僕(山本和也)は自殺を考えていた。

 なぜ生まれてきたのか?

 なぜ生きないといけないのか?

 そんな疑問が高校を入学した頃から腹の中にでき、やがてそれは空気が入っていく風船みたいに大きくなっていった。

 高二の5月半ば。僕は屋上に来ていた。

 今日死のうと一週間前から決めていた。

 別に、いじめられているわけでも、体が不自由なわけでもない。ただ、生きる意味や生きる楽しさが見出せないだけだ。

 「そんなことで死ぬな!」と誰かの怒声が聞こえてきそうだが、じゃ死んでもいい理由ってなんだ?

 満場一致で死んでもいいと言える理由なんてあるのだろうか?

 いいや。ない。

 だから、どんな理由であろうと死んでもいい。

 そう思えることで僕はいつも楽になれた。

 そして僕は今日死ぬ。

 僕はもう疲れた。何に?生きることに。

 そして、屋上の柵を両手で握り、身を乗り出して下を見る。

 結構高い。怖い、、、。

 でも、一瞬だ。大丈夫さ。

 人によっては落ちている間に気絶するって言うし。

 うん。よし。

 そして、飛び降りようと足をコンクリートから放した時に、屋上のドアが開く音がした。

 ドアの方へ身を乗り出したままみる。

 そこには一人のクラスメイトがこちらを見ていた。

 加藤美咲。

 能天気で、いつも空気の読めない発言ばかりしている。僕は正直、彼女のことが苦手だった。

 その、何も考えないで生きていける精神、悩みなんてないといった笑顔。

 全てが苦手だった。

 こっちは色々悩んでいるというのに。

 友達と話す時は、相手を不快にさせないよう必死になって気を遣い、将来のことを考えて不安になる夜が数えきれないほどあるというのに。

 彼女にはそれがない。多分、、、、。

 「屋上は風が気持ちいいよね〜」

 彼女が風に目を細めながら言った。

 ほら。僕が生きることに悩んで死のうとしているなんて思わないんだ。

 いや、普通思わないか。

 「山本君はどうして屋上に?」

 僕は笑顔を貼り付けて対応する。

 それが例え苦手な奴でも。

 相手を不快にさせないように。

 「屋上って行ったことなかったから興味本位で来てみた。そういう、美咲さんは?」

 死のうとして来てました、とは言えない。

 よかった。違和感なく答えられた。

 「そうなんだ〜。美咲〜?美咲は落ち着くから〜」

 そう言って屋上の地面に座った。

 彼女はいつも屋上に来ているのだろうか?

 そんな疑問が頭をもたげた。

 僕はその疑問を彼女にぶつける。

 「美咲さんはいつも屋上に?」

 地面に座り、さっそく携帯ゲームを始めた彼女は顔を上げて答える。

 「ん、まあまぁねぇ〜」

 よくわからない返答が返ってきた。

 さすが能天気な奴。

 この感じで飛び降りるわけにはいかない。

 僕は、昼休みに死ねなかったことにガッカリしつつ、今日の「いつ」死のうか考えた。

 放課後また来て死のうか。

 うん。それがいい。

 あんまり、早く来ると屋上の下に下校中の生徒がいるだろうから、どこかで時間をつぶしてから屋上に来よう。そう頭の中で作戦会議をしている時だった。

 彼女が急に声を出した。

 「あっ。そうだ!今日の放課後、ご飯食べに行こうよ!」

 やっぱり、空気が読めない奴だ。

 僕が作戦会議をしていた時間を返してほしい。

 僕はどうするか考える。

 今日死のうと決めていた。しかも、今日死ぬのだから彼女を不快にさせないとか、そう言うことを考えなくていい。そうだ。断ろう。

 しかし僕の口から出た言葉は心とは裏腹だった。

 「お〜。いいね。どこ行くの?」

 なんでだろう。断るって言ったじゃんか。

 死のうと、ここまで決意しているのに、僕はまだ相手を不快にさせないように、相手に合わせている。

 いいや、本当は死ぬ気なんてないのだろうか。

 やはり、長年そういう風に生きてきたのだから、いきなり性格を変えることはできないのかもしれない。 「おいしい焼き肉屋さんがあるんだ〜。しかも食べ放題!」

 「へ〜。それはいいね。行こうよ」

 「じゃ〜決まり〜」

 放課後一緒に行こうと言われたが、二人で教室で話すと、色々面倒なことになりそうなので、現地集合にした。

 そう。僕と彼女は教室全く話さない。

 というか、今まで話したことがない。

 今日が初めてだ。

 それは、僕と彼女とでは教室の生活様式が違うからだ。僕はクラスの数人と話す程度で目立たない。

 しかし、彼女は持ち前の能天気さや、うるささで男女問わずいじられている。

 いわゆる、目立つ存在だった。

 だから、彼女が屋上に一人でいることが不思議でならなかった。

 落ち着く。彼女はそう言った。

 屋上にいて落ち着くという感想が出てくるのは僕のような目立たない人種だけだと思っていた。

 その後は会話らしい会話は特にしなかった。

 そして昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。

 放課後。

 時刻は十九時。

僕らは学校の最寄り駅から北に三駅ほど移動し、そこから徒歩五分の焼き肉屋にいた。

 「おいしい〜」

 いい感じの焼き色をつけた肉を頬張りながら彼女がいった。

 正直女の子と二人きりで食事をしたことがないため、緊張からか、この空間が居心地悪く感じた。

 だから、鈍感な彼女にもそれが伝わったのか彼女が唐突にこんな質問をしてきた。

 「人生で一番大切なことってなんだと思う〜?」

 「、、、、お金」

 「ぶ〜。健康だよ!それで健康のためには、しっかり食べることだよ!ほら、食べな、食べなよ〜」

 僕は彼女の視線を浴びながら肉を口に運んだ。

 「確かにおいしい」

 「でしょ〜。美咲についてきて正解でしょ〜」

 「、、、、」

 図星だった。

 食べ放題だから、正直安くて美味しくない肉なのかと思ったら違った。

 うまい。普通にうまい。

 僕は食事中、なぜ彼女が僕を食事に誘ったのか考えた。結局、能天気で何も考えていない彼女のことだから、たまたま昼休みに焼き肉が食べたくなり、一人だと嫌だから目の前にいた僕を誘った。そんなことだと結論付けた。

 能天気なやつの思考など考えるだけ無駄だ。

 彼女は次々と肉を頼んだ。

 食べ放題、二時間、二千円。

 これが安いのかどうか食べ放題に疎い僕にはわからなかった。

 食べ放題に疎いと言うのは僕がお金持ちで、食べ放題なんか頼まないということではない。

 そもそも外食しないのだ。

 彼女にそれを訊いたら「めっちゃ。安い〜」とのことだ。めっちゃ、安いらしい。

 焼き肉屋では、彼女が僕にどうでもいい質問をぶつけてきた。僕も社交辞令で彼女が僕にしてきた質問を質問した。

 質問されたことに答え、また同じ質問を彼女にし、それに彼女が答えるということを繰り返して、あっという間に二時間が過ぎた。

 会計をそれぞれで済まし、外に出る。

 もうすぐ夏だというのに、まだ夜は肌寒かった。

 暗くなった夜の道を二人並んで歩く。

 なんだか新鮮だった。

 理由は普段女子と関わらないからだ。

 隣には、いつも誰もいないか、まれに男子がいるかの二択しかない。

 彼女は歩くという行動も、うるさかった。縁石に乗っかったり、突然立ち止まり植え込みに咲いている花を眺めて「可愛い」と言ったり。

 そんな彼女のうるさい行動を視界の端に捉えつつ、僕らは駅に着いた。

 「山本君どっち〜?」

 「僕は、学校までいつも歩きだから」

 「そうなんだ〜。美咲、ここが最寄りなんだ〜。じゃ〜ここでバイバイだね〜」

 「あー、そう。うん。じゃーまた」

 「明日も昼休み屋上に来てくれる?」

 帰り際、彼女が今日最後の質問をしてきた。

 その質問で気づく。

 そうだ。僕は今日死のうとしていたんだ。

 それで、彼女に話しかけられ、食事に誘われ、今目の前に彼女がいるのだ。

 忘れていた。

 僕は応えに悩んだ。

 僕は迷っていた。

 理由は、僕の心の中の「死にたい」と思う風船が少しだけ萎んでいたからだ。

 僕は数秒の間を空けて「うん。前向きに考えておくよ」と応えた。

 すると彼女は今日一番の笑顔を見せて手を振って帰っていった。

 駅から離れていく彼女の後ろ姿を僕は見えなくなるまで目で追った。

 振り返り改札へと足を運んだ。

 翌日。

 僕はいつもホームルームギリギリに登校している。

 クラスがうるさく、早く登校しても何のメリットもないからだ。

 今日も遅刻ギリギリに教室に入り席につく。

 僕の席は窓際の一番後ろ。

 名字が山本なので名字が山本なので、小学生の頃から名前の順で一番後ろになることがほとんどだった。

 もちろん、今年も名前の順では最後。

 まだ高二の五月で席替えをしておらず、席順が名前の順のままなので席も窓際の一番後ろ。

 席について、間もなく担任が教室に入ってきた。

 今日の流れや、中間試験が近いので勉強しろ、という至極担任らしいこと言い、ホームルームは終了となった。

 それから、一限、英語、二限、数Ⅱ、三限、物理、四限、体育と続き、午前中の授業が過ぎていった。

 そして、例の昼休み。

 僕は、食堂で食事を済ませ、屋上に向かう。

 前向きに考えた結果だ。

 屋上のドアを開けると、彼女がいた。ドアから入って右の隅で携帯をいじっていた。

 彼女は僕に気づくと、笑顔で挨拶してきた。

 「あっ。山本君。こんにちわ~。来てくれたんだ~」

 「どうも。来たけど、確かに落ち着くね」

 うん。僕みたいな人種には本当に落ち着く。

 「でしょ~。山本君は、ゲームする~?」

 携帯に視線を落としたまま彼女がそんな質問をしてきた。

 「あんまりしないかな。美咲さんは?」

 社交辞令で訊く。

 「するよ~。でも、下手くそなんだよね~」

 確かにな、と思った。

 彼女は不器用なのだ。

 勉強はもちろん、先ほどの体育でもミスばかりして、体育教師に怒鳴られているのが、男子の方にまで届いてきていた。

 勉強も運動もダメ。しかも、人間関係も不器用だ。

 教室で見る限り、彼女は空回りしている。

 確かに僕より目立ってはいるが彼女だけ浮いている気がする。

 昨日から、彼女と関わることになった僕は、今日の物理終わりの休み時間、前の席の山口君に彼女について聞いていた。

 すると、どうやら彼女は一年生の頃、今のクラスメイトの一軍にあたる女子にいじめられていたらしい。

 僕は、一年生の頃は彼女と同じクラスではないので、具体的にどのようないじめを受けていたかは知らない。山口君も同じクラスではなかったらしく詳しくは知らないとのことだった。それ以上、彼女について興味もなかったので、彼女についての話題もそれで終了となった。

