますよ」

 シェンリュはカバンから上着を取り出すと、メイリンの身体にかけてあげました。

「先生、ありがとうございます」

 うれしくなったメイリンは後ろからシェンリュに抱きつきます。

「こらこら、浮かれるのはまだ早いです。気を引き締めて待ちましょうね」

 シェンリュがメイリンの頭を優しくポンポンと叩きます。

「はーい」

 メイリンはうれしい気持ちを抑えきれずに、甘い声で返事をしました。

 夜の後宮はロウソクの火が唯一の灯りです。後宮の廊下は薄暗いため、彼らは容易に隠れることができました。しかし、二人が目視出来る範囲は彼らから手が届くくらい近い場所だけです。そのため、二人は聞き耳を立てて、足音を聞き逃さないように集中していました。

「周囲を明るくするためにロウソクを使うと、私たちの存在を犯人に伝えてしまいます。闇に目が慣れてきましたが、やはり遠くを確認することは出来ませんので、目で見て確認することは難しいでしょうね。とりあえず、耳で音を聞くことに専念しましょう」

「わかりました」

 トン、トン、トン、トン。

 しばらくして、廊下の奥から二人のいる方へ足音が近づいてきます。

「先生、やっぱりきましたね」

「なるべく足音が響かないように慎重に歩いています。警戒しているようですね」

 足音は徐々にはっきりと聞こえるようになります。そして、ランファの部屋の入口に、一人の女性らしき人物が現れました。

「そんな、嘘だよね?」

 メイリンは、自分の感覚を信じたくありませんでした。
 その人物から、自分のよく知る匂いを感じ取ったからです。それは、メイリンがいつも使っている石鹸と同じ匂いでした。

 シェンリュが火打石と木屑を使って持っていたロウソクに火をつけます。その灯りに照らされて、女性らしき人の顔がはっきりと見えた時、メイリンは、自分がもっともそうなって欲しくなかった事実を受け入れられずに、思わず吐きそうになりました。
 
 入口に立っていたのはミオンでした。

「こんばんは、ミオン。そこで何をしているのですか?」

 シェンリュはミオンを刺激しないように、優しそうな声色を使ってミオンに話しかけます。

 ミオンは突然シェンリュに声をかけられたことに驚きましたが、すぐに冷静になって返答します。

「こんばんは、シェンリュさん。メイリンもいるのね。私、トイレに行きたかったんだけど、寝ぼけていたみたい。部屋を間違えてしまったわ。先生たちこそ、そこで何をしているのですか?」

 ミオンは足をモジモジとくねらせて、トイレに行きたいそぶりを見せています。

「しらばっくれてもダメですよミオン。私たちはここに犯人が来るのを待っていたんですから」

 シェンリュは優しかった声色を変えて、いつも通りの口調でミオンに話しかけました。

「犯人って? 何のことなんです? 私には何が何だかさっぱりわからないです」

 ミオンは相変わらず足を動かしていましたが、冷静な口調でシェンリュに返答します。

「その手に持っているものは酸が入った瓶ですね? それを何に使うんですか?」

 その言葉を聞いた瞬間、ミオンの顔が真っ青になりました。

「何を言っているんですか先生。この瓶の中身はただの水です。トイレの後、手を洗うのに使おうと思って持ってきただけです」

 それまでとは違い、明らかに焦っているような口調でミオンが答えます。

「それなら今すぐ私たちの前でその水を飲んでみせてください。出来ないでしょう?」

「それは……」

 ミオンは言葉に詰まってしまいました。

「そんな、ミオンちゃん。どうして?」

 メイリンは、いまだに現実を受け入れていない様子です。

 一連の事件の犯人はミオンでした。彼女は、ズーハオ将軍に後宮に連れてこられてから、たくましい肉体と圧倒的な強さを持つ彼に心酔して、心から彼を愛していました。そして、彼が自分以外の女性の元へ向かい関係を持つことに嫉妬していたのです。
 
 そのため、彼女はズーハオが関係を持った女性たちを酸欠状態にして、殺害していました。

 シェンリュは今回のミオンの手口を次のように考察しました。
 まず、標的の女性の部屋に行き、目立たない場所に石灰岩を隠しておきます。深夜、ターゲットの女性が寝静まったあとに、再びその女性の部屋に行き、瓶に入れた酸性の液体を石灰岩に振りかけます。石灰岩に酸性の液体がかかると、二酸化炭素が発生します。そして標的を確実に殺害するために、部屋の中の扉を全て閉めてから退出します。部屋中に二酸化炭素が充満して高い濃度の二酸化炭素を吸った女性は、数分で意識を失って、やがて呼吸が止まって死に至るのです。

