――場所は廊下。
 俺はクラスメイトの流れに沿って雷斗と理科実験室に向かってる。
 それぞれの家庭事情があるだろうから聞くかどうか悩んでいたけど、滞在日数が少ないから思いきって聞くことにした。

「雷斗」
「ん、なに?」
「……お前さ、一度でも両親に反抗したことある?」
「あるに決まってるだろ。しかも、一度ぽっきりな訳ねーだろ」
「すげぇな……。俺にはそんな根性ないから」

 俺は物心ついた頃には自分の意思が消されていた。
 狭い世界で育てられ、将来へのレールが敷かれてる現状。
 両親に楯突くたびに跡取り息子と重圧をかけられる。
 時より思う。
 俺はなんのために生まれてきたんだろう、と。

「クラス全員の前で交際宣言してるやつがなに言ってんだよ」
「それとこれは別。最近テレビを観るようになって、自分の家庭とのズレに違和感があってさ。それまで親は絶対的な存在だったし、なにを言っても正論で返してくるから自分が間違ってるのかなと思ってしまうというか……」

 社会勉強の一環として日本に来たけど、世間を見ていたら自分の家庭がより狭い世界だということに気づいてしまった。

「テレビで人んちの家庭事情を学ぶことに驚いたけど、親に反抗しないお前にも驚きだな」
「もしかして普通じゃなかった?」
「当たり前だろ。本音をぶつけて分かち合うのが家族でしょ」
「……やっぱりそうなんだ。じゃあ、親に本音を伝えればわかってくれるかな」
「親に本音? お前、なにか隠しごとでもしてんの?」
「いや、別に……」

 この時期を狙って留学したことはもちろん、最後までやり遂げたいことがあることすら親は知らない。
 言ったとしても無意味だと思っているから。
 本当は日本に残ってあやかと幸せに過ごしたいけど、それは絶対に叶わない。
 だから、毎日時が止まれと願っている。


 ――18時過ぎ。
 ホテルで勉強していると、部屋の扉が開く音がした。
 扉の方へ目を向けると、ひまりが腕を組んだまま接近してくる。

「かぼちゃの馬車はそろそろお迎えの時間が来たようね」
「人の部屋に勝手に出入りするなよ。それに、俺はシンデレラじゃねーし。戻ったら強制的に牢獄に入れられるだけ」
「帰国まで残り2日。どっちにしても夢の時間は終わりなの。私たちは敷かれたレールの上に戻るだけ。それが運命なのよ」

 あやかと気持ちが繋がらない現状に加えて父親に口答えできない自分にイラついている俺は、逃げるように扉へ向かった。
 だが、ひまりはワンテンポ遅れてボソッと言う。

「これは……?」

 振り返ると、彼女が持っているものは机の上に置きっぱなしにしていたあやかの赤白帽子。
 絶対に誰にも触られたくない宝物だ。
 俺は足音を立てながら彼女の方へ行き、「触んなよ」と言って赤白帽子に手を伸ばすが、彼女はひょいと方向転換して帽子を眺める。

「帽子の側面に名前が。6−2美坂あやか……って! これ、あやかちゃんの帽子よね」
「……」
「どうしてこれを藍が持ってるの?」
「稟が小学生の頃に赤白帽子をなくしたことがあって、あやかから貰ったんだ」
「まさか、二人はその時に知り合いに?」
「いや、俺は知り合ってない。一方的に一目惚れをしただけ。でも、あの日からあやかが忘れられなかったから留学を機に近づいた。いま思えば最初は気になる程度だったけど、傍であいつの人柄を見ているうちに好きになってた」
「っっ!! なによ、それ……」
「お前には超えられないよ、あやかの正義感に。守られながら育ってきた人間に不足しているものをあいつが持ってるから。……つまり、お前と結婚することになっても好きにはならないし、あやかを忘れない。これが俺にとって一生に一度きりの恋だから」

 俺は赤白帽子を取り上げて部屋を出て行こうとすると、彼女は後ろから叫んだ。

「一生に一度きりの恋? ふざけないで! どんなに好きでもあやかちゃんとは別れなきゃいけない運命なんだよ?」
「……わかってる。それでもあやかが好きだ」
「私と結婚するしかないのに?」
「形だけのものなんてどうでもいい。お前がなにを言ってもあやかを愛し続けるよ。永遠に……」
「藍っっ! ちょっと待ってよ!!」

 俺は彼女の発狂を浴びたまま部屋を出た。


 ――向かった先はあじさい寺。
 あやかが好きなあじさいは、茶色くしなび始めて次の季節に向かう準備を始めている。
 次第に空からやってきた雫が、俺の頬を湿らせている水滴と一体化した。
 見上げると、放射状に雨が降り注いで俺の体を包みこんでいく。

「うっっ……あ゛あ゛ああぁぁっぁぁあああああ゛っ!!!!」

 俺は赤白帽子を握りしめたまま、はち切れそうな想いを爆発させるように全身の力を使って叫んだ。
 うっぷんを晴らそうとしても心の整理がつくはずないのに……。

 残り2日間。
 これ以上なにができるだろうか。
 こんなに辛い想いをするくらいなら、あやかに会いに来るべきではなかったのかもしれない。

「どうして俺だけぇぇぇええ!! ……どうして俺だけ縛られなきゃなんねーんだよぉぉおおおお!! う゛っああああぁぁぁぁ!!!!」

 同じ高校に通う奴らはみんな自由なのに、どうして自分だけ将来が決められているんだろう。
 いい学校を出て、親の会社の後を継いで、幼い頃から決められた人と結婚をする。
 果たしてそれが本当の幸せだろうか。
 留学するまでこんな世界があるなんて知らなかった。
 好きな人と幸せになることさえ許されないなんて。

 ……普通が羨ましい。
 でも、親にたてつく勇気がないから、膨れ上がっていく想いは切り捨てていかなければならない。