 とにかく、僕にわかったことは、彼女は痛い奴ということ。

 そして、その痛い奴と昨日から関わることになってしまっているのだ。

「あ~。負けちゃった~」

 何やら、ゲームオーバーのような音が聞こえると同時に彼女の悲嘆な声が漏れた。

 その後も、大音量でゲームをし、時にガッツポーズをしたり、悲しんだりしていた。

 僕はというと、柵に寄りかかりながら、空を見上げて、中間試験について考えたり、彼女との今後の付き合い方について考えたりした。

 しかし、ゲームの音が邪魔で、中々はかどらなかった。

 そして、昼休み終了のチャイムが鳴った。

 その後は、何事もなく一日が終わった。



 彼女と関わることになって、一週間がたった。

 僕は、あれから毎日屋上に通っている。

 別にクラスが同じなので、屋上でしか会えないわけではないのだけれど。でも、教室では話せないので、そういう意味では会っていないようなものかもしれない。尻目には、彼女がお馴染みのゲーム音を出しながら携帯とにらめっこをしていた。

 僕は、明日から始まるウキウキ週末について頭を働かせていた。

 普段ならウキウキなのだが、中間試験が月曜から始まるので恐らくイヤイヤ週末になるだろう。

 ゲームをしていた彼女がふと顔を上げた。

 彼女の視線に気づいた僕は視線の意味を訪ねるという意味を込めて、首を傾げる。

 「ううん。何でもない」

 能天気な奴にはこういうところがある。

 意味もなく他人を凝視するという。

 「あ、そうそう」

 何となく気まずい雰囲気が居心地悪かったので、今日ゲットした彼女に関する噂の真偽を確かめようと彼女に質問する。というのは、彼女はよく購買で買ったパンなどをクラスメイトの男子たちに奪い取られ、食べられてしまっているというのだ。