「ミオン。実は私も証明のために、酸を持ってきているのですよ」

 シェンリュはミオンに、自身が持ってきた酸の入った瓶を見せます。
 
 そしてシェンリュは、現場を押さえられてもしらばっくれているミオンを自白させるために、検証を行うことにしました。彼は部屋の中央にロウソクを置いて照らすと、化粧台の下に隠されていた石灰岩をロウソクの脇まで移動します。

「これから私がこの石に酸をかけます。二人は部屋の外にいてください。もちろん、危険なので私もすぐに部屋の外へと出ます」

 シェンリュは、二人を部屋の外に出してから、毒が発生することを証明するために石灰岩に酸をかけました。
 石灰岩にかかった液体が、シュワシュワと音を立てながら激しく泡を発生させています。
 シェンリュは素早く部屋から出ると、駆除をするために捕獲していたもう一匹のネズミを籠から取り出しました。

「これは私が駆除するために捕獲したネズミです。この部屋に毒があるかどうか、このネズミを使って確かめてみましょう」
 
 シェンリュは、部屋の中にネズミを放り投げます。しばらくすると、部屋を照らすためにシェンリュが置いていたロウソクの火が消えて、ネズミは動かなくなりました。

「これでこの部屋の中に毒が発生したことが証明されました。もう言い逃れできませんよ、ミオン」

 シェンリュは、ミオンの目をまっすぐに見据えます。

「あはははは、やっぱりシェンリュ先生はすごいねえ」

 突然、ミオンが笑い出しました。
 
「あはは、ばれちゃったよ。上手くやったつもりだったのになあ」

「ねえ、ミオン。どうして? どうしてこんなことをしたの?」

 メイリンは、涙が溢れるのを必死にこらえながら問いかけます。

「ふふ、私のお腹の中にはねえ、ズーハオ様から授かった大切な子供がいるの。だから、これからもいっぱいいっぱい私はズーハオ様に愛してもらう予定なの。それなのに、私に子供が出来てズーハオ様と愛し合えない期間に、あの女たちは私のズーハオ様をたぶらかしたのよ。許せない。そんなの絶対許せないよ。だから殺してあげたの」

 ミオンは、お腹を愛おしそうにさすりながら、狂気に満ちた表情で答えました。

「ねえ知ってる? 私が使った毒って、すぐに意識が飛んで、苦しまずに死ねるんだって。気持ちよく死なせてあげたんだから、私に感謝してほしいわ」

「そんな……。そんな理由であの人たちを殺したの?」

「メイリンは何も知らないだろうけど、ここにいる女性たちは、みんなズーハオ様のおもちゃにされるために集められたのよ。私たちおもちゃに自由に生きる権利なんてないの!」

 ミオンは、メイリンを睨みつけながら叫びます。

「あなたも彼のおもちゃだって自覚があるのね」

「認めたくはないけどね。でも、だからこそ、このお腹の中の子が必要なの。だって、この子がいれば、私はズーハオ様の特別な存在になれるんだもの。だから、あいつらは邪魔だったの。私よりずっと年増のババァのくせに、私と同じ存在になるなんて、許せないじゃない!」

「ズーハオ将軍は私と同じ宦官です。残念ですが、去勢している彼と愛し合っても子供は出来ません。私は以前彼の身体を確認していますから、彼が間違いなく去勢しているのを知っています。ミオン、あなたは自分のお腹の中に子供がいると思い込んでいるだけなんです」

 シェンリュはミオンの目を見据えたまま、諭すように説明します。

「嘘だ。私のお腹の中で、この子は今も動いているのよ! それに、毎月出てくる血だって出なくなった。子供が出来たら、血が出なくなるんでしょ!」

 激昂したミオンは、服をまくりあげ、自身のお腹を指差しながら叫びました。

「残念ですが……思い込みが激しいと、自分の身体が子供が出来たと勘違いしてそういうことが起きてしまうんです。ミオン、あなたの子供が欲しいという強い気持ちが、あなたの身体を勘違いさせてしまった。身体が急激に成長したのもそのためです」

「嘘だ、嘘だ、嘘だ! ズーハオ様は私をたくさん愛してくれたんだ! そんなはずはない!」

「去勢されていても、肉体の関係を持つことは可能なのですよ。ですが、決して子供は生まれない。これは歴史が証明している事実なのです。宦官と関係を持った女性から子供が生まれたことはありません」

