辺りが薄暗くなってきて、黒稜は書斎の電気を付けた。
 すると何やら普段は嗅ぐことのない匂いが漂ってきた。野菜を煮たような匂いだ。

 黒稜は部屋を出ると、台所へと向かった。
 そこには桜がいて、なにやら忙しなく動き回っている。

『おい、何をしている』

 そう声を掛けると、桜は丸い目をさらに丸くして黒稜を振り返った。

 桜は耳が聴こえない。しかし黒稜の呼びかけに、はじかれるようにこちらを見た。
 ぱちぱちと瞬きを繰り返す桜は、黒稜の次の言葉を待っているようだった。

『私の声が聴こえるのか』

 黒稜の問い掛けに桜はこくこくと頷く。
 桜は不思議そうに周りの物をこつこつと叩いたり、ふんふんと小さく何か言葉を発したりしている。
 しかしその物音や声は相変わらず聴こえることはなく、桜はまた首を捻っていた。

『夕餉の支度をしていたのか』
「はい」

 桜は小さく返事をする。

『余計なことはしなくていい。妻の勤めだとかも考えなくていい。好きに過ごせ』

 黒稜はそれだけ言うと、さっさと書斎に戻ってしまった。
 また一人残された桜は、困ったように眉を下げた。
 しかし桜は調理を続けると、完成したものを盆に乗せ、黒稜の書斎の前へとやってくる。

「旦那様…」

 小さく声を掛けた桜は、お盆を書斎の部屋の前に置いた。
 食べてくれるかは分からないけれど、せっかく作ったのだ。ひとまず置いておくことにする。
 襖の閉められた書斎にぺこりとお辞儀をして、桜は下がることにした。