 また、それを、男子たちは面白がっているとのことだ。

 自分の席に、購買で買ったパンを置いて、お手洗いなどに行っていると、男子たちがそれを勝手にとって食べてしまうらしい。

 それに対し、彼女は「あ~!」とか、「なんで食べるの~」と軽くいうだけで、特に落ち込んでいる様子はないよう。

 僕は普段、教室で昼食をとらないので、全くわからない。

 と、この情報をくれたのは例の山口君。

 あれから、事あるごとに、彼女についての情報を僕に流してくる。

 このことを山口君は、軽いいじめだと推理していた。いじめに軽いも重いもあるのか疑問だが。

 イジリという仮面を被ったいじめ。

 学校生活ではよくある話だ。

 よく、いじめは相手がいじめだと思えばいじめだと定義されている。その理論でいくと、僕がそんなことされたら、それはいじめになるだろう。

 それに僕がそんなことされたら、ぶん殴るけどな。

 あっ、心の中で。

 それか、深夜お寺に行って藁人形に釘を刺すか。

 んー。そしたら、その藁人形が別の藁人形に釘を刺すという負の連鎖が生じてしまう。

 それは、ダメだ。

 やっぱり、殴ろう。心の中で。

 もしかしたら、彼女も心の中で殴っているのかもしれない。

 「そういえば、男子たちにパンを食われているらしいけど、あれ大丈夫なの?」

 彼女は、目を丸くし、それから頬を膨らませた。

 怒っているという意味だろうか。

 「そうそう。あいつらひどいんだから!」

 噂は本当だったらしい。

 そして僕は安堵する。

 理由は、彼女がそこまでそのことについて悩んでいるようには見えなかったからだ。

 よって、いじめではないだろう。

 彼女がそう思ってないからだ。

 確認したわけじゃないけど、顔がそういっている。

 見た感じ、心の中で殴っている様子もない。

 「いつか、美咲、裁判官になってあいつらを裁いてやるんだから~!」

 僕は苦笑する。

 僕も、クラスメイトの男子には辟易していたので是非お願いしたい。

 そして、気づく。

 それは、以前より未来について考えている自分がいるということに。

 一週間前まで自殺しようとしていたのに。

 それは、もしかしたら、彼女のおかげなのかもしれない。と思う二つ目の風船が僕の腹の中にできていた。

 人間は単純なんだなと思った。



 それから時は流れ中間試験も最終日。

 中間試験最終日、最後の教科は物理。それが、あと五分で終わろうとしている。

 中間試験は、月曜日から金曜日の五日間で行われる。なので、今日は金曜日。しかも、二限で終わり。

 なんと最高なのだ。

 今日の午後から土日と、丸二日休める。

 解答も、見直しも、終えた僕は今日の午後から始まる、ウキウキ週末で頭がいっぱいだった。

 どうやら、週末は五月にしては珍しい台風が直撃するらしい。せっかくの、ウキウキ週末はお天気で過ごしたかったが、もともとインドアの僕にはあまり関係のない話だ。

 アウトドアの人には気の毒だが、正直自分がよければそれでいい。

 台風だろうが、ハリケーンだろうが来ればいい。

 しかも、月曜から今日まで雨なんて一ミリも降っていない。本当に直撃するのかも怪しい。

 ともあれ、僕には関係ないことだ。

 そして、チャイムが鳴る。

 よし。やった。

 解答用紙を前席の山口君に渡し、試験監督の先生が、解答用紙の枚数を数える。先生の「よし。終了」という合図と同時に、生徒は一斉に教室から出ていく。

 今、帰宅しようとすると下駄箱や帰り道が混むので、少し自分の席や図書室などに行って時間を潰してから帰ることにしている。

 僕の、テスト最終日ルーティンだ。とりあえず、僕は図書室に向かう。

 我々、二年生の教室は一号館の二階にあり、図書室は二号館にある。つまり、図書室に行くには渡り廊下を渡る必要がある。

 渡り廊下は、二階と一階にあるので、僕は、教室から出て、突き当りにある渡り廊下を目指す。渡り廊下につながるドアを開け、外にでる。

 外は、快晴で雲一つなかった。やはり、天気予報は外れそうだ。外の空気が気持ちよかったので渡り廊下の柵に近づき、下を見る。

 予想通り、昇降口付近は混んでいた。

 すると、渡り廊下のドアが開く音がした。

 きっと二号館に行く人だろう。

 二号館には、図書室や美術室、音楽室などがあるため、文化部の人が部活に行くのだと思って、特に振り向くことはしなかった。

 だから、声を掛けられて驚いた。

 「あ~。いたいた~」

 その、声の主にも驚いた。

 僕は振り向く。

 「やー。美咲さん。どうかした?」

 驚きを隠しつつ返事をする。

 「探したよ~。明日から休みだね~」

 僕の質問には応えず彼女がいう。

 テスト期間中は屋上に行っていないので、彼女との会話は一週間ぶりだった。

 「そうだね。美咲さんは部活?」

 とりあえず、当たり障りない質問をぶつける。

 「ううん~。美咲、部活やってない~。というか、一年の初めの頃にやめちゃった~」

 突然のカミングアウトに少し面食らう。

 しかし、部活も長続きしないのか。

 やっぱり、不器用な奴だ。

 しかも、それを何とも思っていない顔で話すのだからそのメンタルを僕に少し分けてほしいものだ。

 「そうなんだ。じゃ~何するの?」

 彼女も僕の横に並び柵に両手をつき頬杖をし、前を向きなが応える。

 「山本君は~?部活あるの?」

 いや、正確にはこたえていない。

 つまり、僕の質問をまた無視したことになる。

 僕は、自分がした質問を二回も無視されたことに少しムッとしつつ、しかし顔には出さない。

 「僕も部活に所属していないから、何もないよ」

 「じゃ~、お出かけしよう~!」

 食い気味に彼女が言う。

 「お出かけ?どこに行く気?」

 内心動揺したが、顔には出さない。

 そして、彼女はそこそこ有名な遊園地の名前を口にした。

 僕は、そこまでのアクセス方法を知らなかった。

 僕らが住んでいる場所から結構距離があるはずだ。

 「行こうよ!」

 彼女はまだ、こちらを見ない。

 「でも、お金ないしな~」

 ありきたりな断り文句をいう。

 「お金なら心配ないよ~。美咲、バイトしているから~。心配はお金だけでしょ。じゃ~行こうよ。明日、七時にこの前行った焼き肉屋の最寄りの駅前に集合ね!」

 言い終わると同時に、手をヒラつかせて渡り廊下から出ていった。

 僕の返事なんか待たずに。

 しばらく、放心状態でいると、地上に彼女が帰っていくのが見えて我に返る。

 そして、昇降口や教室にはもう人がいなくなっていた。

 とりあえず、帰ろう。



 「おっはよ~。ドダキャンするかと思った~」

 「・・・・」

 いいえ。と言ったら噓になる。

 なぜなら、前日まで行こうと思っていなかったからだ。

 しかし、僕のモットーである相手を不快にさせないというのが、僕の足を動かした。別に彼女が悪いことをしているわけではないし、悪いことを今からするわけでもない。

 ただ遊園地に行くだけ。

 それだけなら、いいと思った。

 それに、山口君の話を聞いているとだんだん彼女が可哀そうに思えてきて、せめて僕だけでも彼女に普通に接しようと思い始めていた。

 自分にもそんな良心があることに驚く。結構冷めた人間だと自己嫌悪に陥ることも少なくないのに。

 もしかしたら思っているほど僕は冷めた人間ではないのかもしれない。

僕は、遊園地までのアクセス方法を彼女に尋ねたがとりあえず電車に乗ろうと言われたのでそれに従う。

 僕らは急行の電車に乗り込み並んで座る。電車は、まだ七時ということもあるのだろうか、さほど混んではいなかった。

 座ると同時に彼女はスマホを取り出し、何やら操作をし始めた。

 例の携帯ゲームなのか、それともアクセス方法を確認しているのか。お馴染みの、ゲーム音が聞こえないので後者かな。

 特にやることがない僕は外の景色をぼ~っと眺める。

 遊園地なんていつぶりだろう。もともと、インドアな僕は休日に外出することは少ない。

 そもそも、遊園地自体、指で数えられるくらいしか行ったことがない。

 ふと、横を見ると彼女は、スマホを胸に抱えたまま目を閉じていた。気持ちよさそうな寝息もかすかに聞こえてくる。

 彼女は目的の駅まで起きることはなかった。

 「―次は終点~終点~」

 電車に揺られること、一時間半。終点にたどり着いた僕らは、電車から降りる。

 この後、どうするのかわからない僕は、先を行く彼女についていく。

 「次は、新幹線に乗るよ~!」

 「新幹線・・・。」

 僕は、あまり遠出が好きじゃない。出掛けるのも近場がいいタイプなのだ。せっかくの休日は体を休めたい。

 新幹線か~。

 その馴染みのない乗り物。

 僕は、新幹線に乗ったことがなかった。

 これは、後からわかったことだが、この時から、僕のヘトヘト週末は始まっていた。

 僕は、渡されたチケットと彼女を交互に見る。

 彼女はへらへらと笑い、チケットはホームの柔らかい風に吹かれていた。



 「お~!観覧車~!やっぱり、観覧車は遊園地のシンボルだ~!」

 いつもの倍以上のテンションではしゃぐ彼女。僕はというと、もうヘトヘトだった。

 あの後、新幹線に乗りさらに一時間半。

 それから、バスに乗り込み三十分。

 そして、バスを降り、徒歩十分、ようやく目的の遊園地が顔を出した。

 入り口でチケットを二枚買い、遊園地に入場する。

 僕は透かさず休憩を申し出る。

 「ちょっと休憩しない?」

 「そうだね~!とりあえずお昼にしようか!」

 僕らは、少し早めの昼食をとるため園内のフードコートに移動する。

 フードコート内のメニューには、「焼きそば」「スパゲッティ」「ソフトクリーム」などがあった。

 とりあえず、空いている席に座る。

 「何食べる~?美咲買ってくるよ~!」

 彼女が言う。

 意外に気が利く。

 こういう場合、普段なら気を遣って、「僕が買いに行くよ」と断るのだが、さすがに今は久しぶりの遠出とありヘトヘトだったので彼女のご厚意に甘える。

 「申し訳ない。ん~。焼きそばで、お願い」

 「いいよ、いいよ。焼きそばね~了解!」

 彼女は笑顔とグッとサインを残し、販売コーナーに向かって行った。

 フードコートの外に視線を移すと、みんな笑顔を貼り付けて歩いていた。

 家族連れ、恋人同士、友達同士・・・・

 僕らはどれに該当するのだろう。

 しいて言えば、友達同士なのか・・・

 そんな曖昧な関係の僕ら。

 そんな、とりとめもないことを考えていると、彼女がトレイを持って戻ってきた。

 「は~い。焼きそば~。」

 トレイには、焼きそばが二つ。

 「どうもありがとう。いくらだった?」

 「いいの!いいの!お金はいいよ!」

 僕は食い下がる。

 「いや、悪いって。本当に払うよ」

 「もう~、意固地だな~。五百円!」

 僕は、五百円を彼女に渡す。

 「いただきます。」

 二人して、焼きそばを食らう。焼きそばに僕は、舌鼓を打った。

 美味い。

 意外とこういうところの料理はおいしいものなんだよな。と心の内で思っていると彼女も同じなようだった。

 「めっちゃ美味しい~!」

 「うん。美味しいよね」

 「美咲、今までの焼きそばの中で一番おいしいかも!」

 「・・・・」

 否定しなかった。

 彼女の発言が大げさだと思わなかったからだ。

 あっという間に焼きそばを食べ終わり、トレイを返却口に戻し、僕らは、いよいよ園内を歩き始める。

 「まずは、あれ!」

 彼女が指さす先には、意味不明なレールの上を高速で走る乗り物があった。

 いわゆる、ジェットコースターだ。

 この遊園地、一番の名物だと新幹線の中でスマホで調べている時に知った。また同時に、乗りたくないと体が悲鳴を上げているのも、新幹線の中で知った。

 「僕は、いいか・・」

 「いくよ!」

 僕の手を勢いよく引っ張り、乗り場まで走る。

 気が付くと、スタッフの人が僕の安全バーを外れないか確認していた。

 ここまで来たら覚悟を決めるしかない。

 僕は、腹をくくった。

 「もう、絶対乗らない・・・・。」

 僕は、膝に両手をつき、下を向いたまま言う。

 「あははは~。めっちゃ面白かったね!おかわり!」

 おかわり?今、おかわりって言った?

 頭いかれてるの・・・・

 「うわ!」

 またも彼女は僕の手を取り乗り場に向かう。

 抵抗しようとしたが、その気力もなかった。

 それから結局、計五回も乗ることになった。

 しかし、人間の体は面白いもので、五回も乗れば、どんなに怖いものでも慣れるらしい。

 五回目なんて、何にも感じず真顔で乗ることができた。

 僕は、週明け病院に行くことを決意する。

 それから、彼女が指さすもの全てについていった。

 「コーヒーカップ乗ろう!」「次は、メリーゴーランド!」「ゴーカートもあるよ!行こ行こ!」と言った具合に。

 僕はもうヘトヘトだった。

そうこうしていると、さすがは遊園地、日は傾き始め、夜が顔を出そうとしていた。

 「そろそろ、帰ろうか~」

 少し疲れたような、日中より幾分かテンションの低い声で彼女が言った。

 きっと遊び疲れたのだろう。

 「うん。そうだね。帰りも大変だな~」

出口まで行き、スタッフに「ありがとうございました!」と笑顔で言われバスの方まで歩く。

 「いや~、めっちゃ楽しかったよね」

 前を向いたまま彼女が言う。

 「僕は、疲れたよ」

 「え~。楽しくなかったの?」

 珍しく寂しそうな顔で彼女が訊く。

 「いや、楽しかったよ・・・でも久しぶりの遠出でさ・・・・」

 そんな顔はずるいよ。

 でも、実際思ったより楽しかった。

 いや、素直に言おう結構楽しかった。

 バス停までは彼女も静かだった。

 僕も遊び疲れ、会話を振るような力は残っていなかった。

 ―ポツポツー

 バス停まで歩き始めて数分、僕の頬を何かが濡らした。

 と思うと、今度は腕に冷たさが走る。

 「雨だ・・・」

 声に出てしまった。

 「本当だ~!」

 さっきの顔はどこへやら、どこか嬉しそうな彼女。

 全く、犬か。犬は雪か。

 そんなのどうでもいい。

 みるみるうちに、雨脚は強くなる。

 「とりあえず走ろう。」

 僕らは走り、バス停までたどり着く。

 すでに、服は湿っている。

 するとバスがタイミングよくバス停に到着した。

 ―プシュー

 炭酸の飲み物を開けた時のような音を立てて、バスの扉が開く。僕らは、恥じらいなど考えず急いでバスに乗り込んだ。

 「濡れちゃった~」

 バスに乗るなり彼女が言った。

バスが目的地である駅前のバス停に着く頃には、雨の強さは増していた。

 台風。

 そんな言葉が頭に浮かんだ。

 バスは、強い雨を切り裂くように走っていく。

 この雨でも、速度を落とすことなく、時間通りにバスは目的のバス停に着く。

 「とりあえず、降りよ!」

 彼女の言葉に従いバスを降りる。

 「うわ」

 「濡れる~濡れる~」

 「とにかく、駅の中に入ろう」

 僕らは急いで駅の中に避難した。

 「すごい雨だな、」 

 空を見上げると、真っ暗の空から無数の矢が落ちて来ているようだった。

 ―ピカッ 

 ―ゴロゴロ!

 「雷だ~!」

 彼女がテンションを上げて言った。

 物凄い音とともにギザギザの光が近くに落ちていくのが見えた。

 これだと嫌な予感がする。

 例えば、運きゅ・・・・

 ―二十時発の〇〇行きの新幹線は、この雨の影響により運休いたします。

 ―繰り返します、二十時・・・

 油断していた。

 ここ最近雨なんて降っていなかったから。

 この状況を彼女はどう思っているのだろうか。 

 隣の彼女を見やる。

 盗み見て、心底驚いた。彼女は笑っているのだ。

 やれやれ。どこまで能天気な奴なんだ。

 「あ~あ。新幹線動かないみたいだね~」

 「そうだね」

 これだと、今日中には動き出さないだろう。

 「どうするの?」

 笑うくらい余裕があるのだ、いい案の一つや二つあるんだろう。期待を込めて訊く。

 「そうだね~。ビジネスホテルにでも泊まろうよ!」 

 何、言ってんだコイツ。ジェットコースターに乗って脳みそがぐちゃぐちゃになったのか。

 でも、この雨だ。

 急いで帰るのはかえって危ない。

 彼女の言う通り、どこかで夜を過ごすのが賢明かもしれない。

 しかし、問題がある。

 それはお金だ。

 日帰りだと思っていたのでホテル代なんて持っていない。

 そもそも、ビジネスホテルが一泊どのくらいの値段をするのかすら知らない。

 というか、空いているのか。 

 「あ~。ホテル、『空席あり』だって」

 何やら、スマホを操作する彼女が一人事のように呟いた。

 「でも、代金とかどうするの?」

 「それは、割り勘しかなくない?」 

 「はい?」

 思ったより大きな声が出てしまった。

 「割り勘って?」

 「ん~?だから一部屋借りて、それを割り勘だよ!」

 正気か、こいつは。

 いくら何でも、一部屋はまずいような・・

 一応確認として訊く。

 「一緒の部屋ってこと?」

 彼女はニヤニヤした顔をする。

 「そうだよ?それか、このまま駅にいるつもり~?」

 いや、駅で一夜はさすがにきついな・・

 しかし、一緒の部屋というのも納得できない。

 「別に、お風呂入って寝るだけでしょ?変に意識しな~い~」

 どうするべきか。空を見上げながら思う。空なんて見えなかったけど。

 そもそもビジネスホテルになんか泊まったことがない。いや、それは僕がお金持ちでリゾートホテルにしか泊まったことしかないということでは決してない。

 ってそんなこと言ってる場合か。

 彼女の言う通り、お風呂に入って、寝るだけだ。変に意識する方がおかしい。

 ホテルも駅近ということだし。

 「予約するよ~?」

 ちょうどいいタイミングで彼女がいった。

 僕は数秒の間を置いて、こう答えた。

 「うん」

 そして、僕らは雨の中をビジネスホテル目指して走り出した。



 確かに、ビジネスホテルは駅から近かった。

 もちろん駅近と知っていたのだけれど、それでも駅から近いと感じた。

 そそくさとチェックインを彼女が済ませ、部屋に向かう。

 住所や携帯番号などの個人情報を尋ねられたり、親に連絡されたりするかと思ったが、そんなことはされず、すぐに部屋のカギであるカードを渡された。この雨で急遽ホテルに泊まる人が増えたことで泊まる部屋が空いてなかったのと、費用削減により部屋はシングルルームになった。