「嘘だ嘘だ嘘だあー! 私は……、私はおもちゃなんかじゃない! 私はズーハオ様の特別な存在なんだあぁぁ!」

 錯乱したミオンが、シェンリュに襲いかかります。

「手荒な真似はしたくなかったのですが、仕方ありませんね」

 シェンリュは、素早くミオンの後ろに回り込みました。

「えっ」

 ミオンは素早く動くシェンリュを認識することが出来ません。彼が突然目の前からいなくなったので、思わず声をあげました。

「しばらくの間、大人しくしてもらいますよ」

 シェンリュは背後から素早くミオンの首に腕を回すと、そのまま彼女の首を絞めて意識を失わせました。

「大丈夫、気を失わせただけです。このまま意識が回復するまで様子を見ましょう」

 シェンリュは気を失ったミオンをゆっくりと地面に寝かせてから、嘔吐して喉が詰まらないように、身体を横向きにします。

「わかりました。でも先生、どうしてそんな動きが出来るんですか? あの強いミオンがまったく反応出来ていませんでした」

「メイリンは、以前私が人間の身体の中には気が流れていると言ったのを覚えていますか?」

「はい。気というのは、私たちの体内を流れている、元気の源なんですよね?」

「そうです。ちゃんと覚えていてくれましたね。私はその気の流れを調節したんです。自分の気を集中させて、一時的に身体能力を向上させたんですよ」

「へえ、気の流れをコントロールすると、そんなことが出来るんですね」

「そうです。今回、私は地面を蹴る寸前で足に気を集中させました。そうすることで、ミオンが反応出来ない速さで移動できたのです。気をコントロールすると、他にもいろんなことが出来るようになります。ミオンにはまだ早いと思って教えていませんでしたが、やってみたいですか?」

「やってみたいです。先生、後で気の使い方を教えてくださいね」

「わかりました。さて、もう少しするとミオンが目を覚まします。念のため意識が戻る前に縄で身体を縛っておきましょうか」

「はい。とりあえず手と足を縛りますね」

 しばらくして、ミオンが意識を取り戻しました。彼女の手足は動かないように、麻で出来たロープで縛られています。

「…………」

 意識を取り戻したミオンは、何もしゃべりませんでした。

「心配しなくていいですよ、ミオン。私は薬師で、犯罪者を罰する役人ではないですから、今のところ、あなたのことをどうこう言ったり、何かするつもりはありません」

 シェンリュは、横になっているミオンの身体を抱き起こすと、最初にミオンに声をかけた時と同じように、優しい声で彼女に話しかけました。

(この時代では、突然の死が当たり前のようにやってくる。死と常に隣り合わせで、少しでも運が悪ければ命を落とすこの世界で、彼女にいくら命の大切さを説いても、わかりようがないからね)

「今のところ?」

 そこまでシェンリュの話を聞いて、初めて、ミオンがしゃべりました。

「私たちはとある計画を実現させるために準備をしています。出来れば、ミオン、あなたにもその計画に参加してもらいたいのです。突然こんなことを言われても何のことかわからないでしょうから、まずは私の話を聞いて、それからどうするか決めてください」

 シェンリュはヨウリンに、今回の事件がミオンの犯行だということを、黙っておくことにしました。その代わりに、彼女を、自身の計画に協力させることに決めます。
 そして、シェンリュはミオンに、計画の一部始終を話しました。

「なるほど。あなたたち、そんなとんでもないことを考えていたのね」

「それでは、もう一度聞きます。ミオン、あなたは私たちに協力してくれますか?」

「私は強い人が好きなの。シェンリュ先生、あなたは多分ズーハオ将軍よりずっと強いわ。これでも私、自分の強さには結構自信があったのよ? でも、先生はそんな私を一瞬で倒した。先生に首を絞められて落とされた時、私、目が覚めたの。今はとても頭の中がハッキリしているわ。だから、計画には協力します。だから、これからもそばにいさせてください!」

 ミオンは、顔を赤らめながらシェンリュに話しかけます。

「この計画には君の協力が必要なんです。よろしく頼みますよ、ミオン」

 シェンリュは、ミオンとガッチリと握手しました。

(あちゃー。ミオンったら、完全にズーハオ将軍からシェンリュ先生に乗り換える気まんまんだよー。私もうかうかしていられないな。だって、私は先生のことが……)

 メイリンは、もどかしい気持ちでいっぱいになっていました。

(そういえば先生、去勢されていても、肉体関係を持てるって言ってたなあ。前に聞いた時ははぐらかされてしまったけど、私もやろうと思えば先生とそういうことが出来るってことか)

