起床。今日も一日が始まる。
私は「ニンゲンモドキ」に分類されるまだ未確認地球内生命体。らしい。
24時間稼働する4台の防犯カメラに見張られ、研究員たちに世話をしてもらっている。
「おはよう。怜さん」彼はこの研究所の最高責任者。名前は彼岸。
後ろには彼の妻であるひとえが私の朝食をもっている
「おはよう。彼岸。」私はいつもの通りの表情を作る。
彼は私の健康状態をモニタリングし、データを記録している。
そのあとは私の髪を触る。白髪でとても長い。研究員たちが丁寧に毎日洗ってくれるのでいつもサラサラだ。
そして服を選んでくれる。今日は純白のレースをあしらったかわいらしい服だ。
彼はとても親切だ。いつも笑顔で声をかけてくれる。
「今日も愛してるよ、怜さん」
でもそれは私が”彼岸の恋人”である時だけだ。
彼は被検体の私にかわいらしい恋人であることを求める。
私は約3年もの間そのことを演じ続けていた。そもそも3年という時間すらもあいまいだった。
1年に1度訪れるという誕生日会を彼岸たちが開いてくれる。
覚えている限りそれが3回あったからここにきて3年だと思っている。それぐらい、曖昧。
だけど、彼がなぜこの役を私に与えたのかがわからない。
なぜひとえという妻がいながら私を恋人役にしたのかわからない。
恋人の先は妻になるということを私は知っている。本で読んだ。妻がいる人に恋人はいない。
私はいつもそれが不思議だった。でもそれを聞くことはなかった。聞いたからといってどうしようとも思わなかったからだ。
所詮、私は”ニンゲンモドキ”なのだ。
偽物に本物の気持ちはわからない。”ニンゲンモドキ”である私には彼岸の本当の思惑もわからない。
でも考えても仕方がなかった。わからないことを考えるのは嫌いだ。もうそんなことを思うことすら嫌だった。
今日はクラッシックでも聞いて過ごそうか。

「どーるちゃん」
この場所でそんな名前を呼ぶのはただ一人。彼岸の妻、ひとえだけだ。
彼女は彼岸が私に「怜」という名前を付ける前から私のことをそう呼んでいる。なぜかはわからない。聞いてもすぐに別の話題に変えられてしまった。
「私たちは実験にもどるからいつもどおりおとなしくしててね。」
「えぇ。もちろんよ。」
私は静かに答えた。
ドアが閉まる。
ショパンのピアノソナタ第2番の1楽章を流す。
この曲は静寂を演出してくれる。
彼岸は私のことを「怜さん」と呼ぶ。ひとえは私のことを「どーるちゃん」と呼ぶ。
なぜそう呼ぶのか、もう考えたくない。
白い壁によりかかる。
うとうとと眠ろうとした。
その時だった。
「おーい。」
くぐもった声。私は思わず立ち上がった。
「おーい。」
声のするほうへ近づく。
私の心臓が激しく鼓動するのを感じた。彼は自分と同じだとわかったからだ。
壁を軽く何回かたたく。声が聞こえなくなってくると私は答えた。
「ねぇ、そんなに叫んでどうしたの?私は怜..........あなたは誰?名前は?」
「ナマエ?なんだそれ。俺は....俺は........俺....おれ.......お.....お.....」
「お?」
「お……れは……」
それ以降声が聞こえなくなった。
彼(たぶん)の声を聴いてなぜここにいるのか初めて真面目に考えてみた。「被検体」だからなにかの実験に使われているのは確かであろう。
不意に彼岸の笑顔が脳裏に浮かんだ。
今だけは彼の笑顔が気持ち悪く思えた。
私は彼(たぶん)のことが気になった。
彼岸にこのことを話すべきだろうか?
「怜さん、今日はいつもより元気そうだね。なにかいいことでもあった?」
彼岸が私に尋ねる。私は「いいえ、なにも。」といつものように答えた。

あの声を聴いてから1週間がたったある日のことだった。またあのかすれた声が聞こえた。あれから毎日2回ノックした後声をかけている。
「あなたは誰?名前は?」
もうこの質問をするのは何回目だろう。でも質問せずにはいられない。
しかし今日は返答をしてきた。
「わからないよ。名前........知らない?ンンン?」
会話はあまり得意ではないらしい。
「俺は黄色っぽい部屋で言葉を覚えた。ここは....白い。名前は......わからない。」
彼はどんどん返答する。私は返事をせず、じっと聞いていた。
「レイは……なに?」
私は答えたかったけれど、答えられなかった。
もうそろそろこのことを彼岸に話すべきか迷った。
だが、その勇気は出なかった。なぜか彼の声をもう聴けないと思ったからだ。

1週間がたったある日のことだった。いつものようにノックした。
名前を尋ねることはやめた。代わりに普通の会話をすることにした。「あなたはどんな色が好き?」
彼は即答した。
「白と黒。」
私は少し驚いた。彼岸は白と黒の服は嫌いだと言っていたのを思い出したからだ。
でも、私は彼の好みに合わせることにした。
「そう……私も好きよ、白と黒。」
私は静かに答えた。そしていつものように会話を終えた。