 それを聞かされた時は特に驚きもしなかった。もう来るところまで来たのだ。今更、部屋がシングルだろうとダブルだろうと関係ない。

 ICカードのようなものをドアノブ付近にかざすと、「ピッ」と音がなった。

 施錠できた合図だ。

 二人とも部屋に入る。

 「うわー!結構狭い~」

 部屋に入った彼女の第一声。

 確かに狭かった。

 しかし、ビジネスホテルのシングルルームなのだから、このくらいが妥当だろう。

 「うわー。ユニットバスだ~」 

 入って右手にある扉を彼女が開ける。

 そこには、トイレとお風呂、洗面台があった。

 二人とも荷物という荷物はないが荷物を机の上に置く。

 机の横にベッドが一つ。

 さらにその横に小さいソファーがある。

 僕はソファーで寝よう。

 さーて、順番にシャワーを浴びて寝よう。

 「先、シャワー浴びれば?」

 意識せず、提案する。

 「おーけー」

 彼女は本当に意識してない様子で答えた。

 ちなみに、着替えは浴衣がホテル内に常備されており、それを使用する。

 まさか、ビジネスホテルに浴衣が常備されているとは知らなかった。世の中まだまだ知らないことばかりだ、と思った。

 彼女は机の上にある自分のバックから、何やらポーチを取り出し、浴衣とビニール袋を持ってユニットバスに消えていった。

 手持無沙汰の僕は、部屋に常備されている小さいテレビの電源を入れた。

 適当にリモコンを操作するが、頭の中にテレビの内容なんか一ミリも入ってこなかった。

 頭の中では、今日の今までを回想していた。

 駅前で待ち合わせしたのが遠い昔に思える。

 リモコンは操作したままだ。

 そして、遊園地に行き、焼きそばを食べて・・・・

 今日一日を振り返り、焼きそばを食べているあたりを思い返している途中、僕は眠ってしまった。

 目を覚ますと、彼女が無言で僕の肩を揺らしていた。

 「だいじょうぶ~?」

 「あ、あぁ。だ、大丈夫」

 いきなりの異性の浴衣姿に動揺してしまった。

 早くなる心臓を悟られないよう、僕はお風呂場に向かう。

 お風呂場は、暖かく、洗剤のいい匂いがした。

 とりあえず、服を脱ぎシャワーを出す。

 家のよりだいぶ勢いのあるシャワーのお湯を頭にかける。

 そして、そのお湯が体を濡らす。

 備え付けのシャンプーとボディーソープで頭と体を洗っていく。

 ユニットバスなので湯にはつからず、バスタオルで体を拭く。

 お風呂から出ると、部屋の中は先ほどより暗くなっていた。

 机に、レジ袋が置かれ、彼女はベッドに腰かけ、何やらノートにペンを走らせていた。

 日記かなにかだろう。

 彼女はまだ僕に気づいていない。

 「何、書いてるの?」

 「ん、え!」

 彼女は慌ただしくノートを閉じた。

 彼女にしては珍しく動揺している。

 まー日記を書いているところを他人に見られるというのはいい気分ではないか。

 彼女にも人間っぽいところがあるんだなと、このとき初めて思った。

 「あっカップラーメン買ってきたよ」

 ノートをバックにしまいながら彼女がいう。

 あきらかに、話題をそらした。

 「そうなんだ、ありがとう」

 なんと、昼の焼きそばといい、意外と気が利く。

 日記のことが少し気になったが触れなかった。

 「一緒に食べよ!」

 「そうだね」

 さっきの彼女の動揺はもう消えていた。

 これまた、備え付けのポットでお湯を沸かし、カップラーメンにそそぐ。

 「いただきまーす!」

 彼女は、深夜一時半だというのに、元気よくカップラーメンを食べる宣言をした。僕も控えめに「いただきます」といい彼女のお金で買ったカップラーメンを深夜一時に食らった。

 先ほど、スマホを開いたら親から不在着信が三件も入っていた。

 それに対し、友達の家に泊まるとメッセージアプリで応答した。

 これで、警察に捜索願は出されないだろう。

 かくゆう彼女は、ご両親にどのような言い訳を使ったのだろうか。

 「なんか静か~」

 「夜だからみんな静かなんだよ。そういえば、美咲さんのご両親は心配してないの?」

 「大丈夫!友達の家に行くっていってあるから~」

 「なるほど。そもそも、僕と出かけるといってないわけだ」

 「まーねー」

 それもそうか。

 「明日の朝食用におにぎりも買っておいたよ~」

 本当に気が利くやつだ。

 その能力を学校で発揮すればもっと人気者になれるのに。

 いや、そうしないところが不器用なのか。

 そうしないのではなく、そうできないのか。

 カップラーメンを食べ終え、これまた備えつけの歯ブラシで二人して歯を磨き、寝る準備をする。

 「じゃ~僕はこのソファーで寝るから」

 「え~、一緒に寝ないの~?」

 「寝るわけないでしょ。そういうことは彼氏としてくれる?」

 彼氏なんてできないだろうけど。

 「じゃ~美咲たちはなに?友達?それともただのクラスメイト?」

 「それは・・・・・」

 僕が昼に考えていたことだ。

 僕らの関係・・・・

 一体何なのだろうか?

 友達というほど接点なんてなかった。

 しかし、こうして遊ぶ仲でもある。

 遊びというか、強制的というか・・・

 僕らは一体何なのだろう。

 「な~んちゃって。そんな考えないでよ。ほら早く電気消して~?寝よ~」

 せっかくいろいろ考えたのに、結局これだ。

 意味もなく相手を困らせる。

 意味もなく相手を不快にさせる。

 だから能天気なやつは嫌いなんだ。

 能天気なやつといると自分が馬鹿らしくなってくる。

 気は利くところもあるが、それも彼女の気まぐれに過ぎない。

 部屋の照明を真っ暗にし、ソファーに座った。

 やはり、一日歩いて疲れたのだろう、目を閉じるとすぐに眠気が僕を襲った。

 睡魔という名の化け物が僕を睡眠という闇に導いていった。

 僕はすぐに意識を失った。



 翌朝、彼女のアラームにより目を覚ました。

 僕は、むくむくと立ち上がり顔を洗いに洗面所に向かった。

 顔を洗い、歯を磨く。

 朝一の歯磨きは歯磨き粉を付けないのだが、昨日の歯磨き粉の味がかすかに残っていた。

 歯磨きを終え部屋に戻ると、彼女はさっそく二度寝を開始していた。

 もう一度寝る気にはなれなかったので僕は、机のレジ袋から、おにぎりを取り出す。ツナマヨと、明太子があったが、僕は彼女の了承を得ず、ツナマヨを選んだ。

 昨日使ったポットでお湯を沸かし、コップにそそぐ。

 お湯を一口飲むと、胃に暖かさを感じた。

 さっそく、おにぎりを開封する。

 やはり、おにぎりはツナマヨに限る。

 一口食べてはお湯を飲み、また一口食べてはお湯を飲み、を繰り返し、おにぎりを完食したところで彼女が布団から顔を出した。まだ、眠いのか、その目はシャ―シンのようだった。

