――翌朝。
 普段なら藍がエントランスの外で待ってくれているのに、いまはいない。
 昨日までの当たり前だった光景が今日からは通用しないのだから。
 一人で歩く通学路はいつもより道が遠く感じる。
 昨日までは二つの笑顔が並んでいたのに……。

 学校へ到着して胸がトクトクしたまま教室へ。
 目線を藍の席に向けるが、まだ来ていない様子。

 深いため息を落としながら着席すると、みすずが普段と変わらない様子でやって来た。

「あやか、おはよー」
「おはよ……」
「あれれ、どうしたの? 今日は元気ないねぇ」
「そうかな」
「うん。石垣くんと一緒に登校しなかったの?」

 昨日別れを告げられた件をまだみすずに伝えていない。
 いつもならまっさきに相談していたのに、なんだか切り出しにくかった。

「……あ、うん」
「なにかあった? 話なら聞くよ」

 妙な雰囲気を察したのか、彼女は表情を曇らせる。
 でも、余計な心配はかけさせたくない。

「ううん、なんにもないよ」

 ――本鈴が鳴るまで残り5分。
 藍はこのタイミングで教室へ入ってきた。
 私は彼の姿を視界に捉えた途端、話をしようと思って席を立つが、彼は背負っているリュックも置かずに教卓前へ。
 まるで教師のように教卓に両手を置くと、少し大きな声で言った。

「皆さん、俺の話を聞いて下さい」

 教室にいるクラスメイトは異様な空気を察したのか「なになに?」とざわつかせる。
 彼は一旦うつむいた後に目線だけを上げた。

「俺、あやかと別れることになりました。理由は自分の問題だからあやかになにも聞かないで欲しい。……みんな、応援してくれたのにごめん」

 藍は教卓から離れて廊下に向かうと、坂巻くんがその背中を追って前方扉に手をかける。

「ちょちょちょちょ……ちょっと、藍! 一体なにがあったんだよ」
「……」
「藍! おい、藍!!」

 藍は坂巻くんの言葉を受け入れない。
 クラスメイトが噂話を始める中、私は坂巻くんの横を全力で駆け抜けて行き、藍の背中に向かって叫んだ。

「藍っっ!! 藍っっ!! 待って……」

 彼はずかずかと足を前に進めるだけ。
 こんな異常事態は初めてのこと。
 まるで別人のような背中が私を他人と位置づけている。

 私は走って追いかけていき、彼の前に周って両手を掴んだ。
 しかし、その表情からは普段の温かみが感じられない。

「昨日から、らしくないよ。それに、みんなの前で別れるって発表するなんて」
「ここではっきりしておかないと決意が揺らぎそうだったから」
「そこまでする必要があった? たしかに私は答えを出せなかったけど、それは期限が31日だと決められていたから。まだ頭の中を整理してたと言うか……。それに、藍だって先日『お前が梶に奪われたらどうしよう』と心配してたじゃない」

 自分でも驚くくらい必死になっていた。
 なにより、いまの関係が簡単に崩れてしまうのが怖かったから。
 いつかそんな日が来るんじゃないかと思っていたけど、そのいつかがいまだなんて……。

 すると、彼は見下ろしたまま言った。

「どうしてそんなに責めるの?」
「だって……」
「俺に気がないなら放っておいてくれない? これ以上変な期待をしたくないから」
「藍……。恋人以前に友達でしょ? もしかして、私がなにか変なことでも言った? もし言ったならいますぐ謝りたいし……」
「そーゆーんじゃないし。ってか、答えはもう出てるんだから俺にかかわらないで」

 彼は私の手をほどいてから階段へと向かった。
 取り残された私はぐしゃぐしゃな気持ちのまま後を追うと、後ろから誰かに手を掴まれた。
 すかさず振り返ると、ひまりちゃんが首を横に振っている。
 それを見て気持ちを寸止めさせた。
 
「さっき教室で聞いたと思うんだけど……。私たち別れたんだ」
「……」
「実は私が他の人に渡すはずだったラブレターを藍の下駄箱に入れ間違えたことがきっかけで付き合い始めたの。でも、藍は私のことが好きだったみたいで、事実を伝えたら別れを拒否されて、31日までつきあうことになって。その日まで頑張るから本物の返事を用意してくれって言われてて私も藍と向き合い続けてた。それなのに、1週間も早く別れようって言われて……」

 相手がひまりちゃんだから本音を伝えた。
 藍の幼なじみにこんなことを言うのは失礼だと思ったけど、間近で私たちの恋愛を見てきたからこそアドバイスがもらえるんじゃないかとも思っていた。
 ところが、彼女は私の手をすっと離して髪をかきあげる。

「あのさ、相談する相手が違うんだけど……」
「えっ」
「ずっと内緒にしてたけど、実は私、藍の婚約者なの」

 それを聞いた瞬間、訳がわからなくなってグワンとめまいのような感覚に襲われる。

「ウ……ソ…………。なに言って……」
「ウソじゃないよ。花火大会の日は私たちの婚約パーティーだった」
「婚約って……。なにそれ。だって、私たちまだ高校生だよ?」
「ニュースで一度は石垣グループと聞いたことあるでしょ」
「うん。石垣グループとは、四大財閥のうちのひとつだよね」
「私と藍は、その四大財閥一家の元に生まれ育った。藍は石垣グループの御曹司。私は川嶋グループの令嬢なの」
「えっ……、四大財閥の御曹司と令嬢って……。ウソでしょ……」

 思い返せば不自然な点があった。
 普通の高校生なら誰もが知ってる情報を知らなかったり、藍が高級ホテルに入って行くところを見た時にひまりちゃんは藍はホテルで暮らしてるんじゃないとか言ったり。
 ……ううん、よく考えれば不自然な点はもっといっぱいある。
 でも、関心を寄せなかったせいか、深く考えないままやり過ごしてしまった。

「両グループは私たちの結婚によって合併すれば日本のトップグループになる。お互いの両親はそれを目論んでいる。だから、私たちの結婚は避けて通れない道なの」
「……なにそれ、私聞いてない。それに、ひまりちゃんは私たちの恋を応援してくれるって言ってたじゃない」
「それは二人を監視するためよ」
「そんな……」
「本当はオーストラリアから追いかけてくるくらい藍が好きなの。二人が別れることを知っててもあやかちゃんに譲りたくなかった。ずっと引き離すことだけを考えてたの」
「……私たちが別れることを知ってたって。それ、どーゆーことなの?」

 いきなりそんなことを言われても頭の中が整理できない
 藍が石垣グループの御曹司?
 それに、ひまりちゃんとの結婚や、私たちが別れることが最初から決まっていただなんて……。

「藍は絶対に私を裏切れない。石垣グループを背負ってるからね。だから、あやかちゃんのことがどんなに好きでも別れる以外選択肢がないの」
「……っ」
「私たちは大学卒業後に結婚する。だから、今回を機に藍のことを諦めて欲しい」

 ――この時、私は初めて彼の素性を知った。
 身元を隠しながら一般高校に通っていた彼は日本四大財閥の石垣グループの御曹司。
 機会がなければ絶対に出会うことのない人。
 そして、住む世界が違う人。

 彼を追って同じ学校に転校してきたのは、川嶋グループのご令嬢。

 藍とひまりちゃん。
 二人の結婚が決まっていたにもかかわらず、藍は庶民の私に恋心を寄せていたなんて。
 一体、どうして……。
 なんの目的で私に近づいたの?

 そして、今日まで二人で見てきた景色は一体なんだったのだろう。