もうすぐ彼岸が私に会いに来る時間だ。「おはよう、怜さん。」
いつもの調子で彼が言う。私は彼に「おはよう、彼岸。」と返した。
彼はどこか落ち着かない様子でいた。私は尋ねた。
「どうかしたの?なにかあった?」
彼は口ごもった後こういった。
「怜さん、君は俺のことが好きかい?」
「あたりまえでしょう?何を言っているの?」
あぁ、またこれかと思った。
彼岸は私に恋人役を振っているくせにこうやって愛を確かめる。私はただ彼岸の求める言葉をかけるだけだ。
でも、今回は違った。
「本当に?俺を愛している?」
「えぇ。愛してるわ」
不思議と彼に愛の言葉を伝えるのは嫌ではない。むしろ言わない日があれば私が私じゃない気がして絶望感に襲われる。
この言葉で安心したのかいつもの表情に戻った彼岸はいつものように仕事に戻っていった。

なぜ彼があんなことを聞いてきたのかわからないが、聞くことをやめた。
しばらくするとあのかすれた声ではなく、はっきり声が聞こえた。
「名前もらった。シロ。だって。」
「シロ……いい名前ね。」
私は答えた。
「ねぇ、レイはここ、出たいと思わない?」
シロは聞いた。率直な疑問のようだった。
「出る?どうして?」そんなこと、今まで考えてもみなかった。
「俺は外にいた。ずっと。でも、ここに連れてこられた。」
「外?」私は思わず聞き返した。
「そう。……いや、違う?わからない。でもここは暗いから嫌。でも、白いから好き。だけど、明るいところにいた。もっと、ずっと。レイ、覚えてないか?」
シロの声は今まででいちばんよく聞こえた。やっぱり彼は私と同じニンゲンモドキなんだろうなと思った。
根拠はないけれど、理由もよくわからないけれど、そんなことをふと思った。こういうことを「魔が差した」というのだろうか。
いや、絶対に違う。
「ごめんなさい。わからないわ……」私は素直に答えた。
彼は少し考えた後言った。
「外に出よう?一緒に。レイも。」
思いがけない提案だった。「出る……?私が?」
「そう。」
「でも私は……」
「外に出たいだろ?」シロは聞いた。
今まで会話してきた中で1番しっかりとした口調だった。

今までずっと外に出ることなんて考えなかった。出る理由もなかったし、そもそもそんな価値もないと思っていた。
でも、外って何?
意味としては知ってる。要はこの扉の外。”おとぎ話”の主人公たちが住んでいる世界。
この部屋で最低限の会話ができるようになるためにいろいろな本を読まされた。たしかに魅力的だった。
『火を噴くドラゴン』、『宝石のように輝くオーロラ』、『灰色の街』。
すべて小説からの引用だが私は直接見たことはない。見ようと思ったこともない。
でも、シロとの会話が私の心を揺さぶったのは事実だ。

いつもと変わらず朝が来た。いや、「朝という時間になった」というほうが正しい。
今日、シロは話に来てくれるだろうか?昨日の会話を思い出す。
「外に出よう?」
私は、出たいの?わからない。でも、シロとなら……

「おはよう、どーるちゃん」
今日はひとえだけが来た。彼岸はどうやら昨日の研究が佳境に入って睡眠不足らしい。
「おはよう、ひとえ。ねぇ……」
私は思い切って聞いてみた。
「ん?なぁに?どーるちゃん。」
ひとえはいつもの調子で答える。
「……外に出たいと言ったらあなたはどうする?」
「外に?あぁ、ここじゃないところに行きたいのね。」ひとえは軽く笑った後答えた。
「駄目よ。あなたが外に出てしまったらこの研究は終わってしまうの。期待に添えれなくてごめんなさいね。」
「ううん。いいの。ちょっと聞いてみたかっただけ。」
「そう。ならよかったわ。」
ひとえはそう言って部屋から出て行った。
この日、私から話しかけてもシロの声はしなかった。

次の日もシロの声はしなかった。
結論から言うと私はこの先もずっとシロの声を聴くことがなかった。
私はなぜか悲しくなった。もう彼とは話せないのだろうか?でも、私は悪いことなんてひとつもしていない。だから堂々としていればいいのになぜこんなに悲しいのだろう?わからない。私は自分が思っている以上にシロのことが好きだったようだ。


ある日のことだった。私の部屋の扉が開いて誰かが入ってきた。私が顔を上げると、そこに立っていたのは彼岸だった。「おはよう、怜さん。」彼岸はいつもと変わらずあいさつする。「今日は君に大事な話があって来たんだ。」
心臓がドクンと大きく跳ねるのを感じた。まさか……
「俺、怜さんのことをひとりの女性として認識することにしたんだ。」「え?」私は思わず聞き返した、でも彼は続ける。
「怜さんは俺にとって大切な人だ。ねぇ、そろそろいいでしょう?」
彼岸は私の服を触る。純白のレースをあしらったかわいらしい服だ。
横にはひとえもいる。
私にはどうして自分の服を触るのかよくわからなかった。
「怜さん、愛してる。怜さんは俺のこと、愛してる?」
「えぇ。もちろん愛しているわ。」
私はそう答える。いつものように、自然に。
「レイは……?俺のこと……」
シロの声がした。でも、彼はもうここにいない。
どんな姿をしているのかすらもわからない。だけど今すぐこの場に来てほしかった。
「怜さん……綺麗だよ。愛してる。」
彼岸が私にキスをする。
「私もよ、彼岸……」私は答えた。