 「あ~。そうか、ホテルに泊まってたんだ・・・」

 寝ぼけているらしい。

 「おはよ~、あっ!おにぎり食べたんだ~」

 「おはよ。断りなく、ツナマヨ選んだけど大丈夫だった?」

 ダメです、といわれたら困るのだけど。

 「いいよ~。美咲も食べよ~」

 そう宣言し、袋からおにぎりをとりだし食べ始めた。

 僕は、彼女に先ほど沸かしたお湯をコップにそそぎ渡した。

 「お~!気が利く~」

 当たり前だ。

 「さっ、食べたらチェックアウトしよう」

 「ふあ~い」

 彼女はおにぎりを頬張りながら返事をした。五分ほどでおにぎりを平らげた彼女は、また例のポーチを手に洗面所に消えていった。

 アイツも一応女の子なのだ、朝は色々やることがあるのだろう。

 ま~一応だけれど。

 僕らがホテルをチェックアウトしたのが、午前十時だった。

 僕らは、ホテル内で新しく新幹線のチケットをとっていた。

 スマホで新幹線のチケットがとれるらしい。

 なんと便利な時代だ。

 そして、ホテルから駅までの道のりを昨日よりゆっくり、のんびり歩いた。

 しかし、駅近ということなので、さほど時間はかからず駅に到着した。駅までの道中、僕は僕なりにこの旅の終わりを感傷的に思った。

 どうせならまだ終わってほしくないと気まぐれに思い始めていた。

 しかし、当たり前なのだけれど、時は止まることなく進んでいく。

 僕らは、定刻通り新幹線に乗車し帰路に着いた。

 家に帰るとまだ両親は帰ってきていなかった。

 僕は、しっかり手洗いとうがいをして自室にこもった。

 ベッドでとりとめもなくスマホをいじっていると自然と瞼が重くなり僕は眠ってしまった。

 目を覚ましたのは、夕食ができたという母親の声によってだった。

 昨日とは違いしっかりとした食事をとり、昨日とは違いシャワーのみではなくしっかり湯船に浸かり、いつもより長く自宅のお風呂を堪能した。

 お風呂から上がりキッチンで水分補給をして、再び自室にこもった。

 歯を磨き、もう少しネットサーフィンをしようとしたところで普段は鳴らないはずのスマートフォンが鳴った。

 しかし、それは長く続くものではなく、いわゆるメール通知のものだった。

 不思議に思い、それを開く。

 するとメールアプルに一件通知が届いていた。

 彼女からだった。

 そういえば、昨日ホテルで連絡先を交換していたことを思い出す。

 メールの内容はこう。

 『二日間遊園地に付き合ってくれてありがとう~。すごく楽しかった。また学校で~』

 彼女がどういう意図でこのような内容のメールを送ってきたかはわからないが、来たものを無下にしないたちなので、僕も適当に返信する。

 『こちらこそ、ありがとう。うん。また学校で。』

 こちらこそ、ありがとう、とは皮肉ではなく本心だ。

 彼女に倣って、また学校で、と送ったが果たしてそれは屋上で、という意味だろうか。

 まさか、一夜を共にしたことにより、これからは教室でも仲良くしようね、という意味だろうか。

 後者だと困る。

 理由は、僕は目立ちたくないからだ。

 彼女は否応なしに目立っている。

 もちろん彼女に同情する気持ちもある。

 あるが、だからといって自分の生活が危うくなるのはごめんだ。

 だから、この日は彼女の、学校で、という意味が前者であることを願いながら眠った。



 僕は基本的に人に興味がない。

 まして、それが縁もゆかりもないクラスメイトのことならなおさら。

 しかし、人間、人付き合いは大切だ。

 それはいわば自分の居場所守るための活動といえる。 

 だから例え人に興味がなくても興味があるふりをしながら、僕はクラスメイトの何人かと日常をやっている。

 そんな僕でも最近彼女のことに興味が沸いていた。

 それは、変な意味でもなんでもなく純粋に。

 正確にいえば、彼女という人間ではなく能天気なやつに興味が沸いていた。 

 能天気なやつに該当するのがたまたま彼女だっただけの話。

 ではなぜ興味が沸いたのか、それは差だ。

 なんの差かというと、死にたいと思うか思わないかの差だ。周りを気にしないで生きられる気持ちの差だ。 

 彼女は何も考えず生きることができる。

 しかし僕にはそれができない。

 腹の中では興味ないことでも興味あるふりをしてしまう。

 だから、僕はここ最近彼女の行動に意識を向けていた。

 アホで、ドジで、脳天気で、不器用で、わがままな彼女の行動に。

 意識するまで気がつかなかったが、彼女は学校でかなりのイジリを受けていた。

 前から、空回りしているのは知っていたがここまでひどいとは知らなかった。

 男子に回し蹴りを入れられたり、ガムを机の裏に引っ付けられたりと、傍観者としてもそれは痛々しいものばかりだった。

 痛々しいとは心も体もだ。

 傍観者効果の僕はそれをみても何もしなかったのだけれど。一週間ほど彼女の行動に意識を向けて気が付いたことがある。

 それは彼女がこのクラスの連中にいじめられているということだ。

 しかし、気づいただけで特に何か行動を起こすわけではない。

 それは誰も止められない。

 例えるなら草食動物の世界だ。

 草食動物は群れで行動し(もちろん例外もあるが)、一匹がライオンの餌食になったとする。

 しかし、群れの連中は一匹が餌食にされている隙に逃げる。

 誰も、その一匹を助けようとはしない。

 それは野生動物世界の暗黙の了解となっている。

 一匹を犠牲にすることで生まれる平和。

 人間社会もその世界となんら変わりはない。

 だから、彼女を助けないのは、このクラスの暗黙の了解となっている。

 仕方ない。

 僕はこの一週間、自分にそう言い聞かせてきた。

 そして、彼女の行動に意識を向けるのをやめにした。

 この一週間は屋上にも出向いてない。

 また、彼女からのメールがないため、僕と彼女との接触はまるでなかった。

 彼女との接触があったのは、それからさらに一週間たってからだった。

 曜日は、金曜日。

 時間帯は、夜。

 細かくいえば、寝ようとしたタイミングだ。

 またも、スマートフォンが震えたのだ。

 彼女からのメールだった。

 メール内容はこう。

 『やっほ~!元気~?最近、屋上に来ないね~。それはいいいことだ~。ところで明日ひま~?ひまだよね~。カラオケに行こう!!』

 またしても能天気なメールの内容。

 教室にいる彼女と、屋上やプライベートの彼女は本当に同一人物なのか。

 たまに思う時がある。

 あれほどのことをされてもなお、彼女から愚痴を聞いたことがない。

 僕が、購買のパンについて訊いた、あれを除いて。

 あれも本気で怒っているようには見えなかった。

 正直、彼女がいじめられていると知ってから彼女と関わるのはやめにしようと決めていた。

 しかし、僕にも良心というものがあるのだろう。それか流されやすいたちなのか。

 彼女からの連絡を無視できるほど冷めた人間ではなかった。

 やはり、せめて僕だけでも彼女に普通に接しようと心のどこかで思っているのだ。

 きっとエゴに過ぎないのだけれど。

 僕はメールアプリを開き、『何時にどこに行けばいい?』と送った。

 返信はすぐに来た。

 集合時刻と集合場所をつづった内容のものだ。

 一体、なぜ僕にそれほど執着するのだろう?

 他にだって利用できる相手はいるはずだ。

 間に合わせにつかえる人間が。

 なのに、なぜ僕なんだ。

 それは考えても無駄なことだった。

 彼女のことだ、理由なんて、きっとない。

 だから、僕はそれに関して深く考えないようにしている。

 みんな時間は平等に与えられている。

 それは考える時間も、だ。

 だったら、考えても分かりっこないことを考えるのは時間の無駄だ。

 その分、別の何かを考えるべきだ。

 だから、その日は、今読んでいるミステリー小説の犯人は誰なのか考えながら寝た。

 翌日。朝早く目覚ましがけたたましく鳴った。

 もちろん自分がセットした時間なのだけれど。

 僕は、目覚ましを止め、顔を洗うため洗面所に向かった。

 顔を洗い、歯磨きをし、朝食を食べるためリビングに足を運ぶ。

 朝食は、いつもパンと牛乳。

 朝食は、ごはん派かパン派かと訊かれたら迷わずパン派とこたえる。

 パンと牛乳をゆっくり腹にしまい込み着替えを済ませ外に出る。

 朝にもかかわらず、外は暑かった。

 カラオケなら午後でもいい気がするが、午前中にカラオケがしたいというのも、彼女の気まぐれであり、深く追求しなかった。

 もし、午前中で終われば、午後はゆっくり本でも読んで過ごせばいい。

 いくら彼女でも、二、三時間歌えば気がすむだろう。

 そう思いながら、僕は待ち合わせ場所である、いつかきた焼き肉屋の最寄り駅を目指していた。

 約束の時間より五分早く到着したのだが、彼女はすでにいた。

 「あ~!おはよ~!」

 「おはよ。朝から暑いね」

 「日焼け止め塗ってきて正解だ~。さ~行こ!」

 日焼け止めなんか塗るんだ。と思った。

 僕らは、駅から近いカラオケ屋を目指した。

 僕らは、安さが売りで地元でも有名な、おんぼろなカラオケ屋に着いて中に入る。

 「いらっしゃいませ~」

 気だるそうなアルバイトであろう若い店員が出迎えた。

 「カラオケ、十二時間パックで!」

 入店早々、彼女はそう宣言した。

 僕は、自分の耳を疑った。

 自分の耳と、彼女の言い間違いを疑った。

 「十二時間パックですね。先払いになります。十二時間パック・・・」

 「ちょ、ちょ、ちょっと」

 店員さんには申し訳ないと思ったが、店員さんの言葉を遮って受付カウンターから彼女を引きはがし、彼女を問い詰める。

 店員さんを一瞥するとみるからに不機嫌そうな顔をしていた。

 今はそれより気にしなければいけないことがある。

 「ん~?なになに」

 彼女はまぬけな表情をしていた。

 「十二時間パック?意味分かんないんだけど」

 「あ~。あのね、三時間パック、六時間パック、十二時間パックと分かれてて、パックにするとお得なんだよ~」

 「そうじゃなくて、なんで十二時間なの?三時間パックでも・・。」

 いいかけてやめた。これも彼女の気まぐれなのだから。

 追求するだけ無駄だ。

 もう一度、店員さんを一瞥する。今にも飛びかかってきそうな猛獣の顔をしていた。

 僕は折れた。

 僕が黙ったことを了承とみなした彼女は店員さんに再び宣言した。

 「十二時間パックで!」

 再び彼女がそう宣言し、先払いでお金を支払い、個室に通された。

 安さを売りにしているため、部屋は狭いし、ぼろい。

 彼女はマイクが入ったかごをテーブルに置き、マイクを一つ手にとり、機械をなになら操作し始めた。

 その手際はスムーズだ。

 結構カラオケに来ているということを思わせた。

 「さ~て、歌おう!」

 操作が終わったらしい彼女は、マイクを天井に向けて歌い始めた。

 そして、見事に十二時間歌い続けた。

 途中、僕にもマイクを渡され、僕が歌うこともしばしばあった。僕も、後半はハイになり自分からマイクをもち彼女とともに一昔前に流行ったJ‐popをうたった。

 カラオケが終わったら病院へ行くことを僕は決意する。

 そういえば、ジェットコースターを五回乗らされたときも、そう思ったことを思い出す。

 よし。両方診てもらおう。

「ありがとうございました!」

朝の店員さんとは違う、元気のよい別の店員さんにお礼をいわれ外に出た。

「は~!楽しかった~!ストレス解消~!」

 ストレスなんかないだろ。

 心の中で僕は毒づいた。

 そんな失礼極まりないことを本人にいえるわけがない。

 だから心の中だけでとどめて置いた。

 もしかしたら、学校以外でのストレスがあるのかもしれない。

 「いや~、山本君があんなにハイになるとはね~」

 「美咲さんほどではないよ」

 「あれは貴重だね。そういえば晩ごはんってなにか予定あるの~?」

 「いや、とくには」

 「じゃ~うち来て~!」

 「え、なんで」

 「最近、美咲、料理を練習してるの~。だから、食べて~」

 女子の手料理か。

 彼女も女の子っぽいところがあるんだな。

 彼女に対してそう思ったのはたしか二回目だった。

 とくに断る理由がなかったので僕は頷く。

 「ほんと!やった~!」

 それから僕らは彼女の家を目指し歩いた。

 彼女の家はカラオケ屋から、そんなに遠くなかった。

 「あれだよ!」

 彼女が指さす先に、外壁が水色の家があった。

 どこにでもある作りの二階建ての一軒家。

 彼女の後ろにつき、彼女が家のカギをあけた。

 同級生の女の子の両親に会うと思うと緊張した。

 「あっ!親いないから大丈夫だよ~。緊張しなくて~」

 クスクス笑う彼女。

 どうやら緊張しているのがバレていたらしい。

 「あ、あ~。そう・・・」

 はやくいってくれよ。

 「どうぞ!」

 彼女の後に続いて、僕は初めて同級生の女の子の家に足を踏みいれた。

 彼女が誰もいない家の電気をつけていく。

 洗面所に案内してもらい、律儀に手洗いうがいをすませる。

 それをみて、彼女は「りっちぎ~」といった。

 料理を作るということなので、キッチン兼リビングに通された。

 テーブルが一つと、イスが四つ置かれていた。ということは、彼女が四人家族だということがうかがえる。

 まー、彼女が何人家族だろうと、僕には関係ないのだけれど。

 手持ち無沙汰になった僕は、適当にテーブルのイスに腰掛け、キッチンの方に目を向ける。

 彼女はキッチンに立ち、やや大きめの鍋に水を張り、それを火にかけていた。

 まさか、カップラーメンじゃないだろうな。

 いや、彼女のことだし、ありえる。

 すると、何やら細長い袋を手に持ちそれを開封する。どうやら、パスタのようだ。

 さすがの彼女も、カップラーメンにお湯をそそぐことを料理とはいわないらしい。

 適当にパスタの麺を鍋に入れた。

 次に、フライパンを用意し、野菜室から小松菜、棚から鷹の爪を取り出した。

 どちらも、適当な量を、油が引いてあるフライパンにぶち込んだ。

 なるほど、ペペロンチーノを作っているみたいだ。

 パスタの柔らかさを確認しつつ、フライパンの中身を炒めていく彼女。割と、様になっている。

 ひとしきり、その様子を見守っていると、鍋の火を止め、流しに鍋を持っていき麺をざるに移していく。麺の水を軽くきり素早く、フライパンに入れた。手際よく炒め、それを皿に移す。

 あっという間に、ペペロンチーノが完成した。

 「はい、どうぞ~。お手製ペペロンチーノ~」

 「お~、美味しそうだね」

 「多分、まずいよ~」

 「自信ないね。いただきます」

 僕は、適量の麺をフォークに絡め、口に運ぶ。

 うん、悪くない。

 いや、普通に美味しい。

 僕はそれをそのまま口にだす。

 「うん!美味しいよ!」

 僕の方を見ていた、彼女が一瞬、泣きそうな表情を見せた気がした。

 しかし、一瞬だったため気のせいかもしれない。と思っているうちに、彼女の表情はいつものバカそうな笑顔に戻っていた。

 「え~!うれし~」

 これまた、まぬけそうな声と共に飛んできた彼女の返し。

 「なんで料理なんか練習しているの?」

 素朴な疑問だった。

 「え~、暇つぶし~」

 「そっか~、友達とは遊ばないの?」

 これも、また素朴な疑問だった。

 「ね~、死ぬことより怖いことってなんだと思う?」

 またも、僕の質問を無視し、何の脈絡なくそんな質問をぶつけてきた。

 死ぬことより怖いこと?意味不明だ。

 しかし、沈黙が横たわっている今、答えなければいけない空気だ。

 この、空気を翻すつもりで僕は「バンジージャンプ」と少しおどけた感じで返した。

 「ブ~」

 彼女は、口の前で、両手についている指でバツを作った。

 そんなこと知るか。と思った。だいたい、正解なんかあるのか。

 「それはね・・・生きる・・ことだよ」

 少しうつむき加減で哀愁漂う声で呟いた。

 一瞬、胸がドキリとした。それは学校での出来事を指しているのか。

 指していてたしてもおかしくはない。指していなくもおかしくない。

 つまり、彼女のいつもの気まぐれの発言。そう捉えていいのだろうか。

 「ほへー」

 変に間があくのを恐れた僕は、そんな間抜けな返しをしてしまった。

 いつまで、哀愁漂う顔をしているつもりなのだろうか?