 メイリンは、エッチな妄想をしてしまい、顔が真っ赤になってしまいます。

 シェンリュは、ミオンと握手をしながら、メイリンとはまったく別のことを考えています。

(この世界の人々は、理不尽な理由で亡くなっている。それは、この後宮の人々も例外では無い。ここでは、命の価値は限りなく低い。それでも私には、守りたいものがある。だから私は……)

 彼は、今回ミオンが使った二酸化炭素を発生させるトリックを使って、とある人物を暗殺できないか、検討していました。

「それでミオン。あなたはどうやって今回のことを思いついたのですか?」

「私の部屋の入口に手紙が置いてあったんです。その手紙の中に、ズーハオ将軍が他の女性と愛し合っていることと、今回のやり方が詳細に書いてあったの」

「誰が送ってきたか、心当たりはあるのですか?」

「いいえ。差出人の名前も書いてなかったから」

「なるほど、あなたを焚き付けた人物がいたわけですね」

(やはり、裏で何者かが手を引いていたか。これは厄介だ。ミオンのように、上手く味方に引き込めればいいのだが……)

 華の国の薬師ジェルンは、華の王宮の一室で、仮面をつけた女性と密談していました。

「この間話していたシェンリュという薬師にちょっとしたお遊びを仕掛けて試してみましたが、あっという間に問題を解決されてしまいました。ふふ、あなたよりも有能かもしれませんよ」

「それは厄介だな。私の計画に支障をきたすと、陛下を怒らせてしまう。それだけは避けたい」

「わかっています。次は私が手を打ちましょう」

「ああ、任せるよ。あなたは陸で自由に動けるからね」

 女性は仮面を外しました。仮面の下の顔は整った顔をしていますが、どこか人ではないような、そんな人間離れした印象を与える顔をしています。

「あなたに私の顔を見せました。この意味がわかりますね?」

「え……?」

「ふふ、あなたを信頼しているということですよ。それでは、陸に行ってきます」

(もちろん、あなたに信頼してもらうための方便です。あなたのことなど、いつでも始末できるから、私は顔を晒しても何も問題無いのですよ。さて、陸に行ったら薬師シェンリュの能力をもう少し詳しく見極めておく必要があります。それ次第で仲間に引き入れるか、始末するかを判断しましょう)

 女性は、仮面を付け直すと部屋を後にしました。そして、誰もいない部屋に向かいます。

「では、陸へと行きますか。まったく、やることが多くて困りますね。猫の手でも借りたいくらいですよ」

 彼女は大型の鏡の前に立つと、鏡に手を触れました。その瞬間、鏡の内側が虹色に輝き出します。そのまま、女性は、虹色に光る鏡の中へと消えていきました。

 仮面の女性が部屋を後にしてから、ジェルンは茶を淹れてテーブルに置きました。そのお茶を飲みながら、彼は物思いにふけっています。

「陛下は陸への侵攻を決断された。侵攻が始まる前に、我が軍が確実に勝利出来るように、陸の国を弱体化しなくてはならないのだ。この侵攻に失敗すれば、華の国は崩壊してしまうのだからな」

 このところ、陸や華のある大陸では、気温がどんどんと低下していました。大陸全体で寒冷化が進行していたのです。陸は、もともと温暖な地域であるため、寒冷化で気温が下がっても、住民の生活や農作物への影響はそこまで大きくはありません。
 しかし、遊牧民の国である華は事情が違います。このところの寒冷化で、もともと寒冷だった華の土地はさらに寒くなり、住民たちは命の危険に晒されていました。彼らにとって、厳しくなる寒さに加えて、家畜の飼育に必要不可欠な牧草が育たなくなりつつあることが致命的でした。

 そのため、華の国の人々は寒冷化によって、日常生活が成り立たなくなる状況まで追い詰められています。華の皇帝はその状況を何とかするために、南にある陸国への侵攻を決断したのです。

「あとは、彼女がどこまで信用できるかだ。陸の上層部とも繋がっているみたいだが――。素顔を見せて私の信頼を得ようとしたようだが、私には関係ない。彼女が裏切りそうな動きを見せれば処分する。それだけのこと。あくまでこの計画を実行しているのは私だ。彼女は、私の手の中にある駒の一つにすぎないのだから。それを忘れるな」

 女性の底知れぬ雰囲気に無意識に恐怖を覚えていたジェルンは、自分を奮い立たせるように独り言をつぶやきました。