 僕は、彼女のこういったシリアスな発言をまともに受け止めることをやめにしていた。まともに捉えても、なんの意味もないからだ。

 どうせ能天気なやつの気まぐれ。それに過ぎない。

 はいはい、死ぬことよりこわいことは生きることね。覚えておきますよ。

 と、頭の中で彼女の教えを毒づいて、脳みその今後、絶対に引き出さない引き出しにその教えをしまった。

 その後は、特に気まずい雰囲気になることなく、彼女の戯言が終始、僕の顔に飛んでくるだけだった。

 それが、僕にとって楽だった。

 そして、彼女に見送られ、彼女の両親が帰ってくる前に彼女の家をあとにした。



 週明けの夜。

 僕は、人生で初めて自分から人にメールを送った。

 その理由は本日の昼休みまで遡る。

 僕は教室で昼食をとらない。いつも学食で済ませるからだ。

 しかし、今日は五限目である物理の宿題をあろうことか、この僕が忘れてしまっていた。

 そのことに四限終了のチャイムと同時に気づいた僕は至急宿題に取りかかった。

 そのため昼休み普段いない教室にいることになった。

 自分の席で宿題に黙々と取りかかっていた。

 昼休みということもあり教室の喧騒はもちろんのこと、廊下からも他クラスの笑い声や女子の悲鳴のような声が聞こえてきて中々集中することができなかった。

 「あ~~!!」

 そんなやかましい空間の中、ひと際目立つやかましい声が僕の鼓膜を揺らした。

 なんだろうと、顔を上げると、クラスで一軍にあたる男子が数人、誰かのパンを投げあっていた。

 その誰かとは、加藤美咲だ。

 彼女はボールのように扱われている、自分のパンを追いかけていた。

 その様子を見てパンを投げあっている数人の男子と、付近のクラスメイト達は笑っていた。

 気持ち悪い笑顔だなと思った。

 なぜ笑うことができるのだろう。そう思った。

 そして、パンを投げあっているうちの、一番巨漢の男子がパンを開封し口に放りこんだ。

 「あ~!なんでよ~!美咲のパン返してよ~」

 彼女はそう言い残し自分の席にとぼとぼ向い、机に突っ伏してしまった。

 その様子を見てもなお、彼らは薄ら笑っていた。

 品行方正のかけらもないな。こんなことが毎日起こっているのか?

 もちろん、噂は聞いていたし、本人にも確認済みだった。

 しかし、現場を目の当たりにすると、それはそれは心が痛む光景だった。

 というか普通に犯罪だ。

 いじめ。やはり彼女はいじめられている。

 でも、いじめは傍観者もいじめる側に分類されてしまう。

 ということは、僕も彼女をいじめていることになる。

 そう思ったら気分が悪くなり、僕は物理の問題、最後の一問だけを残しシャーペンを置いて教室を出た。その後の授業は、教室や廊下は静寂だったが、中々集中することができなかった。 胸に残ったもやもやを解消するために、僕は授業中、彼女にメールすることを決意した。そう決めたら、少しは授業に集中できたような気がした。

 『や~。こんばんは。今日の男子のあれ本当に大丈夫なの~?』

 あえて抽象的にメールを送った。さらに語尾を伸ばすことでシリアスにならないよう務めた。

 彼女のことだ。きっと『あれって~?』的な、まぬけな返信が返ってくるだろう。

 二分ほどで返信が返ってきた。

 しかし、返信は言葉ではなく、クマのキャラクターがグッドサインをしているスタンプが送られてくるだけだった。

 彼女の返信に身構えていた僕は少し面食らう。

 なんだよ。せっかく心配してやったのに。

 彼女は生粋の能天気野郎だな。

 羨ましい。

 その後、僕は彼女に何の返信もしなかった。



 それからのこと、期末試験は終わり、七月に入った。

 本格的に夏が始まり、もうすぐ夏休みに突入しようとしていた。

 夏休みが近いため学校も半日授業だ。これにより、彼女がパンを食べられてしまうこともない。

 平和だ。パンのことだけで言うなら。平和だ。それ以外の彼女へのイジリは相変わらずだった。それをみんなが見て見ぬふりするのも相変わらずだった。

 僕はずーと屋上に出向いていない。彼女と対面して、僕はなんて言葉をかけてやれるだろうか。

 僕の口から発せられる言葉なんて、たかが知れてる。

 なんの慰めにもならないだろう。

 彼女のことだし、あの一連のイジリは何にも思ってないのだろう。しかし、あんな光景を目にしてしまった今、彼女と普段通り接してやれるか不安だ。

 彼女が気にしていなくても、僕が気にする。だから、お互いにとっての最善の方法は以前の関係に戻ることだ。

 そう考えた僕は、屋上にも出向かず、彼女にメールを送ることもしなかった。

 彼女からの連絡やアクションがなかったので、最初は少し寂しい気もしたが、僕はそれでよかった。

 これから一生、彼女と関わることはないだろうなと思った。寂しい気も最初の内だけで、数日も経てば、そんな気も忘れ以前の日常に戻っていた。そんな日常が突然ぶっ壊されたのは終業式の夜。

 部活に所属していない僕は、明日からやってくる夏休みに胸を躍らせていた。

 明日は何をしよう。

 そんなことを考えながらスマホで動画見ていた。

 すると、画面の上にメール通知が届いた。

 『夜分に失敬!突然なんだけど明日空いてる~?行きたいところがあるんだけど、付き合ってくれない~?』

 空いていません。と嘘をつければよかったのだけれど、どうやら僕も不器用な人間らしい。

 少なくとも嘘がつけないくらいには。

 それに、やはり僕だけは優しくしよう精神がその誘いを乗ることに拍車をかけた。

 『何時にどこに行けばいい?』

  僕はそう返信した。

 返信はすぐに来た。

 僕はスマホを閉じ、明日のために就寝することにした。

 翌日。

 目を覚まし、約束の時間に遅れないよう準備し、家を出た。

 彼女が指定してきた、今から向かう場所は、地元から電車で一時間程。大きめのショッピングモールや、大きめの病院、大きめのアスレチックなどで栄える街で、僕らの住んでいる田舎から電車一本で行ける好アクセスから遊びに行く人も多い。久しぶりに訪れた、久しぶりの駅や街並みにノスタルジーを感じつつ改札を抜けた。

 僕も小学生の時は友達とよく遊びに来ていた。

 夏休み初日の昼下がり、駅の屋根の下で僕は彼女の到着を待った。

  同じ時間の電車に乗っていると思われたがどうやら違うようだ。

  徐々に改札付近は人が少なくなっていく。誘っておいて遅れてくるとはいい度胸だ。

  そう思っていると彼女がこちらに歩いてくるのが見えた。

 僕より先にこちらに来ていて、どこかで時間を潰していたようだ。

 「やっほ~」

 「誘っておいて遅れてくるとはいい度胸してるね」

 そんなことを口走ったが本当のところ、僕は怒っていなかった。むしろ昨日から今日の遊びを少し楽しみにしていたくらいだ。

 「こまっかいなぁ~」

 「今日はどこに拉致されるの?」

 「今日は~。パフェ食べたくて来たの~!」

 「パフェ?」

 「そう~!パフェ!」

 「それだったら地元のファミレスにでも行けばいいじゃん。わざわざここまで来なくても」

 「ダメだよ~。地元のファミレスのパフェじゃダメなの!美咲、パフェリゾートのパフェタワーが食べたいの~!」

 パフェリゾートとは、パフェ専門のチェーン店のことで、パフェタワーとはそのお店で一番ボリュームのあるパフェのことだ。

 パフェタワーの全長、一メートル。

 「暑い日にパフェ?僕はもっと涼しいもの食べたいんだけど」

 「パフェこそ暑い日に食べるもんだよ~」

 彼女は、いつも巻いていない桃色の腕時計を見た。

 「多分パフェリゾートのピーク時間は過ぎてる思うから、今行けば空いてる!すぐパフェタワーを食べられるよ!」

 「いや~。暑い日にパフェは食べたくないんだよな~」

 「いつまで気温のこと言ってるの。ほら行くよ行くよ~!」

 その言葉と同時に僕の手を引っ張った。

 彼女は笑っていた。

 彼女が笑っていたので僕の気分も悪くなかった。

 その笑顔は教室で男子たちにイジられている時の笑顔とは全然違うものだった。

  彼女は男子にいじられている時、基本的には笑っている。 もちろん嘆いたり、机に突っ伏すときもあるのだが。 だから僕は彼女のことを能天気だと決めつけている。

  毎日のイジリを基本笑ってやり過ごせる。

 何も考えていないからこそできることだ。

 しかし、彼女にも笑顔の種類があるようだ。

 嫌な予感が胸に過りそうだったが、僕は考えるのをやめ、彼女に引っ張られた。

 道路沿いにあるパフェリゾートに到着し僕らは暑い日差しを避けるように入店した。

  店内は冷房が効いており、冷房の風が体に染み渡って気持ちよかった。

  彼女の言った通り、店内は空いていた。僕らはすぐに二人掛けの席に通された。

 「さぁて、さっそく頼もうか!」

  店員さんが、水を持ってきたタイミングで彼女は高らかにパフェタワーを注文した。

 「そういえば今日、僕より先にこっちに来てたんだね」

 「あ、そうそう、ちょっと先に来てた~」

 先に来ていて何をしていたかは気にならなかったので訊かなかった。

 「山本君、この後、なにか予定ある~?」

 「予定のダブルブッキングはしないよ」

 「確かに~、友達いないもんね~」

 「話聞いてた?ダブルブッキングをしないことがどうして友達がいないってことに繋がるわけ?」

 「ってことは一日空いてるってことだ~」

 どうやら話は聞いてないようだった。

 「一日というか、もう午後二時過ぎだし、半日だけど」

 「んじゃ、たくさん遊べるね~!」

 こいつ。会話する気あるのか。

 そう思い、僕が顔をしかめていると、パフェタワーが到着した。

 「お待たせいたしました。パフェタワーです」

 僕らの間に、パフェ―タワーが置かれた。ごゆっくりどうぞという声とスプーンを二つ置いて店員さんは消えていった。

 「すご~い!でか~い!」

 小学生のような感想を口走る彼女。

 確かに、パフェは大きかったし、何より太かった。

 「これを二人で食べろと?」

 「いけるいける~!美咲、大食いなんだから」

 とても大食いには見えない、彼女の身長と体型。

 僕は心配になる。

 ちょうど、おやつ時ではあるが、おやつで食べる量ではない。

 二人して大きなパフェを減らしていく。

 彼女は宣言通り、大きな口で、パフェを貪った。中々の大食いだった。

  僕は自分のお腹と相談しながらパフェを堪能した。

  スイーツは量じゃない、質だ。僕はそう思っている。しかし、このパフェは量も多いし、質もよかった。

 つまり、美味しかった。

 さすがの彼女もスイーツの前ではおとなしかった。

 彼女の顔には終始笑顔が張り付いていた。

 一時間が経ち、途中水をおかわりしながら、やっとパフェタワーも残すところ三分の一となった。

 「結構食べたね。美咲さん、本当に大食いなんだね」

 「だから言ったじゃん!逆に山本君は全然食べてないね~。あんまり美味しくなかった?」

 少し心配そうな声色で彼女が言った。

  僕は慌てて否定の言葉を口にする。

 「そんなことないよ。ただ僕は小食なんだよ」

 「確かに、焼き肉の時もそんなに食べてなかったもんね~」

 懐かしい。僕は春先の記憶を思い出す。僕はあの日、自殺しようとしていたのだ。

 あれから、死にたい気持ちになる時はあるが、あの日のように行動に移すことはしていない。波のようなものだ。死にたくなったり、もう少し生きてみようと思ったり。そんなこと考えなかったり。そんな日々の連続だ。

 自殺は衝動的なものなんだと思う。

 こういう風に、波のようになっている人は、ある日突然何かを引き金に衝動的に自殺してしまう。

 あの日、彼女が屋上に現れなかったら、僕は今ここにいないだろう。あの日、死ななくてよかったかどうか僕はわからない。

 死ぬことはいつでもできる。また死にたくなったら死ねばいい。今は、何となく生きている。

 小さな幸せと小さな不幸せを日々感じながら生きている。しかし、彼女との遊びに少し幸せを感じている自分もいる。こんな、能天気で、ドジで、不器用で、アホな彼女。そんな彼女との遊びが今の僕にとって小さな幸せになっていた。

 パフェは一番下に詰め込まれているコーンフレークのみとなり、彼女がそこでギブアップしたため、コーンフレークは僕が平らげた。

 「美咲が払うよ~!」

 「いや、いいよ。割り勘にしよ」

 「優しいね~。ほ~い~」

 お金を彼女に渡し、彼女が会計を済ませる。

 外に出ると、暑い空気がむわっと体中を覆った。

 「あつ~」

 「暑いね。それで次の予定は?」

 「おお~。乗り気~だね~」

 彼女はこの街で一番大きいレジャー施設の名前を口にした。そこは、ボウリング、ダーツ、ビリヤード、ゲーセン、カラオケ等のバラエティなレジャー施設で、僕も小学生の頃、遊びに行ったことがある。

 僕は承知し、暑さを凌ぐためにも、そそくさと目的地を目指した。

 目的地は駅近なので、すぐに着いた。

 自動ドアで入店し、受付が二階なのでエスカレーターで二階へ上がる。混み具合はそこそこで僕らは受付の列に並ぶ。

 「何時間遊ぶの?」

 「決めてないよ~!だから、チケットはフリータイムってやつ買お~!」

 「決めていないなら、フリータイムがいいかもね。お得だし」

 チケットを二枚購入し、入場する。

 「まず、ダーツしよ~!」

 「いきなりダーツ?普通最後じゃない?」

 「順番なんかないよ!いこいこ」

 僕らはダーツコーナーに移動し、彼女が設定を行い、ダーツ勝負が始まった。

 数字を減らしていくゲームで僕は着実にその数を減らしていく。

 彼女は全く的に矢が刺さっていなかった。

 「次こそは!さしてやる~!」

 その宣言に僕はクスっと笑ってしまう。

 「そもそも矢がささらないってどういうこと?」

 「うるさいなぁ~。えいっ!」

 矢は大きな放物線を描き、的の前で急降下し地面に落ちる。

 「もっと強く投げるんだよ」

 僕は笑いながらアドバイスする。

 「えいっ!」

 今度はまっすぐ矢が飛んでいき、的に当たり、ささらず、地面に落ちる。

「強すぎだって。もっと優しく投げなきゃ」

「え~。むずかしいな~」

 結局、ダーツは僕の圧勝で終わった。

 彼女はあの後、一回だけ矢が的に当たっただけで、それ以外すべて矢を床に落としていた。

 僕らはビリヤード、卓球、ゲーセンと真面目にレジャー施設を堪能していた。

 まさに、時間をわすれて。

 だから、終電を逃していることに気づいていなかった。

 そのことに気が付いたのは、僕らがボウリングをしている時、三ゲームを終え、あと一ゲームするかと話し合っている時だ。

 突然時間の存在に気づいた僕は、彼女に桃色の腕時計を見るよう指示した。

 彼女は言われた通り腕に視線を落とす。

 「いま~。十二時三十二分だね~」

 うわ。まずい。

 「だね~。じゃないよ!終電ないじゃん!」

 彼女は至って落ち着いていた。

 「ここ朝の五時までやってるし、始発まで遊べばいいじゃん~」

 やっぱり能天気な回答。さすがだ。

 最近、彼女を見習って能天気に生きるように努めていた。

 だから自殺していないのかもしれない。

 前の僕なら、彼女の回答に毒づいたり、否定していたのだろう。

 しかし、今の僕は、彼女の案に乗ることに何の躊躇いもなかった。

 「そうだね。ここまで来たら、朝まで遊ぼ!」

 彼女は一瞬驚いた顔をした。が、すぐ笑顔に戻り、ボウリングを、もう三ゲームしようと言った。

 僕らは朝まで遊び続けた。

 楽しかった。

 彼女と遊ぶことが。

 彼女と一緒にいることが。

 彼女の戯言に突っ込むのが。

 はっちゃけてオールすることが。

 すべてが楽しかった。

 時間は、あっという間に過ぎた。

 閉店時間である朝五時になり、僕らは退場した。

 外に出ると、太陽が少し顔を出していた。朝特有の匂いと空気。

 「なんか楽しかったね」

 そういって、隣を歩く彼女を僕は見た。

 彼女は顔色が悪く、歩くペースを落とした。

 「う、うん」

 「顔色悪いけど、大丈夫?」

 パフェの食べすぎか、オールの疲れからか、先ほどから見る見る顔色が悪くなっていく。

 そして一言。

 「ごめんね・・・」

 その言葉を最後に彼女は倒れた。倒れたのが隣にいる僕の方だったのが不幸中の幸いだった。

 「え・・・・。美咲さん?美咲さん!」

 僕は朝の散歩をしていた、七十代のおばあさんに助けを求めた。

 彼女は救急車で運ばれた。彼女が昨日の午前中、通院した病院に。

 静寂な朝に救急車のサイレンの音が鳴り響いた。

 僕も救急車に同乗し、彼女を見守った。

 近くの大きな病院に着き、彼女はキャスター付きの担架で緊急治療室に運ばれていった。

 僕は唖然としその場に立ち尽くす。

 僕は、この日、彼女が病気だと知った。



 数日後、彼女からメールが届き、病室に飛び出された。

 指定された時間に病院へ向かい受付で、名前を告げる。

 すぐに病室を教えられ、エレベーターで向かう。僕は、緊張していた。

 彼女の病室は個室だった。

 病室のドアの前に立ち、ノックしようとするが躊躇ってしまう。

 「は、はぁ。ふ~」

 深呼吸し、二回ノックする。二回は失礼か。そう思ったが今更遅い。

 「は~い~」

 いつもの能天気な返事がドア越しに聞こえてきて安心する。

 ゆっくりとドアをスライドし中に入る。

 白い入院服を着ていた彼女は横になっていた体を起こしベッドに座った。

 「やぁ~、久しぶり~」

 細い腕を上げて彼女が言った。その腕には二本のチューブが刺さっており、血管が浮き出るほど痩せ細っていた。

 「やぁ。ひ、久しぶり」

 僕もなんとか応える。

 「どうしたの~?深刻そうな顔をして~」

 クスっと笑う彼女。

 その笑顔には生気がなく、無理しているように見えた。

 僕も彼女に倣って明るく振る舞う。

 「あの日、急に倒れたからびっくりしちゃったよ」

 「ごめんねえ~。まさか倒れるとは思ってなくてさ~」

 「すぐに良くなるでしょ?」

 訊かずにはいられなかった。

 うん。といってほしかった。

 しかし、僕の淡い期待は霧散した。

 「治らないよ」

 聞きたくもない言葉が、僕の鼓膜までしっかり届く。

 「ま、ま、まさか、死ななない・・・よね?」

 汗が手をじわっと濡らす。

 「死ぬよ。余命一年って言われて半年経っちゃった~。だから、美咲の命は、あと半年~」

 彼女は語尾を伸ばして、いつもの能天気な口調で言った。言い放つと同時に窓の方に顔を向ける。今、どんな顔をしているのだろうか。

 能天気だから笑っているのだろうか。何も考えていないから真顔なのだろうか。

 僕は廊下側に置いてある、パイプ椅子に腰かける。

  「手土産持ってきたんだ。よかったら食べて」

 「え~!ほんとに~!一緒に食べよ~」

 勢いよく振り返った彼女は、笑っていた。

 四つ入りのバームクーヘンの箱から二つ取り出し、一つ彼女に差し出す。

 「おお~!美味しそう~!いただきま~す」

 バームクーヘンにかじりつき目を三日月にして「おいしい~」と喜ぶ彼女。

 もうすぐ死んでしまう人間にはとても思えなかった。

 余命半年・・・・

 そのことだけが頭に張り付いてバームクーヘンは何の味もしなかった。

 ここで悲しむなんて、そんなお門違いなことを僕はしない。

 彼女が笑っているのだから、僕も笑わなければならない。

 彼女が一生懸命何かを話しているけど、何も入ってこなかった。

 途中、彼女が笑うので、それに合わせて笑った。それで精一杯だった。

 きっと上手く笑えていなかっただろう。

 「いつまで入院するの?」

 バームクーヘンを食べ終え、水を飲んでいる時に僕は訊いた。

 「すぐ退院するよ~。あと一週間くらいかな」

 「そうなんだ」

 「大丈夫だよ。まだ半年は生きるから。今すぐ死ぬってわけじゃないし、退院したらまた遊ぼ~!」

 「うん。じゃ、また連絡して。どこにでも付き合うよ」

 相手を不快にさせないためとか、相手に合わせるための偽言ではない。

 これは僕の本心だ。

  彼女と出会えたことで僕はこんなにも変わることができた。

 自分でも驚いている。

 「じゃ、退院したらどこに行くか、決めといてね」

 「ほ~い」

 彼女は、いつものように間抜けな返事をした。

 僕は、残り二つ入ったバームクーヘンを彼女に渡し、病室を後にする。

 家に帰り、手洗いうがいを済ませ、自室にこもる。

 ベッドに体を預け額に腕を置く。

 「余命・・・・半年・・・・か・・・・・」

 誰もいない部屋で一人ぼそっと呟く。

 この世で一番大切なものはなんだと思う?

 それは健康だよ。彼女の言葉が頭に響く。

 あの伏線がこんな形で回収されるなんて思ってもいなかった。

 頭が重くなり、やがて僕はそのまま眠ってしまった。

 それから一週間、僕は買い出しや散歩以外に外に出ることはなく自室に引きこもった。

 明日で予定通りならば彼女は退院する。

 しかし今だ音沙汰なし。

 何度もメールを送ろうと思ったが中々送れず、文字を打っては消すを繰り返していた。

 そんな彼女からメッセージが来たのは、その夜だった。

 嫌な予感はしていた。こういうのを虫の知らせというのだろうか。

 彼女からのメール。

 彼女の入院期間が延びた。



 次の日、僕は居ても立っても居られなくなり、彼女の病室を訪れた。

 しかし、彼女は依然落ち着いており、能天気だった。

 「心配性なの~?少し数値がおかしいから、病院側と親が心配して延ばしただけだよ~。念には念をってやつ~。山本君も心配性だなぁ」

 「せっかく心配してきたのに損したなぁ」

 僕は、安堵する。その能天気さに腹が立たなかったのが不思議だ。

 これが彼女の影響力なのか。

 急いでいたので、手土産を買う余裕もなかった。

 ただ、何度も言うけど、彼女が元気そうで本当によかった。

 「それで?次はいつ退院するの?」

 「ん~と~。一週間後かな。それで再検査して問題なかったら退院って感じ~」

 「そっか。だいぶ、夏休みも後半になるけどね」

 「どうせ、予定ないんだから、いいでしょ~」

 「また連絡してよ」

 彼女は頷いた。

 今日の目的である彼女の容態は確認できたので、長居せずお暇する。

 「じゃ、そろそろ帰るよ」

 「あっ、うん・・・。じゃあね!」

 彼女は一瞬うつむいたが、すぐいつもの笑顔を取り戻した。

 僕は、パイプ椅子から腰を上げ、立ち上がる。

 彼女に背を向けドアに手を掛けた時、背後から声が飛んできた。

 「ねぇー」

 そんな人を呼び止める声。人間関係の疎い僕には、その声が焦燥しているものに聞こえた。

 振り返る。

 困った顔をした彼女。僕は彼女の言葉を待った。

 数秒後。

 「あ、ありがとね」

 そういって、少しぎこちなく笑う。

 「なんだよ、いいよ。別に」

 彼女の笑顔はだんだんぎこちなさを引っ込め、今日一番の笑顔になっていく。

 何に対してのお礼か、いまいちピンとこなかったが流れでそう答えた。

 多分、お見舞いにきてくれて、という意味だろう。

 それしか思い浮かばないし、事実そうだろう。

 僕は「またね」と残し、彼女は少し困った笑顔で頷いた。

 今度こそ僕はドアをスライドし病室から出た。

 

 彼女はその夜、亡くなった。



 僕はいつものように目を覚ました。カーテンを開け、昼の太陽の光を浴びる。

 「はぁ~」

 彼女が死んでから何回目かわからないため息をつく。昨日、お葬式が行われたらしい。

 そう。

 らしい。

 僕はお通夜にもお葬式にも赴かなかった。彼女を失った悲しみが足を動かさなかったのだろうか。

 それはわからない。

 僕は、一階に降りて、支度をする。昨日、葬儀が終わったという内容のメールが担任から来た。

 それと、今日の午後、学校の職員室へ来てほしいというメールも一緒に送られてきた。

 僕は気乗りしないまま、なぜ暑い日に外へ出なくてはいけないんだと、心の中で毒づきながら家を出た。

 外は、やはり暑く、蝉の鳴き声がやかましかった。

 学校までの通学方法は徒歩なので、この暑い中、歩かなければならない。

 彼女が亡くなったと聞いたのは、彼女が亡くなった次の日だった。

 それも、担任から加藤美咲が亡くなったと電話が来たのだ。急に容態が悪化し、急死したと。

 わけがわからなかった。昨日まであれだけ元気だったのに、急にいなくなってしまう。

 そんなことが本当にあるのだろうかと信じられなかった。

 どこかの違う誰かなのではないかと疑った。

 お通夜とお葬式の日程を告げられたが、その言葉は片方の耳からもう片方の耳に流れるだけだった。

 そして、なぜ今日、担任は僕を学校に呼んだのだろうか。

 見当もつかない。

 正門を通り、正面玄関から校舎に入る。上履きを取りに行くのは面倒なので、来客用のスリッパを履く。

 二階が職員室なので階段で上がる。静まり返り、窓が開けられているので風が通っており、気持ちよかった。普段もこれくらい静かで、のどかならいいのに。

 職員室に着き、職員室も窓が開けられていた。ドアも開けられていたので、僕の気配に気が付いた担任が顔を上げた。目が合ったので、会釈する。先生は担任以外おらず、手招きされたので「失礼します」と言って職員室に入る。

 担任は隣の空いている椅子を出して、そこに座るように手で促した。

 対面で座る。

 「暑い中、わざわざすまない」

 「いえ、大丈夫です」

 本当は大丈夫じゃないが。

 「加藤美咲のことで呼んだんだ・・・」

 そこで言葉を区切った。

 僕は続きを待つ。

 「実はな、加藤美咲は自殺だったんだ・・・・」

 「・・・・」

 「それで、お前に渡したいものがあって」

 そういって、机に置いてあった青色の朝顔が表紙の日記帳を差し出してきた。

 「この日記帳をお前に渡してくれという内容の手紙が病室に置いてあったらしい」

 僕は震えた手で日記帳を受け取る。

 動揺していたんだと思う。

 「・・・そ、そうなんですね・・・」

 「わざわざ呼び出して、すまない」

 そういって、担任は俯いた。

 正常を装い僕は固くなった体をなんとか動かし、職員室を出た。失礼しました、とは言えなかった。



 家に戻り、自室で日記帳を開く。

 

 それは、当たり前なんだけれど、彼女の日記だった。



 『××月〇〇日

  中学生の時から日記を書いてきたけど、これからは、やりたいことをリストアップしていこうと思う。



 やりたいこと

・巨大パフェを食べたい

・カラオケで歌いまくりたい

・異性と遊びたい(仲のいい男子なんていないけど)

・異性と二人きりでお泊りしたい(恋愛ドラマの影響)

・異性に料理をふるまいたい

・オールがしたい(大学生にはなれないから)

・恋がしたい

  ざっとこんなもんかな。』







 『××月〇〇日

・・・・・・・やっぱり、つらいな。

最近死にたいとしか思わない。・・・・・・・

学校にも行きたくないな。

でも、美咲だって青春したいし。・・・・・』



 日記の日付は飛び飛びだった。

 毎日は書かれていない。



『××月〇〇日

・・・・・・・明日死のうかな・・・・・・・・

・・・うん、明日、死のう・・・・

なんか、これが遺書になりそう。

・・・・死んだときのために、書いておきます。

今まで育ててくれてありがとう。』



 次のページは文字が消された跡があり読むことができなかった。しかし、一言。

 『やりたいことができそう』とシャーペンではなく、黒いボールペンで書かれていた。



 それからページをめくっていくと、僕と過ごした日々が日記に記されていた。

 女の子らしい丸文字で。

 最後の日記はオールをした日だった。いつ書いたのだろうか。

 あの日は倒れて病院に運ばれたから、もしかしたら意識が戻ってから書いたのかもしれない。

 その後は空白のページが続いた。もしかしたら何か書かれているではないかと思い、ページをめくる手をとめられなかった。

 日記のページ数が半分を少し過ぎたところで手をとめた。

 黒い文字が書かれていた。



『ここまでたどり着いたということは美咲が死んだってことだね(笑)

これを君に渡すように伝えておいたんだよ~。

日記見ちゃった?

暗いよね。でも君と過ごしていくうちに、君との日常を書いていくうちに、日記もだいぶ明るくなったと思うんだよね。どう~?(笑)

それでね、感謝の気持ちを伝えたくて、君に手紙を書くね。

汚い字だけど、ちゃんと読んでくれたまえ~。



拝啓、自殺する君へ。

びっくりした?実はね、あの日自殺しようとしていたの知ってたんだ~。

なぜって?

だって美咲も自殺しようとしてたから。(笑)

自殺しよと思って屋上に行ったら、先客がいたんだもん。

そんなことある?(笑)

でもそれが美咲には転機だった。

死にたい人ならね、美咲のわがままに付き合わせてもいいと思ったの。

そしてら、意外と君はノリが良くて、美咲のわがままに付き合ってくれた。

しかも、思ったより、優しかった。

うん。本当に優しかった。

ありがとね。

美咲の死ぬまでにやりたいことを君とできて本当によかった。

美咲は君と過ごす時間が余生のすべてだったの。

大げさだな~って言いそうだね~。(笑)

もしかして、言ってる~?

でも、君と別れたあと、いつも虚無感を覚えてしまうんだ。

これって恋なのかな~。

これから自殺する人間には見えないよね。

でも、明るく努めないと、全て崩れちゃいそうで・・・・

本当は何度も君に打ち明けようと思ったの。

病気のことや、いじめで苦しいこと。でも出来なかった。

君と普通の日常を送りたかったから出来なかった。

哀れな目で見られたくなかった。

普通に接したかった。

ねぇ、生きたいな。

普通に生きたい。

君と生きたかった。

朝起きると、もうすぐ死んでしまうという現実に耐えられないの。

何より、君とこれから遊べなくなってしまう現実に耐えられないの。

だからね、死にます。

だから、最後のお願いを聞いてほしいです。



君は生きて。

美咲の分までとは言わないけど、生きて。

お願い。生きられるところまで生きて。

そして天国で君の人生で起こったことを教えてほしい~。(笑)

それまで、美咲はのんびりパフェでも食べて待ってるね~。

病室で「またね」って言ってくれたよね。

嬉しくて、涙こらえるの必死だったよ~。

そのお返し。

またね。

加藤美咲より』